十三
五月の十二日。
次の満月の晩まであと三日といったところだが、昼間は色吉は同心羽生多大有の町廻りに付き従っていた。
観世物が立ち並ぶ通りで、人だかりができていた。小屋のまえで低い声での押し問答のようなものが聞こえる。なにを言っているかまではわからなかった。
人だかりや喧嘩など珍しくもないが、小屋はお浅の「けものつかひ」だったから、色吉は野次馬をかきわけた。
「ごめんよ、ちょっと通しとくんな」
ち、誰でい、とにらんでくるものも、色吉とうしろの羽生を見るとおとなしく場所を開けた。しかし色吉のほうは首を突っ込んだことを悔やんだ。
獣使い一座の座長兼口上兼木戸番兼用心棒の宮助と話しているのは馬道の岡っ引、武佐蔵だったのだ。もっともこのときも色吉は名前を思い出せなかったが。
だが宇井野もいるのを見て色吉は顔色を変えた。満月にはやや早いが、まさかお浅になにか……?
「馬道の――親分、いったいなにがあったんですえ」
武佐蔵は色吉を見ると、
「おう、ちょうどいい、色……金助町の、おめえも手伝え」と言った。
馬道の岡っ引の様子からどうやら事件ではないようだと見てとり、色吉はほっとした。
「へい、なにをやったらいんでやしょう」
色吉は武佐蔵と宮助の顔を見比べる。
「わしの調べたところ、この小屋では本物の狼を使っておるのだ。狼の芸を見せておる」
武佐蔵はどうだ、という顔をした。
「へい」
色吉はうなずいた。
「鈍いやつだな。ここふた月ばかりで若い女が二人殺されておろう。あれはけだものの仕業だ。大きな犬か、狼か、熊か、と宇井野様は見立てられた。そしてここにけだものがおる。これでもわからんか」
「つまり、馬道の親分はここの狼が下手人――じゃなくて下手狼だとおっしゃるんで?」
狼の権太のことをまえから知っていたことは黙っていたほうがよさそうだ。
「そうだ。やっとわかったか。かなり大きな狼のようだからな、まあわし独りで大丈夫かと思うが、念のためだ、おまえにも手伝わせてやる。よかったな、些少だが手柄になるぞ」
そのときこらえきれず、宮助が、
「羽生の旦那、それから色吉の親分、こちらの宇井野様と親分さんに権太はかかりねえ、って言ってやってくだせえ」
と言った。色吉はあわてた。
「きさま、知ってやがったのか」
武佐蔵が目をむいた。宇井野もうしろで険しい顔をしている。
「いや、ええと、知ってたというか、はは。知っていなくないこともない、とでもおっしゃいましょうか」
「自分に尊敬語を使うな。いやそんなことはどうでもいい、なぜ番所に届けなかった」
「いや、ええと、つまり権太――つまりここの狼の仕業じゃあねえと思ったもんで」
「それはおまえの決めることではあるまい」
ここでまた宮助がふたりの岡っ引のあいだに割って入った。
「お待ちくだせえ、親分、なにか権太がやったという証拠でもありなさるんですかい」
「おまえの処分は追って考えるからな」
武佐蔵は色吉にそう言うと、小屋の座長に向いた。
「さっきから申しておろう、爪と牙だ。あの女どもの遺骸は爪で裂かれ、牙で咬まれていた」
「その爪と牙の跡が、権太ののと合ったとでもおっしゃるんで?」
「やかましい、女の死体などもう腐れとるわ。ここの狼を連れていって、こんどの十七か十八ほどまで閉じ込めておけばわかること。なんど言わせればわかる」
ほう、と色吉は感心した。この馬道の岡っ引――名前は思いだせないが――も、事件が満月の晩に起こっているということに気がついたものとみえる。待てよ、馬道ではなく宇井野のほうか。まあどっちでもいい。
「で、なにもなかったらどうなさるおつもりで」
宮助が訊いた。するとそれまで黙って見ていた宇井野がそれに答えた。
「なにも起こらなかったら、ここの狼が下手人だったということである。閉じ込めていたから女を襲うことができなかったのだ」
宮助の顔が真っ赤になる。口をパクパクさせてなにか言おうとするが何も言えない。このとき小屋の扉が開いて、お浅が出てきた。
「いいよ、座長、権太を閉じ込めてもらおうじゃないか。へんな疑いをかけられたままじゃ、権太だってかわいそうだ」
「だがね、あっしらにだって商売ってもんがありますからね、そんな四日も五日も小屋を開けなかったら、干あがっちまう」
座長が言った。
「ご公儀に逆らうと申すか」
宇井野が言った。
「いえ、そんなつもりはねえですが――……」
宮助の声はだんだんと小さくなり最後はなにを言っているのかわからなくなった。するとお浅は宇井野に向かって、
「お役人さん、権太を閉じ込めるのはここでいいじゃないか。ここなら檻だってあるし、昼間は小屋を開いて商売だってできるから都合がいい」
武佐蔵が振り返り、宇井野をうかがうと、
「ならぬ」
ご検視同心は言下に言った。「聞いておれば勝手ばかりほざきおって。おまえらの言うことなど聞かぬ。けだものは北町の調べ小屋に閉じ込める。本日、たった今より六日のあいだだ」
お浅は同心をにらんだ。
「なんだその目は。不満ならばいっそ、この場でけだものを斬り捨てようか」
宇井野はその思いつきが気に入ったようだった。「そのほうが面倒がなくてよいな。そうするか」
「お浅……」
宮助がお浅のところに行き、「しかたねえ。権太のためだ」と小さな声で言った。お浅が奥に引っ込むと、宮助は振り返り、「ただいま連れてまいりやす」と言った。
狼が小屋の入り口から顔をつきだしたときは、さすがの宇井野や武佐蔵も驚き、怖れたようだった。思わずあとずさる。
「うっ」「ぎょっ」「ひえっ」と、野次馬からもそこここ、うめきが漏れた。
近くで見る狼は、予想よりはるかに大きく、威圧感があった。宇井野は斬り捨てるなどと簡単に言ったが、とてもそうはいきそうにない。逆に襲われて喰い殺されそうだ。
大きな獣のうしろからお浅が出てきた。権太の首につけた縄を持っている。
「さあ、連れてっておくんな」
薄笑いを浮かべて、その縄の端を武佐蔵に差し出した。馬道の岡っ引は思わず、といったていでぶるぶると首を振った。
「おまえが連れていくのだ」
宇井野が言った。目立たぬように柄に手をかけているのを色吉は見た。
「お役人さん、あんたが連れていきたい、って言ったんじゃないか」
「おまえだけではない、そこの木戸番も行くのだ。ほかに小屋の者はいるか」
「この小屋にはお浅とあっしだけですが、なぜでございやしょう」
宮助が答えた。たしかにこの男は木戸番も兼ねているが、せめて座長と呼んでやりゃいいのに、と色吉はのんきなことを考えた。
「お上の指図にいちいち口を出すな。行かぬというならば……」
狼がぐるぐるとうなりを発するとともに牙をむいてまえに踏み出した。武佐蔵がよたよたと後ずさりする。宇井野は鯉口を切った。
羽生がゆっくりと権太に近づくと、首筋をなでた。権太は牙をしまい、羽生のもういっぽうの手をなめた。
「宮助さん、お浅さんも、ここはおとなしく従っとくがいいぜ」
色吉が武佐蔵と入れ替わるようにまえに出た。「さあ、支度をしてくれ。権太は旦那がみてるから」
ここで宇井野に抜かれて、権太やお浅や宮助が傷つけられたり、あるいは殺されてしまっては気の毒だ。逆に権太が宇井野を傷つけたり、へたをして殺してしまってもまずいことになる。
それに色吉には宇井野の魂胆がわかっていた。さっきの理屈を逆手に考えて、狼が閉じ込められているあいだにまた被害が出れば権太への疑いが晴れる、とばかりにお浅や宮助が若い女を殺すことを用心しているのだ。
――そんなこと、この人たちがやるわけないだろう。
内心では馬鹿馬鹿しく思うが、しかし、ということは、である。権太とこの二人を閉じ込めておいて、そのあいだにまた若い女が襲われれば、今度はこの一座への疑いが晴れるわけだ。もちろん今度は被害を出すつもりはない。満月の晩は旦那に出張ってもらって、なんとか下手人だか下手けだものだかをとっつかまえてやる。
そう考えて素直に従うように言ったのだ。
ところが北町奉行所の調べ小屋に着いたとき、色吉の目論見は崩れてしまったのだった。
調べ小屋のなかには拷問道具も常備されていて、実態は拷問小屋とでも呼んだほうがいいかもしれない。奥には牢もあった。
権太とお浅と宮助を牢に入れると、宇井野が多大有を見た。いやな笑いを浮かべていた。
「羽生、おぬしずいぶんとそのけだものを手懐けておるな。どうだ、面倒でもいっしょに檻に入って見張ってはくれぬか。なに、六日の辛抱だ。飯は差し入れるし、そなただけには布団も用意しよう。やってくれるな」
「い、いや、ちょっと」
色吉が横から言った。「旦那を檻に入れるなんて、ひどいじゃあねえですか。外で見張ってりゃ充分でしょう」
「しかし狼が狂って小屋のものを襲ったら、外にいたのでは止められまい。なかにいれば、羽生の腕をもってすれば二人が喰い殺されるまえにけだものをしとめることもできよう」
「権太が小屋のものを襲うだなんて、そんなこたありゃしません」
「獣は月が満ちたときに狂うと申すではないか」
「いやしかし――」
「黙れ。そも小者風情がわしに意見する気か」
結局、羽生は小屋の者どもともども牢に入れられてしまった。宇井野の言う通り布団と食事は差し入れられたが、どちらも多大有には必要のないものだった。