六
次の昼。
色吉は羽生多大有の供で両国に来たとき、鶴屋に寄った。出るまえに羽生に「今日は回向院の鶴屋という水茶屋に行ってみたいんで」と告げておいたのだ。あいかわらず多大有はなにも応えなかったが、こうやってちゃんと鶴屋にあがりこみ、あいているところに陣取ってくれたのだった。
店の広さに、色吉は驚いた。四、五十畳はありそうだ。茶汲み女が客の合間を縫って忙しく立ち働いている。ひいふうみい、と数えてみると三人いた。しかしこのまえの娘はいない。
「なにあげましょか」
愛想よく声をかけてきた女は中年で、おそらく店の女将だろう。
「水と茶をひとっつつ頼む。ところでお常さん、というのはどのひとだえ」
え、と女将が真顔になった。
「あの娘、なにかしでかしたんですの」
「いや、そうじゃねえ心配にゃおよばねえ。お常さんの友達についてちいと聞きたいことがあるだけなんだ」
「はあ」と、女将はまだとまどった様子だ。
「どの人だい」
「それが、いないんですよ」
「いない?」
「二、三日まえ、いやもっとまえかな、いきなり来なくなっちまって」
お常がこの店の他の二人のうちのどちらでもない、となると、やはりこないだの娘がそうだったのか。
「それで長屋にも行ってみたんですけど、そこにもいなくて」
女将は話好きのようだ。ありがたい。
「ご近所にも聞いたんですよ、そしたらやっぱりそのまえの晩から戻ってなかったみたいで」
「家族はなんと言ってました」
「それがお常は一人暮らしだったんですよ。父親は小さいころに死んで、それからおっ母さんと二人暮らしだったんですけど、これは去年、いやあれはもう一昨年か、男といなくなっちまってね」
念のため住処を聞いてから、色吉は礼を言い、水代に色をつけて払った。女将はまだ話したそう、というより色吉から事情を聞きだしたそうにしていたが、他の二人が横を通るたびに声をかけるので未練がましく去っていった。
色吉はひと息で茶を飲みほした。旦那を見ると、滑らかな動きで椀を持ちあげ、滑らかな動きでひと息に水を飲みほした。
水なんか飲んじまって、ぜんまいに悪くないんだろうか。色吉は心配になったが、羽生はなにごともなく立ちあがり、店を出ていった。
羽生の旦那は滑るようにどんどん移動していく。見ているだけだとわからないが、ついていこうとするとかなり早足だということがわかる。やっと追いついたときには、色吉は軽く息を切らしていた。
「旦那、ここは」
お常の長屋だった。家主の軒に声をかけると、そこのお内儀さんが相手になってくれた。鶴屋の女将が言っていた通り、お常は五日ばかりまえから姿が見えないということだった。それから裏長屋をたずねることにする。
「すいやせん、旦那は待っていておくんなせい」
色吉ひとりで木戸をくぐった。
井戸のまわりでおしゃべりをしていたおかみさんたちに愛想よく話しかけると、「まあ、名前の通り色男だねえ」などと喜びながらいろいろと話してくれた。
「たしかにここ何日か見かけないねえ」
大家のお内儀もそうだったが、ここのご新造さんたちもさほど心配していないらしいのは、お常のふだんの素行の問題らしかった。
「なにしろひと晩帰ってこないなんて日常茶飯事、ひどいときにゃ三日も四日も留守にするなんてしょっちゅうだからね」
しかしお常は夜はそんなだったとしても、仕事には真面目だったのか、店から人が訪ねてきたのは初めてだった。
「つまり、お常さんは夜にここに帰ってこなくても、つぎの朝にはちゃんと鶴屋に出勤していた、ということですかい」
おかみさんたちはうんうんとうなずく。
「もっとも、朝店に出ても、とちゅうで抜けだしちまうことはしばしばだったらしいね」
「どこで怠けてるんだか」「ねえ」「やっぱりあんまり真面目とはいえないわなあ」「ねえ」
おかみさんたちは顔を見合わせてひとしきり含み笑いをするのだった。
「それでもお常ちゃん目当ての客も多かったから馘首にもできなかったみたいだよ」
「そういう客のうちに、お常さんのかどわかしを企てるような物騒な輩はいませんかえ」
「さあ、あたしらもお常がよくもてたって話を聞くだけで、相手についてはさっぱりだね」
「お常ちゃんは感心なことに、ここに男を連れ込むようなことはなかったからねえ」
「それどころか、あれで案外初心なんだよ話をするとさ」
「そうそう」
「意外よねえ」
「そんで、おねえさんがたのうちに、お常さんの行き先に見当のある人はおりますかえ」
「あらやだ、おねえさんだなんて」「うまいこと言うね、この色男は」「あたし、顔がほてってきちゃったわよ」「ほんと、かえってこっちが恥ずかしいわよ」「こんなおばさんたちをおだてたって、なんにも出ないよ」
色吉は礼を言って退散した。
木戸を出ると、羽生のまえに、ふたりの侍が立っていた。大柄でたくましい、野武士のような男が旦那の目のまえで向かいあい、そのややうしろに線の細い侍が控えている。年はどちらも四十くらいだった。
「どうされやしたか」
色吉が割って入ると、大きな野武士がぎろりとにらんできた。大きいとはいっても、羽生よりは頭ひとつ小さい。
「さっきからこやつ、なにも答えやがらんぞ、こいつは聾か唖か、それとも両方か」
「すいやせん、まったくしゃべれねえわけでもねえですが、むかし喉にけがをして、声を出しづらいんで。勘弁してやってください」
色吉は頭をさげた。
野性味があるのはいいが、体臭まで獣くさい。色吉は顔をしかめかけ、困りきったような顔を作ってごまかした。
「まったくしゃべれぬわけではない、というのならばすなわちしゃべれるということであろう」
うしろの細い侍が言った。「なぜ慈按の問いに答えぬのだ」
そんなことを訊かれても、色吉にだってわからない。そもそも色吉だって、旦那の声を聴いたのは初めて会ったときだけで、それもたったひと言だった。
「ええと、つまり、その、なんだ、だから、いざ、っていうときにしか声を出さねえんで」
「いざ、というときとはすなわち大事なとき、なにか重大なときということか」
「そうなんで」
色吉はにかっと笑いかけた。
「どのくらい大事なことだ」
どのくらい、と言われても。
「ええ、よっぽど大事なことなんで」
「よほど大事なことでないと、話をしない」
「へい」
「すると、わたしの問いは同心にとって大事ではない、ということであるな」
色吉の笑いが固まった。
「いや、そういうことではねえんで」
「ではなぜ同心は返事をしないのか」
「へえ、つまり」
細いのから大きいのに目を移した、ときにひらめいた。「つまり、お供のお方が問われたからなんで」
「なんだと」
慈按が目をむいた。「おれなぞ相手にしないというのか、木っ端役人風情が生意気な」
「ほう」
主人らしい細い武家が目を細めた。「わたしが問うたら答えるのだな」
「へい、お侍さんがじかでお尋ねになれば」
色吉はちらりと羽生を振り返った。旦那、頼んますよ。
「このわたしが不浄役人などにじかで話せと申すか。まあしかし、すでに小者ごときに口をきいてやっているのだからそれもよいか。やってやろう」
そして羽生に目をやると、「おまえ、こんなところでなにをしている」
色吉の思いは旦那には届かなかったようだった。背後から旦那の声は聞こえてこなかった。
「なにをしている、とこのわたしが問うておる」
ああ、旦那。色吉は目をつぶりたくなったがなんとかこらえて笑顔を浮かべていた。細い侍が色吉を見る。
「わたしの問いは大事ではないようだな」
「いや、それが、今日は喉の調子がことさら悪いみてえで。すいやせん、お侍さん」
色吉が頭をまたさげる。「あの、なんとお呼びしたらいんでやしょう」
「小者風情に名乗る名などないわ」
「へい、おそれいりやす」
「小者に謝られたところでそいつの誠意が感じられん」
侍はまた羽生に目を向けた。「話せぬ、口がきけぬというのならば、そこに両手をついて土下座でもしてもらうかの」
ああ、旦那……。まさかそんな真似が、旦那にできようはずもない。色吉は今度こそ目をつぶって天を仰いでしまった。しかし相手はどう見ても旗本、まったくいやな奴にからまれたものだ。いきなり手打ちとか、ごめんだぜ。
困り果てて羽生を振り返るとそこに見えなかった。と思ったらなんと旦那は地にひれ伏して額を土にこすりつけている。
「だ、旦那……」
色吉は涙が出そうになった。こんな情けねえ姿、旦那にこんな情けねえ格好をさせるなんて、とうてい許せねえ。
色吉は急いで自分もひれ伏して地面に頭をこすりつけた。
「まあよい。では小者に訊くが、こんなところでなにをしておるのだ」
「へい、お上の御用でして」
「だからそれはなにかと訊いておる」
頭を蹴とばされた。
「ここの、お常って娘を探してるんでさ。五日ほど行方をくらましてるそうなんで」
「なぜそんな娘なぞ探す」
「へい、ついそこの水茶屋の看板娘なんで、女将さんになんとかしてくれと頼まれやして」
「公儀の手先がそんなことまでするのか。なぜそこまで水商売のものに親切にしやる」
「へえ、あの、けちな小遣い稼ぎってやつで」
「ふん。小者だけならまだしも、同心までもか。ま、しょせんは不浄役人、あわれなことよの」
「へい、おそれいりやす」
「まあ、そのようなことはよすがいいぞ」
「え。といいやすと」
「娘の尻なんぞ追うな、ってことだよ」
野太い声だった。慈按のほうが言ったのだ。
「な、なぜでやしょうか」
「不浄役人と小者ごときが、逆らうな」
主従二人の侍は、旦那と色吉の頭に唾を吐いたうえ、ひれ伏しているうしろ頭をわざわざ踏みつけて去っていった。