十五
がん、と頭を蹴とばされ、色吉は目を開けた。まだ薄暗いもののもう朝で、気を失っていたようだ。昨日の晩のことをいっぺんに思いだして気分がどんより重くなったが、それをつぐなうかのように体のほうはすっかり良くなっていた。さいわい暖かい夜だったので風邪が治ったのだ。
馬道の岡っ引が色吉を見下ろしていた。険悪な表情だ。そうだ、武佐蔵だ。いつも思いだせない名前が、なぜか今日に限ってすっと浮かんできた。
「きさま、ここでなにやってた。まさかおまえがやったんじゃないだろうな」
空気に血の匂いが混じっていた。
「そんなわけねえだろう、武佐蔵の親分さんよ」
色吉はゆっくりと立ちあがった。武佐蔵はやや青ざめたが、すぐに虚勢を取り戻した。
「ならばきさまはあの娘がやられるところを黙って見ていたのか」
そう言われると今度は色吉のひるむ番だった。「下手人は見たのだろうな」
昨夜のけだものを思いだして、顔から血の気が引いた。武佐蔵があざけるように笑った。
「ほう、よほど怖い目を見たのか、どんな奴だった」
お常の内臓を引きずり出してずるずるとすすったり、くちゃくちゃと咀嚼する音、血の匂いよりも強烈な悪臭まで蘇える。こっちを見て涙を流すお常の顔も浮かぶ。実際に見た光景よりも鮮明に浮かんできた。
「う、うるせえ」
「ふん、言えんのか」
「まあよい、とりあえずおまえには番屋に来てもらうぞ」
武佐蔵の背後からそう言ったのは同心の宇井野だった。
「おれをしょっぴこう、ってのか」
「あたりまえだ、目のまえで女を殺されて、そのうえ取り逃がすとはな」
宇井野は氷のような目で色吉を見て、最寄りの番屋に向けて歩きはじめる。
ちくしょう、そもそもあんたが旦那の発条がきれるまであんなとこに押し込んどくからこんなことになったんじゃねえか、と思いながらも色吉はおとなしくついていった。
本郷の、色吉の地元の番屋で、番太郎も色吉のなじみの爺さんだ。現場に近いとはいえ色吉にとっては屈辱もいいところだった。
番屋でのお調べは宇井野が直々にあたった。
「月が風と雲で見え隠れしてたから、体はよく見えなかったが、顔は毛むくじゃらだったからけだものだと思う。人間くらいの大きさだった。犬や狼ってより、猿に近いと感じた。目がぎらぎら光ってた。娘の臓物を喰らってた。……覚えてるのはそんだけだ」
娘を知っていることは黙っていた。
「恐くて気絶したのだな」
武佐蔵があざ笑うように言った。
同じ話を小半刻ばかりも繰り返して、やっと解放されたが、そのときには別の仕事を言いつけられた。
おれは宇井野のおかかえじゃねえぜ、と舌打ちしたい思いだったが、その仕事というのが獣使いの一座――といっても座長の宮助と獣使いのお浅、獣の権太の、ふたりと一匹だが――を、番所の牢部屋から両国の小屋に送り届けるというものだったので素直に従うことにした。檻に入っているあいだに被害が出たので、一座の疑いが晴れたのだ。
「道中、けだものが暴れぬようによく見張っておれよ」
と宇井野が言うと、
「万が一、町人に怪我でもさせたらおまえだけではなく羽生殿にも責がおよぶからな。おっとあのご隠居にもだ」
と子飼いの岡っ引も言った。
笠にかかる武佐蔵をおもしろくない顔で見て、しかしなにも言わずに色吉は番屋を出ていった。