十四
満月の夜のまえの晩から、色吉は是坊屋敷のまえで張っていた。是坊が下手人だという証拠はどこにもないが、なにかせずにはいられないのだ。
前日から季節柄、雨が降っていたから、色吉は笠と蓑をまとっていた。雨はそれほど激しくなく、身を隠している木のおかげでだいぶ弱められてはいたが、それでも朝になるころには色吉は濡れ鼠になっていた。
それでも寒気も感じず、眠気も感じなかった。
しかし是坊の下屋敷にはなんの動きもなかった。
なんの、本命は今日の夜だ。昨日からいるのは念のために過ぎない。色吉は頬を叩いて気合を入れなおした。
なにもないまま、昼が過ぎ、夕方になるとしかし、さすがに疲れてきた。ずっと雨に当たっているし、眠くなるのがいやで昨夜からなにも摂ってないため空腹もひどい。
そこまでしたのに、眠くなってきた。自分では気づいていなかったが、色吉は風邪を得ていたのだ。まぶたがどうしても落ちてくる……
「おい、金助町の」
呼びかけられたとき、少しうとうとしていた。
見ると、太助だ。根吉と卒太も従えていた。
「大変なことになった。いいか、落ち着いて、腹くくって聞いて、いいか、取り乱すようじゃねえぞ、いいか、覚悟はいいか――」
「なんだよ早く言ってくれ」
「つまり落ち着けよ、羽生のな、旦那がな……な……な、亡くなった」
「なんだって」
「北町の、牢のなかで倒れたそうだ。ぴくりとも動かないので調べたら、心の臓がとまってたらしい」
いけねえ、発条切れだ。
「ここはおれたちが代わるから、とっとと行ってやれ」
「すまねえ。家のほうには――?」
色吉は立ちあがったが、そのとたん目がくらんで転びそうになった。
「おい大丈夫か。番所からだれか行ってるはずだ」
太助に支えられて、なんとか立て直した。
「ああ、すまねえ。ずっと座ってたもんでふらついただけだ。すまねえな、頼んだぜ」
色吉は駆けだしたが、一歩足を踏み出すたびに視界がぐらぐらと揺れた。それを無視して北の番所に向かった。
調べ小屋のまえに馬道の岡っ引、武佐蔵がいた。もっとも色吉には名前を思い出せなかったが。
「馬道の親分、旦那は。まだなかですかえ」
「おう、い……金助町の。このたびはとんだことだったな」
「いや、旦那は死んじゃいねえ」
気の毒そうな目で見てくる武佐蔵をおしのけるように小屋に入ると、同心の宇井野ともうひとりの同心が檻の外でなかをうかがっていた。そのすきまから、檻のなかで羽生が横たわっているのがうかがえた。お浅と宮助が青い顔で見守り、権太が頬をなめている。
「おう、羽生の手先か。こたびは気の毒したな」
「旦那は死んじゃいねえんで」
色吉は檻の扉に手をかけた。「鍵を貸してくんなせい」
「気持ちはわかるがあきらめろ。心の臓がとまっておるということだ」
「宇井野の旦那がお調べになったんで?」
「いや、そこの小屋のものがそう言っておる」
宇井野は宮助にあごをしゃくってみせた。
「なぜ――」
自分で診ないのか、と言いかけるのを、
「けだものをけしかけられても困るからな」と宇井野が先回りして言った。
お浅がにらむ。なにか言いかけるのを宮助が止めている。
しかし色吉にとってはこれは好都合だ。
「あっしが見やす。鍵を開けてくだせい」
お浅のほうを見て、「お浅さん、権太を向こうに頼む」
宮助にもうながされ、お浅は素直に権太を牢屋の反対側の隅に連れていった。
もうひとりの同心に鍵を開けてもらい、色吉は牢のなかに入った。
「旦那」
当然返事はないが、色吉は多大有の口に耳を持っていった。「へい、へい」と返事をする。それから顔をあげて「自宅に連れ戻してほしいそうで」
「本当か?」
宇井野がうさんくさげな顔で見る。「心の臓がとまったのではないのか」
色吉は今度は羽生の胸に耳を当てた。当然動いていないが、「動いていやす」と言った。
「ならば木戸番が嘘を申したのだな」
宇井野は宮助をにらんだ。「なんの魂胆があってのことか」
色吉は慌てた。宮助にあらぬ疑いをかけられても気の毒だ。
「い、いや、確かにとまってやした」
「なにい。どっちなのだ。おまえが嘘をついたのか」
「あの、いや、つまり、旦那の心の臓はときどきとまるんで」
「おまえはなにを言っておるのだ」
「いや、旦那はほれ、ちょっと変わってるんで……それは宇井野様もご存じでやしょう……とにかく旦那は死んだわけじゃないんで」
色吉はしどろもどろになったが、そのときちょうど歩兵衛がついたので助かった。龍と樽を連れている。
「宇井野殿、倅が迷惑をかけてすみませぬ」
歩兵衛は頭をさげた。
「羽生殿か。こたびは気の毒であったな」
「ありがとうございます、だが、多大有は生きております」
「だが、心の臓がとまっていると、羽生の手先も言っておる」
「倅の心の臓はときどきとまるのです」
「おまえはなにを言っておるのだ」
「とにかく今日は多大有を静養させましょう。引き取らせていただきます」
龍と樽に、色吉と歩兵衛も手伝って四人がかりで牢から出して、なんとか羽生の体を大八車に乗せた。龍と樽は大八を駆って去っていった。もちろん行き先は八丁堀の羽生宅ではなく、中川ほとりの発条巻き小屋だ。
「おい、羽生の代わりにおまえが牢のなかで見張っておれ」
宇井野が色吉に命じた。色吉は旦那を送りだして安心したのかぼうっとしていたのだが、そう言われてはっと気づいたように動きだそうとして転んだ。
「なにやってやがる、だらしない」
と、武佐蔵が言った。
「いや待たれよ」
歩兵衛が色吉の額に手をあてた。「こりゃひどい。色吉殿はひどい風邪じゃ。家に帰らせてあげてください」
「いや、あっしは是坊んとこに戻らねえと、太助たちじゃあどうにも頼りにならねえんで」
色吉はふらつきながらも歩きだした。歩兵衛が手をつかんだ。
「色吉殿、そんな様子でいっても、むしろおぬしが足を引っ張ることになる。おとなしく長屋に戻られよ。いや、それよりうちに行って寝ていなさい」
歩兵衛は宇井野に向かい、「牢のなかでの見張りというのは、僭越ながらわしが倅に代わりましょう。なに、ついこのあいだまでは勤めておった身、不足はないでしょう」
宇井野はうさんくさげな顔で歩兵衛と色吉のやりとりを見ていたが、そう言われてふんと鼻を鳴らし、
「息子殿の尻拭いをされるか、息子孝行の感心なことだ。まあ手先は確かにその赤い顔では役に立ちそうもない。よいだろう」
歩兵衛を牢に入れて、もうひとりの同心が再び鍵をかけた。歩兵衛は上機嫌で「ほっほ、よろしく頼みますよ」などと宮助とお浅にあいさつしている。
色吉はふらふらと番所を出ていった。宇井野と武佐蔵がうさんくさげな顔つきで見送っていた。
雨はいつのまにかやみ、日が沈みかけていた。
歩兵衛にはああ言われたものの、色吉はやはり是坊屋敷に向かうつもりだった。しかしぼんやりと歩いていて、はっと気がついてみると自分の長屋の近くだった。満月のため明るいが、日はとっくに沈んでしまっていた。
どうしたものか、色吉は回らぬ頭で考える。もうここまで来てしまったのだからひと休みして、また夜中に起きだして出かけるか。
「ケケケケケケ」
そのとき異様な物音が色吉の耳に入ってきた。甲高い笑い声のようだ。
ぼんやりとしていた頭が一気に冴えた。しかし色吉にとっては冴えないほうが幸せだったのだ。恐怖で体が震えてくる。
おそるおそるそのほうに顔を向けると、そこは稲荷神社だ。お幹のときの神田のそれとよく似た、小振りながら境内を備えている。近所だから色吉もよくその前を通るのだが、そこに――
月明りを反射しているのか、それとも内なる炎が燃えているのか、目がらんらんと光っている。大きな犬……狼……猿……いや、見たことのないおぞましいけだものだった。
色吉は動くことができなかった。化け物だ。
風で雲が流れ、月明りはところどころ、ときどきにその光景を照らしたり隠したりしていた。
化け物はなにかくわえている。口の両端からぶらさがるそれは、足元の死体の腹の部分から繋がっていた。腸だった。女の死体の、仰向けの顔がこちらを向いている。目が合った。目のまえがまたぐらぐらと揺れた。女はお常だった。死体だと思ったが、まだ死体ではなかった。その目がまばたきをして、涙がこぼれたのだ。
化け物が腸をわきに捨て、女の腹に顔を突っ込んだ。お常が顔をのけぞらし、目を見開いた。「きゅう」という音がその口から漏れた。
化け物が顔を持ちあげたとき、その口には臓物がくわえられていた。ずるずるとなんだかわからない管を引きずっている。くちゃくちゃという音が聞こえてきた。咀嚼している。喰っているのだ。
色吉の頭はまたぼんやりとしてきた。お常の顔は月明りにも青ざめて、もう目はびいどろの玉になってただうつろに光を反射するだけでまばたきすることもなくなっていた。
風向きが変わったのか、それともいままで気づいていなかっただけなのか、血の匂いが色吉を襲った。色吉が覚えているのはここまでだった。