十六
「あの面の旦那はだいじょうぶだったのかい」
ずっと思いつめたような顔をして黙りこんでいたお浅がとうとうそう言った。自分の小屋も近づいてきて落ち着きを取り戻したのだろう。
「ああ、あの旦那の心配はいらないよ。殺したって死なねえお人だ」
ほんとうは端から生きていないから死にようがないし、お人でもねえけどな。
「ならよかった」
お浅はほっとした顔になった。「旦那は、権太が鍛錬不足にならないように、ときどきいっしょに狭い檻のなかを走りまわって遊んでくれたんだ。見た目はなんだかおっかないけど、やさしいんだねえ。でもそれがよくなかったのかと思って」
「へえ、そんなことがあったのか」
「驚いたよ、権太がつかまえられないんだから。速い動物を見慣れてるあたしの目にも留まらないんだから。でもそうやって無理をしたもんだから心の臓がとまっちまったのかと」
なるほど、と色吉は納得する思いだった。発条がきれるには早いような気がしていたのだ。
両国からまた八丁堀に戻ると、羽生は歩兵衛の座敷のいつもの場所に座っていた。あまり早く元気になっても怪しまれるので、今日一日は自宅で安静にすると番所には届けたとのことだった。
多大有はうなだれて、色吉の目には落ち込んでいるように映った。
「どうも娘がまた一人犠牲になったのを気にしているようなのだ」
歩兵衛もそう言った。
「じゃあ、あっしはこれから調べもんにいってきやす」
色吉は早々に引きあげようとする。歩兵衛は案じる目で色吉を見た。
「色吉殿、無理はなさるなよ」
「へい、じゅうぶん気をつけやす」
肩をゆすられて太助は目を覚ました。
「親分、親分」
筵のうえであぐらをかいたまま寝入っていたようだ。自分を起こした子分を見る。
「あれ、根吉?」
「卒太すよ。親分が寝てる間に交代したんで」
「どうりで顔が違うと思ったぜ」
「そんなことより、色吉親分が――」
卒太は是坊屋敷の門のほうに目をやった。
色吉が門横のくぐりの戸をどんどんと叩いている。「出てきやがれ」
老爺が出てきた。「こんなとこで騒がねえで、裏にまわりな」
「うるせえ! お常がここにいたのはわかってんでえ」
色吉は老爺を押しのけて屋敷内に入ろうとしたが、なかから押し戻されてたたらを踏んだ。そして出てきたのは精悍な顔つきの侍、慈按指照だった。
「このまえの土下座小者ではないか。おまえごときの入ってよいところではないぞ。いや、おまえどころか町方の不浄役人だとて入れる場所ではない。身の程をわきまえろ」
「なんでここにいたはずのお常が本郷にいたんでえ! ひでえ殺されかたしちまって。おめえらがやったんだろう」
「無礼なことを。斬るぞ」
慈按は腰に手をかけた。
「やってみやがれ。ひでえことしやがってちくしょう」
その色吉の体を、卒太がうしろから羽交い絞めにした。
「色吉親分、短気はいけねえよ」
太助が慈按のまえの地面にひれ伏した。
「お侍さん、こいつは知りあいが殺されておかしくなってるんで、勘弁してやってくだせい。それに無礼打ちはお侍さんのほうにも類がおよびやす」
無礼打ちとはいっても、斬ったほうもただで済むことはなく、喧嘩両成敗、切腹など言いつかるのが大抵のことだ。「おいらがよく言い聞かせておくんで」
「おい、余計な――」
色吉は口をふさがれた。横目でにらむと、樽だった。反対側には龍もいた。色吉は三人がかりで動きを封じられた。
「そうだ。そんなやつを無礼打ちにして、おまえが腹を切るようなはめになってもおもしろくない。捨てておけ」
慈按のうしろから声がした。色吉は目を見張った。是坊だ。是坊だが、このまえ見たときよりも若くなっている。三十そこそこ……いや、二十半ばくらいだ。
「ふん、とっとと連れて帰って檻にでも入れておけ」
太助も加わった四人がかりで色吉は引きずられていった。色吉を引きずりながら、四人は是坊と慈按がくぐり門のなかに消えるまでぺこぺこと頭をさげていた。
「おめえら頭なんかさげてんじゃねえ」
うしろ向きに引きずられながら色吉はまだ暴れている。
「おめえこそちったあ落ち着きやがれ」
太助が言った。「その場でとり押さえるならまだしも、証拠もなしに旗本に手出しできるわきゃないだろ」
「くそっ、おめえだって目のまえで人を殺されてみやがれ」
太助がめずらしくまともなことを言っているのだが、色吉はおさまらないのだった。