一
初夏の晴れたある日、市中見廻りのために番所を出た羽生多大有は、しかしその途端にくるりと振り返り追従していた色吉に向き直ったのだが、こんなことは初めてだったので色吉は驚いた。
多大有は片腕を丸めてなにか肩に担いでいるかのような身振りをした。色吉はピンときて、
「わかりやした、呼んできやす」
と言って駆けだした。八丁堀近くの雲助のたまり場に来てみるとうまい具合に龍と樽がいた。
新大橋のたもとで羽生の旦那に追いついた。
旦那はそれまではぶらぶら歩いていたようだが、色吉たちが追いつくと足を速めた。駕籠かきの龍と樽はもちろん色吉も足は達者だから、一同はすぐに亀戸村まできた。
見廻りの常道からは外れている。
――ここは。
このままいくと中川ほとりの、旦那の発条小屋のあたりだが……。
と思ったら案の定、羽生はそのまま小屋に入っていった。
こんな真っ昼間から発条巻きですかい、と続いてなかに入った色吉はぎょっとして立ちどまった。
異人の女が畳のうえからこちらを見下ろしていた。
身に着けているのは釦留めの体にぴったりの羽織にズボンの洋装だが、唐風にも見えた。しかし金色の長髪に青い眼、紅い唇に陶器の肌が映える怖いほど整ったその顔は、オロシヤか英吉利か、南蛮人のそれだった。
「ほう」
駕籠から降りていつの間にか土間で色吉に並んでいた歩兵衛が感心したように嘆息をもらした。そして、
「あんた、どっから来なさった」と訊いた。
女は二尺四方ほどの箱を胸に抱えていた。髪は結っておらず、そのまま肩まで垂らしていた。
「タミ、リテ、ポレ」
女が言った。色吉にはそう聞こえた。やはり異人なのだろう。「ヌムライ、ヤータ、ビテ」
異人女の持っている箱は黒光りして、鉄かなにかの金属でできているように見えた。重たそうだった。
「うむ。なにを言っとるかわからんが、どうしたものか。その箱はなんじゃろうな」
と歩兵衛が手を伸ばすと、異人女は箱をかばうように身を引いて、
「ラア、ミャ、ウィアー」
と言った。
「大事なもののようじゃな」
多大有が戸をくぐり、ふたたび外に出た。ついていくと小屋の横のススキ生い茂るなかに入っていったが、そこに巨大な茶釜が転がっていた。
差し渡し三間あまり、高さ一間半、底には黒く鉄板が張られ、上部は硝子障子で透明だった。
「これはいったいなんじゃ」
と歩兵衛が振り返ると、そこにいつの間にか来ていた異人女が、
「ケ、イクク、ケミ」
と答えた。さらに女は身振りをくわえながら、「ランダ、ミーヤ、ソラ、ナチヤ」と続けたが、箱はしっかりと胸に抱えたままだった。
「うん」
歩兵衛はうなずいて、「なにを言っとるかわからんが、こんなところでもなんじゃ、屋敷のほうに移るか」
異人を駕籠に乗せ、歩兵衛は色吉と並んで羽生邸に戻った。いまは隠居の身とはいえ前年まで同心だっただけに、歩兵衛は健脚だった。
本来ならば番所に届け出るところであろうが、「事情もわからぬのに牢に入れられたり死罪申し渡されても気の毒」との歩兵衛の言で、しばらく女を羽生宅に置くことになった。
留緒は異人をひと目見るなり夢中になってしまった。「きれい」と引き寄せられるように女に近づいていく。
「シエ、ル、クル」
理縫は「こわい」と言って留緒のうしろに隠れていたが、留緒が異人に近づいていくとてけてけと色吉のうしろに隠れた。
「シエ、シエ、ル、クル」
女は繰り返し、手を伸ばして留緒の手を握った。
「しえ……それがおねえさんの名前なの?」
どうやって通じあったのか、色吉には理解できなかったが、異人女は思永と呼ばれることになった。




