二
夏まっさかりの六月の十五日。
今年は山王祭りはないが、代わりに氷川明神祭礼があり、他にも浅草三社権現や橋場、山谷、隅田川などで祭りがあり、ほとんどで神輿を出すから、同心はみな警護に出払っていた。
当然、羽生の旦那も……と色吉ははりきったが、さっきから旦那はどこかの祭りに駆りだされるわけでもなく、いつもの両国神田あたりをその歩みだけは滑らかに歩いているだけだ。
あちこちで神輿がかつがれ、見物の人だかり、境内や神社内の屋台はいつもより数を増し、往来は人であふれ、御府内全体で浮き足立っていた。
――ああ、旦那、やっぱり。
色吉は心のなかでそっと嘆いた。うすうす感づいてはいたが、やはり羽生の旦那は番所内で頼りにされていないのではないか。いや、頼りにされていないどころか、同心仲間からもどこか莫迦にされている節さえあった。
――それもこれも、手柄をぜんぶ人に譲ってるからなんだけどなア。
ほんとのことを報告して多大有がじつは絡繰人形だなどと露見してしまわないように、背に腹は代えられない、というのが羽生の父歩兵衛の言だった。
――不憫な。
歩兵衛が多大有のことに触れるときによく使う言葉を、色吉もついつい思い浮かべてしまう。本人は気にする様子もなく見廻りを続けているのがいじらしい。
今日は両国から神田へは向かわず、日本橋のほうに戻っていた。祭り騒ぎを避けて静かなほうへ廻るということなのだろうか。
多大有は珍しく、なにに興味を惹かれたのか摂津屋という呉服屋に入っていった。客の姿はまばらで、やはりふだんよりは少ないようだ。天井からはふつうの店のように売り場を示す札ではなく着物や反物がぶらさがっている。
主人らしき恰幅のよい男が近寄ってくる。
「これはお役人さま、お見廻りご苦労様です」
愛想よくあいさつしてきたそのとき。
「おまえらおとなしくしろ!」
黒装束の団体が入ってきた。店にいた者たちは客も店員もなにが起きたかわからず、連中が土間からあがりこんで自分たちを抑え集めるのをぼんやりと見ているだけでされるがままだった。
「同心もいるのか」
頭目らしき男が店主と羽生のまえにやってきた。「おかしな動きをしたらほれ」と集められた客や店員に視線をやって、「あいつらの命はないぞ」それから目を店主に戻し、「もちろんおまえらもだ」
色吉はというと、団体が入ってきたと同時に多大有につかまれ三間ほどもうえに放り投げられて必死で梁にしがみついたところだった。
黒装束が三人、羽生を取り囲んだ。ひとりが腰の大小を取りあげ、他の二人が大黒柱に縛りつけた。
「蔵の鍵をよこせ」
頭目が店主に言った。主は摂津屋惣衛門といったが、上方での強盗団の悪評は聞いており、これがその一団かもしれないと考えて逆らわずうなずいた。
「こちらにどうぞ」
太客なみに丁重に腰をかがめる。帳場に向かおうとしたとき、表から声がした。
「北町同心宇井野である。ここは囲んだ。おまえらおとなしくお縄につけ」
黒装束団の行動は早かった。表に宇井野の他に十人からの捕方が集まってくるのを察知して、すでに土間に集結していたのだ。
宇井野が口上を言い終わる前に西向きに三枚、南向きに五枚あった雨戸がすべて閉じられた。
「おい――」
宇井野が声を張りあげようとしたとき、なかから声があがった。
「こっちには人質が三十人からいる。客、店の者、それから同心もいるぞ。生っ白い不気味なやつだ。まあ見た目は不気味だが、おとなしくて素直なやつだな、気に入ったぜ」
「羽生か。あの莫迦が」
「すぐに退散しろ。さもなくば人質がどうなっても知らんぞ」
宇井野お抱えの御用聞、馬道の武佐蔵が寄ってきた。
「どうしやすか」
宇井野は厳しい顔をしている。
「……まずはなかの様子を探れ」
武佐蔵の子分のひとりが庇屋根に乗って上方の明り取りから覗くことになった。
他の小者や手先どもは集まり始めた野次馬を制し、さがらせる。




