十九
静かに戸が開き、小屋から出てきた。小さな人影と、大きな動物だ。ひたひたと夜道を行く。
物陰からそれをうかがっていた武佐蔵が、すこし離れた空き小屋に走った。
小さく声をかけると、ほどなく宇井野が出てきた。武佐蔵を先達にお浅と狼のあとを追う。
娘と動物は少しのあいだ並んで小走りに走っていたが、やや広い通りに出たところでお浅がひらりと権太に飛び乗った。首根っこに腕を回し背にへばりついた、と見るや獣は大走りに駆けだしてあっという間に見えなくなった。
武佐蔵と宇井野も慌てて走りだしたが、娘を乗せた狼の姿はもう目の届くところにない。それでもしばらくはがんばって走っていたが、同心とその手先の足取りはだんだんに重くなり、とぼとぼ歩きに戻った。
「まったく、この愚図が、なぜもっと早く知らせにこなかった」
息を切らしながら、宇井野が言った。
「へい、すいやせん」
不満げな顔で武佐蔵が言った。
歩兵衛の座敷の襖があいて、寝間着を着た理縫が立っていた。
「どうした、理縫。ちぃちぃか?」
読んでいた書から目をあげ、歩兵衛が訊いた。
理縫はいやいやをするように首を振り、とことこと壁際の羽生多大有に近づいた。
「あにうえ」
胡坐を組んで壁にもたれていた多大有は、手を差し伸べて理縫を抱きあげると、あやし始めた。小さな娘はすうすうと気持ちよさそうに目をつむっていて、そのまま眠ってしまったようだった。
月は中天にかかり、ひらけたところでは色吉の目には昼間とそう変わらなくあたりが見える。
是坊家の主従だったはずの影は、その形が変わっていた。従――慈按指照のほうは変わりがなかったのだが、段之重だったはずの男は、小さくなっていた。いや、そうではない。地面に四つん這いになっていたのだ。
「ばけもの」
鈍りそうになる足を必死に振りあげ、色吉は走り続ける。
だがすでに先月の晩に見た、見たこともない動物になりはてた是坊は、留緒に襲いかかっている。いつの間にか着物は脱ぎ捨て、顔面には毛がびっしりと生えているが体と四股はほとんど無毛――つるつるだった。他に、手――前足というべきか――と後足の甲と股間にも毛が生えている。人とも獣ともつかない、なんともいやらしい、気味の悪い、おぞましい化け物だった。
怪物に地べたに押し倒され、肩を押さえられた留緒が、それまで半開きだった目を見開いた。すぐに顔が恐怖にゆがむ。目にみるみる涙が溜まる。
「ケケケケケケ」
バケモノが奇声を発した。色吉の足がとまる。あと二間ばかりというところだが、あいだに慈按が立ちふさがる。刀に手をかけていた。
「不浄役人の手先が。わたしがこの娘の生き胆を喰らうところを見て、それから絶望して死ね」
甲高い声で、化け物が言った。
「生き胆だと」
「そうだ。冥土の土産に教えてやろう。生娘の生き胆を喰らうことによりわたしは新たな寿命を手に入れるのだ。さらに、たった今止まった心の臓もだ。無駄だ。今宵は満月、私を殺すことはできん。たとい首をはねようとな」
おぞましいバケモノは、人間の指のついた前足で留緒の寝巻きのまえをはだけ、腹を引き裂くために前足を振りかぶった。人間の指には、獣の爪がついていた。あたりに悪臭をまき散らす。
色吉は恐怖も忘れて突き進んだ。
多大有の腕のなかで眠っていた理縫がぱっちりと目を開き、「るおちゃん、いない」としくしく泣きはじめた。多大有は立ちあがり妹を父親にそっと預けると、つぎの瞬間にはもういなかった。
「ちょろちょろ小うるさい小蠅が、娘が死ぬところを見たくないのか、ならば望み通り先に斬り捨ててくれるわ」
是坊の従者が薄笑いを浮かべながら抜いた。
それを目の隅に留めながら色吉はけだものが留緒の腹に爪を突っ込むのを見ていた。
しかしそのとき、是坊の化け物が、留緒のうえからはじかれた。
同時、斬りかかってきた慈按の刀を踏み込んでかわすと、色吉は拳固で慈按の顔の真ん中を殴った。双方が近づいていた勢いが加わったので慈按の鼻はなんとも嫌な音をたててつぶれて歯も数本が折れてそのへんに散らばった。折れた歯のうち外に出なかったのを飲み込みながら慈按は仰向けに倒れた。
権太に弾き飛ばされた是坊も仰向けに倒れた。
是坊に体当てをかました権太もはじかれて転がったが、すぐに起きあがり是坊に襲いかかった。喉笛にかじりつこうとする。が、化け物の是坊は両手で狼の頭をつかみ逆にその喉笛を狙う。
ふたつの獣が揉みあっているうちに、色吉は横たわっている留緒を抱きあげてそこを離れた。
「くそっ、重てえな」
駆けながら思わずつぶやく。
「悪かったわね! もう降ろしてよ!」
腕のなかで留緒が言った。
「なんでえ、起きてたのか」
言いながら、色吉は留緒を降ろした。
「ほんとに降ろすのかよ、色吉のバカ!」
そこに折りよくお浅が息を切らして駆けてきたので留緒を押しやった。
「お浅さん、この娘を頼む」
「だけど……!」
目は少し離れたところの二匹の争いを追っている。
「おれが権太の加勢にいく」
威勢のいいことを言って戻ろうとしたが、化け物と猛獣の争いのすさまじさに、色吉の足はすくんだ。人間の入り込む余地がない。「こりゃいかん」
そしてとうとう体毛のないつるつるのけだものが、狼のうえになり、喉に牙をかぶせた。お浅がきいっという悲鳴をあげる。
しかし是坊の牙は、かつんと乾いた音をたてて空を切った。
羽生多大有が背後に立ち、是坊の後頭部の毛をつかんで引っぱったため、口が権太から外れたのだ。羽生は是坊をそのまま無雑作に放り捨てた。
是坊は背中から地面に落ち、ぐっという音を口から発した。そうしながらも反転して、四つ足で立って多大有をにらんだ。
「ほう、不浄役人ごときがわたしに逆らうか」
きいきいと聞き苦しい声で毛むくじゃらの顔が言った。「しかし満月のわたしは殺せんぞ」と不気味な笑い声を漏らした。
と、言い終わるが早いか不浄役人に跳びかかる。しかし跳びかかった先に同心はおらず、けだものの四つ足が地に降り立ったときに、勢い余ってのごとくその顔がずるりと地べたに落ちた。
「ひいっ」
お浅が悲鳴を漏らす。色吉はお浅と留緒をかばうようにまえに出ていたのだが、お浅は見てしまったのだ。留緒はお浅に頭を抱え込まれていたので見ずに済んだようだった。
「ケケケケケ。無駄だ」
地面に落ちた是坊の首が言った。
羽生は是坊の体を蹴とばして仰向けにすると、腹に刀を突き立ててそのまま裂いた。裂け目に切っ先をいれてごそごそと探る。
「なにをする、やめろ!」
化け物の首が言った。「うぐゎっ」
多大有の刀が無毛のけだものの体から出てきたとき、先には大きな臓物がついていた。無雑作に刀を振ると狼の目のまえにどさりと落ちた。権太が匂いを嗅いで、顔をそむけ、それから前足でそれを踏みつぶした。
是坊がごぼごぼと嫌な音を出した。「やめろ。公儀の犬ごときがわたしに……いまなら許してや」
羽生は化け物の胸に刀を突き立てた。ぐりぐりと探った刀をふたたび取り出したときに切っ先についていたのではまだどくどくと脈打っている心臓だった。是坊が胸の悪くなる悲鳴をあげ、すぐにそれは途絶え、「な、なぜ……だ……」心臓の脈が途絶えるのと同時にその目から生気が消えた。
「権太、よかった」
お浅が権太の首に抱きついた。権太が長い舌でお浅の頬をなめる。
「これはどうしたことだ」
と、声のしたほうを見れば宇井野が近づいてきたところだ。子飼いの岡っ引も連れていた。色吉はまたその名前を思い出せなくなっていた。
「いや、これは」
どう言い訳たものかと色吉が羽生を振り返ると、しかしそこにはもう多大有の姿はなく、見回しても留緒もかき消えていることに気づいただけだった。
その代わり、というわけでもあるまいが、根吉が今ごろ駆けつけてきて、ぜいぜいと荒い息をしながらそこに倒れた。
「つまり、そのバケモンがお浅さん……その獣使いの娘を襲いやして、なんとかその狼がそれを守っていたところを――」
ここで気絶して転がっている是坊の従者を指して、「そのお侍がバケモンを退治したってわけで。ただご自分もひどくやられちまいやしたが」
「フン」
宇井野は鼻を鳴らした。「おまえはそれをおとなしく見ておっただけか」
「へい、さいでやす」
色吉は答えた。お浅がなにか言おうとするのを目で抑えた。




