三
色吉が同心羽生多大有の町廻りの供で柳原土堤にきたとき、川縁にずいぶんと人だかりができていた。羽生の旦那はまっすぐにそこに向かう。
色吉はそれを追い越し、駆けつけながらそこにいた人たちに声をかけた。
「北町の羽生様だ、なにがあったんでい」
人垣が割れ、そのむこうが目に入る。「と、」
同心の宇井野がこちらを向いており、馬道の手先もにやにやとこちらを見ていた。
そしてそのあいだから、覚えのある強烈な悪臭が漂ってくる。どす黒いなにかの塊りが柳のしたに転がっていた。
「いまごろ、それも定廻りの途中、たまたまか。朝も早くから番所のほうに届けはあったというにな」
宇井野は苦い顔をしたが、その奥には嘲り笑いが透けて見えるようだった。きっと宇井野が羽生には知らせないように手を回したに違いない……と色吉は勘ぐった。
「おそれいりやす」
だがもちろん色吉は下手にでる。「おそれいりついで、といっちゃ言葉が悪いが、こちらにも見せてやってくんなせえ」
「また吐くなよ」
宇井野はまたできあがりつつあった人垣をかき分けて歩き去った。
「また吐くなよ」
そのあとを子飼いの手先がちょこちょことついていった。
振り返って遺骸を見ると感心なことに、ちゃんとむしろをかぶせてあった。その横に羽生の旦那が立ち、見おろしている。色吉はそのわきにしゃがむと、むしろに手をかけた。
おそるおそる持ちあげると、臭気が鼻を刺し目が痺れてくる。おもいきって、ひと息にむしろをはがした。
ひと月まえの稲荷神社のなかの死体と同じ、無惨なものだった。周囲の野次馬どもも体をひく気配があった。
それでも二度目だったからか、色吉は冷静に遺骸をあらためる余裕があった。遺骸は、腹を裂かれて腸が引き出され、いくつかの臓器が足らないようだった。腹は刃物ではなく、動物の爪で裂かれたように見える。
まだ若い女で、先月の死骸の女と年は同じくらいだろう。そうだ、あれからちょうどひと月だ。あれはここから五町と離れていない、あの太助の住んでいるところにほど近い稲荷だった。
羽生はしゃがみ、女のあごをちょっと持ちあげた。色吉はそれを見て、お幹の遺体のときに感じた引っかかりがなんだったのかわかった。
昼から色吉はひとりで探索をはじめ、夕方に羽生の退勤の供をして八丁堀にいくと、今日の成果を隠居の羽生歩兵衛に報告した。
このとき色吉は、娘がむごい殺されかたをしたということだけを伝え、死体の様子などは詳しく話さなかった。ご隠居にあまり残酷な話を聞かせたくなかったし、自分としても話して気持ちのいいものではないからだ。しかしのちに色吉は、このとき細かく話さなかったことを悔やむことになる。
夕食に呼ばれ、そのあとも雑談などしていたので帰途についたときは四つを回っていた。
神田の長屋通りを歩いているとき声がかかった。
「おう色の字の」
岡っ引の太助だった。
「なんだそりゃ」
「へっ、へっ、いろいろ呼びかたを考えてるのよ」
太助はこの近所に住んでいる。色吉が通るのを待ち構えていたのだろう。
「ひきずってんじゃねえよ。あの野郎の名前を思いだせないときにごまかしておもねろう、ってんだろ。馬道の……ほら、あいつだ、えーと……」
「ほれみろ、おめえさんだって思いだせねえじゃねえか。いろいろ考えといたほうがいいぜ。あの馬道の……なんだ、あの、馬の字は、宇井野様の子飼いだからな。怒らしたりすると面倒なことになるぜ」
「おめえだって覚えてねえじゃねえの。つうか、馬の字なんて呼んだら、かえって怒らねえか? 思いだせねえほうがましなんじゃねえか?」
「じゃあ本人には言わねえよ」
「それがいいな。じゃあな、おやすみ」
色吉は歩きだした。
「おう、じゃあな」
「親分っ」
どこにいたのか、卒太が言った。
「いや待て金助町の」
太助が言った。「ちいとつきあえよ。例の事件の話でもしようじゃねえか」
ふたりは太助がひいきにしている小料理屋で向かいあった。卒太と根吉は衝立を隔てて席をとった。太助は肴を頼んでつまみながら飲んでいるが、色吉はちびちびとやっているだけだった。
「あの稲荷でみつかったのは、お幹っつって、本所の水茶屋で働いてて、抜け癖で評判が悪いのよ」
「そりゃもう聞いたぞ」
「そうか、じゃあおめえが話す番だ」
「おれの話だって先月と変わりねえぜ」
「すっとぼけんじゃねえよ、そこん土堤で女が殺されてたろう」
「その話だったら、あんたの縄張りだ、あんたのほうが詳しいんじゃねえの」
「おめえおいらたちよりはやく現場にいたじゃねえか。たまたまだろうがよ」
「なんだ、あんときおめえさんたちもいたのか。なぜ来なかったんだ」
「いや、えーと、おめえおいらたちよりはやく現場にいたみてえじゃねえか。たまたまだろうがよ」
「なんで言い直してんだ」
「おめえおいらたちよりはやく現場にいたみてえじゃねえか。たまたまだろうがよ」
「ああそうか。羽生の旦那がいたから出てこなかったのか。さてはどっかに隠れてやがったな」
「うるせえそんなこたどうでもいいから話聞かせろよ」
「たまたまおれのほうが先に現場にいったっつうだけで、あんたの縄張りだろ。さっきも言ったがおれより詳しいだろ」
「ちぇ、おめえが嗅ぎまわってるのは知ってんだぜ。とりあえず女の身元だけでも教えろよ」
「女の身元……って、あんたそれもつかんでねえのか、縄張りなのに」
「縄張り縄張り言うなよ。ちくしょう呑みすぎたな、ちいとはばかり」
太助は立って、おもてに出ていった。
「色吉の親分さんよ、あんまりうちの親分を困らせないでくんねえな」
太助の背後にあった衝立の向こうから太助の子分の声が言った。根吉と卒太が衝立の陰から顔をのぞかせる。
「ちぇ、親分とかくすぐってからやめてくれよ、子分もいねえのに。それにおれはあたりまえのことを言ってるだけで、あいつを困らしてるつもりはねえんだが」
「実ぁおれたちが見るまえに死体が運ばれちまったんだよ、だからだれも女の顔を見てねえんだ」
根吉が言った。
「女がやられた、しかもまぁひでえ殺されかたをしやがった、ってことさえ野次馬から聞いたんだから」
卒太が言った。
「だから意地悪言わねえでここはひとつ、よ、頼むよ色吉親分」
根吉が言った。
「しかしあんたら、そこまでうちの旦那が怖えのか。そんな怖がるこたないんだけどな」
「とにかく、おれたちが頼んだってことは親分には内緒で頼むぜ」
卒太が早口に言った。太助が厠から戻ってきたからだった。
「んでよ、おいらの思うに先月の稲荷の女、あのお幹って女が殺された事件があったろう。様子を聞いたところじゃ、今日の事件も同じ野郎が手をかけたんじゃねえか」
色吉のまえに胡坐をかくと、さっそく太助が言った。
「なぜそう思った」
「なにしろよ」
ここで太助は顔を近づけてきて声を落とした。「今日の女も腹を……なんだ、その……ひどくやられてたんだろ?」
まわりは他の客どもがにぎやかで騒がしく、聞かれる心配もなかったが、ついこうなる。
昼間の遺骸の様子を思い出して、色吉は顔をしかめた。椀の酒をちびりとなめる。
「ああ、お幹と同じに、心と肝の臓がなくなってた。名前はお蘭。浅草の水茶屋で働いてた」
「それもお幹と同じか。あっちは本所だったけど」
「年も同じ十七だ。おかしなことにときどき店からいなくなったり、店に出てこなかったり、なんて怠け癖まで同じだったよ」
「そうか。しかし浅草じゃあ、あの馬道の――」
太助は名前を思い出そうと少し考えた。「――の縄張りにもかかってくるんじゃねえか」
が、結局あきらめてそう言った。
「住んでたのもあのあたりだからな、堂々と絡んでくるぜ」
「もっとも、宇井野様の威光をいいことに、あの馬道の……はもともと縄張りなんざお構いなしだけどな」
太助は椀に残っていた酒をひと息に飲み干した。「よし、明日からそのお蘭と、まえのときのお幹についても調べなおしてみらあ。恩に着るぜ」
「なんだ、張り切ってやがるな」
「おめえみたいな旦那持ちたあ違うからな、ここらでいっぱつ手柄を立てにゃあよ。それにふさわしい事件だぜ」
「同心の旦那たちは、宇井野様の見立てどおり大きな動物、山犬だか狼にでもやられたと思ってるようだがよ」
「だったらその山犬だか狼だかを挙げるまでよ」
「だけどよ、お幹んときも、けだもののしわざにしちゃあなんか引っかかったんだけどよ」
「そういやそんなこと言ってたな」
「今日のを見てわかったんだ。あんただから教えてやるが、けだものならまず喉笛を狙いそうなもんじゃねえか。でも先月のお幹といい今日のお蘭といい、喉はきれいだった」
「へ? なにわけのわからねえこと気にしてやがる。まあ、おめえがそんなに気になるってんなら、おいらがその山犬だか狼だか捕まえたら聞いといてやらあ」
「おう……そいつはありがとよ」
店を出たところで色吉は太助たちと別れた。
「じゃあな、色の字」
「おう、ごちそうさんだったな、与の字」
二、三歩いきかけたところで卒太が「親分っ」と言った。
「与の字じゃねえ、たの字とかふとの字と呼びやがれ」
太助は振り返ったが、明るい月のしたにももう色吉の姿は見えなかった。




