二
「とにかく悲惨なのよ、おめえ、大丈夫だろうな。自分から首を突っ込んできといて怖気づくんじゃねえぞ、御用聞きの名折れだ」
その死体が発見されたのは、下白壁町の太助の住む長屋にほど近い、道に面した稲荷神社の境内だった。
「そんなことより、見つかったいきさつだの、死んだ奴の身元だの、とにかく知ってるだけ聞かしてくれよ」
岡っ引ふたり、太助と本郷金助町の色吉が並んで歩いている。太助の子分の卒太が先導していた。
「見つけたのはお粂さんつう近所のばあさんだ。毎日六つに境内の掃除をやってるんだが、そこに無残なホトケが寝転がってたんで腰を抜かした。這って近くの長屋に知らしたってことだ」
「神社に仏はおかしいが、まあいいや、そんでホトケさんの身元はわかったのかい」
「おう、ばあさんの知らせに近所のもんがわらわらと集まってきて、そんなかでお定さんという近所に住むおかみさんが近所の連中が止めたのに死骸を見ちまってぶっ倒れちまった」
「なるほど、ホトケさんはそのお定さんの娘か」
死体が若い女のものだ、ということは聞いていた。
「そう思うだろう? ところがそうじゃないんでえ」
「どういうことだ。そうか、娘の友達とか、友達の娘とかか?」
「いや、これまでに見たこともない娘だそうだ」
「じゃあなんでお定さんは倒れたんだ」
「死骸があんまりむごたらしかったから気絶しちまったんだ」
「うん……そうか。それで、ホトケさんの身元は?」
「それはまだわからねえ」
「なら端っからそう言やいいじゃねえか。お定さんの話はなんだったんだよ」
「そらおめえ、そんだけ悲惨なホトケだってことだよ」
「いや、だったら――」
色吉は言葉につまった。こいつと話していると、どうも調子が狂う。
「ほれ、ついたぜ。覚悟を決めて見ろよ」
神社といっても小さな鳥居の向こうのふた坪ばかりの土地のうえに小さな祠があるだけだ。その狭い地面に、むしろが盛りあがっていた。鳥居の手前からすでに血腥さにむせそうになる。
むしろのわきに、太助のもうひとりの手下、根吉が待っていた。
卒太が入っていって、むしろをはさむかたちで立った。
「うむ」
太助が鷹揚にうなずくと、卒太と根吉はしゃがみ、むしろの隅をつまみ、持ちあげた。
その下には女の死体があり、若い女だったが生きていたときはさぞ美しかったと思われるその顔は青白くゆがんでいた。しかしほんとうにひどいのはその体だった。着物はほとんどはぎとられ、白い体の下にわずかにのぞいているだけだった。しかしその白さは残念ながらほとんど見えず、血のついていない部分がわずかに残っていたから白い体だということがかろうじてわかったのだった。女の腹は裂かれ、内臓が体外にはみ出し、強烈な異臭を放っていた。どんよりと血腥い風が重く吹きつけてきたようだった。
「こりゃひでえ」
そこらじゅうに吐瀉物がまき散らされていた。死体にもかかっている。
色吉の喉にもすっぱいものがこみあげてきた。かなり無理をしてそばに行ったものの、しゃがんでよく見るつもりだったが涙がにじんできた。
日も高くなってきて、暖かくなってきて、においがますます立ち込めてきた。
口で息をしているのに、それでもそのにおいは容赦なく鼻を刺激してくる。
「うん、だめだ。悪いがちょっとはずすぜ」
色吉は青い顔をして稲荷から出ていった。もったのは出てすぐまでだった。すぐわきの溝に向かってげえげえやり始める。ここらにも、そこらじゅうに反吐が拡げられている。溝のなかが多いが、はずれたのが道にも散って、酸味のきいたにおいを放っていた。
「へっ、だから言っただろうが。だらしねえな」
太助も出てきた。
「あんた、よく平気だな」
色吉は胃のなかのものを出しおわって、しきりに唾を吐いていた。
「おめえがだらしないんだよ。岡っ引ならあんな死骸のひとつやふたつで……うっ」
太助は口を閉じると、喉の奥でごろごろと低い音をさせた。頬がみるみるふくらんでいったが、今度はそれをごくごくと音をたてて飲みこんだ。
「汚えなこの野郎!」
色吉は我を忘れて叫んだ。
「けっ、反吐をそこらじゅうに巻き散らかすほうがよっぽど汚えだろうが」
「親分」
「もう骸は運んでもいいですかい」
卒太と根吉が小さな鳥居を出てきて言った。
「うっ」
「うっ」
ふたりは同時にそう言うと口を閉じ、ごぼごぼと喉を鳴らすにしたがって頬をふくらませ、それからごくりと飲んだ。
「おめえらもかよ!」
そこに道のほうから声がかかった。
「おうおう、なに騒いでやがる。ご検視がまだだ、遺骸を運んじゃあ困るぜ」
斜め髷に尻っぱしょりの小さな男が近づいてきた。
「あんたは、馬道の――」
色吉は言った。浅草雷門らへんが縄張りの岡っ引だ。「……」
「そうだ、馬道の――」
太助も言った。「……」
「武佐蔵だ。おまえらいいかげん人の名前覚えろ」
年は太助よりもうえの三十半ばだ。そのうしろには同心がいた。
「ほれ、道を開けやがれ、ご検視だ。宇井野さまのお通りだ」
武佐蔵は十手を振り回した。
「おおっとそうでやしたかこいつぁすいやせん、じゃああっしらはこれで失礼しやす。だよな、下白壁の」
色吉が言った。
「おお、そうしようかい、おいらたちゃもう拝見させてもらったんで。なあ、金助町の」
「ちっ、ごまかそうとするんじゃねえ。てめえらがおれの名前を忘れたこたぁわかってるんでい」
「へっへっへ、しかし御門からずいぶんと出張ってきやしたね」
色吉がこびるように言うと、
「けっ、武家地だの寺社地にまでしゃしゃりでるやつに言われたかねえぜ。さあ旦那、足元にお気をつけなすって」
武佐蔵のうしろを歩いていた同心がそれを聞いて色吉を見た。
「おまえが色吉か。羽生を顔にしていろいろ首を突っ込んでいるようだが、あまり調子に乗らぬようにな」
宇井野は武士のような口調で言い、蛇のような目で色吉の背筋を凍らせる。「しかしあの羽生というのも、毎日毎日同じところをぐるぐる回るだけで仕事らしい仕事もせず、よく馘首にもならぬものだ。あれだったら人形でも勤まるわ、ははははは……」
武佐蔵と宇井野は鳥居をくぐって稲荷のなかに入っていった。
「おい、おめえ、腹が立たねえのかよ」
太助が言った。
「えっ、なにが」
「なにがじゃあねえだろう。旦那のことを人形とまで言われて、怒らなくっちゃ駄目だろう」
「いや……」
色吉は虚を突かれた。旦那は本当に人形だからなんとも思わなかったのだ。
「なんでえ、ぼぉっとしやがって、だらしのねえ」
色吉は一言もなかった。
「その掃除のばあさんは昨夜は死体どころかなにもなかったと申しておるのだな」
「へい」
境内ではご検視が始まったようで、宇井野と武佐蔵が話す声が聞こえてきた。
「へえ、さすがにご検視のお役人は慣れたもんだ。あんな凄まじい遺骸を見ても落ち着いたもんじゃねえか」
色吉は素直に感心した。太助は面白くねえ、という顔つきだ。
「それで、同じばあさんが今朝この死体を発見したのだな」
「その通りで」
「ふむ。そうなればこの女は、昨夜六つから今朝の六つまでのあいだにここで殺されたか、あるいはどこかで殺されてここに運ばれてきたに相違あるまい」
「た、たしかにその通りで。さすが宇井野さまで」
太助が色吉をじろりと見た。「たしかにたいしたもんだ」
「はみだしとるのは腸か……胃の腑もあるな……膵臓……脾臓……肺腑……腎臓……ふうむ、心の臓と肝の臓がないな。肝心かなめ、心のほうの肝心を持っていきおったか、はははは」
太助が嫌な顔をした。「まったくたいしたもんだ」
「よし、死体を引き上げて、おまえは身元の割り出しと他に目撃者がいないか当たりなさい」
「合点しやした」
「おいおい、おいらの縄張りだぜふざけやがって」と太助。
「いやそれどころじゃねえ、こんなとこでぐずぐずしてるとあの馬道の――」色吉は武佐蔵の名前をもう忘れていることに気がついた。「――の手先に使われちまうかもしれねえぜ」
色吉と太助、それに卒太と根吉は逃げだした。
夕刻、色吉は太助の長屋をたずねたが、不在だった。あきらめて八丁堀に向かおうと表に出たところに、どこかからか声が言った。
「おう、金助町の、こっちだ」
声のほうを見ると、一軒の長屋から太助が顔をのぞかせていた。
「宇井野様には、おいらのやさは割れてるもんでな、根吉んとこに隠れてるのよ」
色吉を長屋に引き込むと、太助が言った。
「こんな目と鼻んとこで大丈夫なのかい」
ここは神田鍛冶町で、太助の長屋からはほんの数歩だ。
「そこよ。あの馬道の、も、まさかおいらがこんな近くにひそんでるたあ思うめえ」
「なるほど」
色吉はうなずいた。「そんで事件の話だがよ。宇井野様の見立てじゃあ、なにやらけだもの、野良犬か狼かわからねえが、そういう動物のしわざだろうってことになったみてえだ」
「へっ、たいしたもんだ、そんくらいだったらおいらにも言えらあ」
「だけどよ、あのホトケさん、けだもののしわざ、っていうのにはなにか引っかかるんだよな」
「おめえ、ホトケのことなんざロクに見なかったじゃねえか。それでなにかわかんのかよ」
「ち、うるせえな。それで、あんたのほうはその後なにかわかったことはあるかい」
「あの馬道の、は同心の宇井野様お抱えの手先みてえだな」
「そんなこたわかってる。昼間もいっしょに見たじゃねえか」
「そうか」
太助は腕を組んで、うとうとし始めた。
「おい、ほかなんかねえのか。あの若い女の身元とか」
「いま卒太と根吉が探ってるんで待ちねい。馬道が縄張りを荒らしてやがるんでやりにくいんだがよ」
宇井野様の後ろ盾があるのでは文句も言えない。
よその縄張りで動くときは、色吉の経験では、番屋やあまつさえ番所に呼び出したりせず、自分の足で聞きまわり、もちろんその際に引き合いを抜いたりせず、袖の下もあまり派手に受け取りさえしなければ、かろうじて縄張り荒らしとはみなされず、あらかじめ断りを入れなくとも黙って見過ごしてもらえる。
ただしこれは独自の件について追っている場合のことであり、同一の事件について嗅ぎまわることについては、関係者が同じ話をなんども聞かれることを厭うこともあり、探索がやりづらくなるから話を通すのは必須で、それがなければ荒らしと受けとられた。武佐蔵は宇井野の顔をいいことにそれをやっている、ということを太助は言いたいのだ。
しばらくして根吉が帰ってきて、さらに少しして卒太もきた。おもてはすでに日も落ちて暗かった。
「女の身元が判明しやしたぜ」と根吉が言った。
「女が何者だかわかりやしたぜ」と卒太も言った。
「お幹という、本所の水茶屋の娘でやした」と根吉。
「お幹っつう、本所の水茶屋の娘でやんした」と卒太。
「看板娘なんですが、店での評判の悪いですぜ」と根吉。
「娘目当てに通う客も多いんですが、他の店員からの受けはよくねえね」と卒太。
色吉が太助をうかがうと、腕を組んでしかつめらしくうなずいている。
「つまりどうかするとすぐいなくなっちまう。忙しいときでもお構いないらしいんで」」と根吉。
「客が立て込んでるときでもぷいとどっか行っちまうってんで」と卒太。
ふたたび色吉は太助を見たが、あいかわらず腕を組んでしかつめらしくうなずいている。
「朝から店に来ねえなんてこともしょっちゅうだそうなんで」と根吉。
「そのうえ、店開いてんのに来ねえなんてこともよくあるらしいんでさあ」と卒太。
「でもお幹を目当てにしてる客も多いんで、店主も強く言えないんで」と根吉。
「なにしろ看板なんで女将もお目こぼししてるってことですぜ」と卒太。
「おい待てよおまえら、ほとんど言ってること同じじゃねえか。しゃべんのはどっちかひとりでいいよ」と、とうとう色吉が口をはさんだ。
根吉と卒太は太助を見た。
「おう、そう言われてみればそうだな。どっちかひとりでいいぜ」
おめえおれが言うまで疑問に思わなかったのかよ、と色吉は思ったが話がややこしくなりそうなので黙っていた。
「……」
「……」
卒太と根吉はふたりとも黙ってしまった。
「ん? じゃあ根吉、報告をたのむぜ」
「それだけでさ」
「そうか。じゃあ卒太、続きをたのむ」
「そんだけなんで」
「そうか」
「そのお幹って娘は店を抜けてどこに行ってたんだい」
色吉がまた割り込んだ。
「知りやせん」
「知らねえです」
根吉と卒太が首を横に振った。
「そうか」
これが陽気もだんだんによくなってきた、三月のことだった。