帰還
その男は寂しい男であった。
根っこから寂しい男である。
寡黙で、内気で、堅物で、クソ真面目で、どこまでも馬鹿で真っ直ぐな男であった。
その男は、下級兵であった。
高等学園を次席で卒業出来るだけの頭脳をもちながら、世間を上手く渡るだけの器量を持ち合わせていなかったのである。
卒業前日、言われのない罪を理由に学園を不当に退学させられたのである。次席という勲章を金で買った貴族によって。まぁ、たとえ次席で卒業出来たとしても、恐らく軍属になるだろう。一般面接を上手く乗り切るための技術を、人間としての面白さを彼は持ち合わせていないのだから。
その男は、軍の寮に暮らしていた。いや、寮とは言えないかもしれない。その男の家は、倉庫の一部であったのだから。拾い手のない優秀な人物を持て余すほど、彼の住む国に余裕は無かった。隣国との均衡が崩れかかっていたのだ。だから、彼は軍に徴収された。
学園を退学させられるような人間を拾ってやるのだ、ありがたく思え。貴様には前線に出てもらう。食料?自分で何とかしろ。住むところ?馬小屋でも倉庫でも好きなところへ行きたまえ。もちろん、我ら誇り高き貴族のための高級区画は立ち入り禁止だ。給料?そんなものが貴様に出ると思うのか?平民共の血と汗と涙の結晶が貴族の懐に入ることの何がおかしいのだ?彼らは我らの奴隷だ。貴様もそうだ。なに、食料が買えないだと。適当な食料が貴様にはあるだろう。ほら、そこにだ。なに?残飯にしか見えませんだと?おい、貴様。貴族様が捨てるものが残飯とは一体どういう了見だ。あれは力の大きさだ。毎日あれだけの大盤振る舞いが出来るのだというアピールだ。何?そういうところがダメだ?はっ。貴様はそんなだから………
彼は酷使されていた。30日の前線勤務後、倉庫で5日死んだように眠って、また30日前線で働く生活だった。彼は貴重な攻撃魔術の使い手だったのである。毎日ギリギリまで魔力を使用させられ、魔力が尽きれば体力を魔力に変換する拷問器具を付けさせられているため、本当に、本当に、命が尽きる限界まで毎日消耗させられ、倒れたところを一輪車の荷台に放り込まれた。翌朝には泥水をかけさせられて起こされるのである。元は農民であった彼の唯一の自慢といっても良かった大柄で鍛え上げられていた肉体は、その脂肪と筋肉のほとんどが無駄な魔力攻撃へと消えていった。
それでも、彼は死ねなかった。彼はとても丈夫であった。その理由は当人すら分からない。だが、彼は生き残っていた。勝っているか負けているのかわからないような、そんなゴミみたいな戦場をくぐり抜けた。明くる日も、明くる日も。
彼は自分で自分を殺せるほどの勇気を持ち合わせていなかった。不当な扱いを受けていることを知りながらも、それを訴えることもできなかった。そんな彼の、灰色な日々の中で、唯一の温もりが、あの、倉庫への帰還であった。
「…ただいま。」
立て付けの悪い倉庫のドアを弱々しく閉めた男はそう呟くと、雑ながら一生懸命な仕事ぶりが伺える手作りシーツに覆われた藁のベッドに倒れ込んだ。片手にはさっき拾ってきたまだ食べられそうなチーズの欠片と、男には不似合いなほど綺麗な袋に入った鰹節。男はそのままベッドで深い眠りについた。
どのくらいたっただろうか。いや、もしかしたら30秒も経ってないかもしれない。何者かが男のベッドの中に潜り込んで鰹節をカリカリ食べ始めた。そいつはひとしきり鰹節を舐めたのち、飽きたのか男の腕の間に体を潜り込ませ、暖を取るようにウトウトと寝始めた。
「…ひなた。」
男はそう、腕の中で小さく眠る猫に呼びかける。この猫との出会いはちょうど軍に配属され、アホみたいな上官のクソみたいな命令を聞き、よくわからないうちにボコボコにサンドバックにされ、ここがお前の家な、と倉庫に放り込まれたときである。もとはこの猫の支配下であった倉庫への突然の侵入者に、当初猫は大層警戒していた。暮らし辛い街を追われ、転々と苦しい旅をしながらようやく見つけた安住の地を、おいそれと他者に渡せるだけの余裕が猫には無かった。
一方男にとっても当初猫は警戒すべき相手であった。ノミやダニに噛まれれば一溜りもないし、折角見つけた食料を奪われかねない。初日の睨み合いは、男が眠気に負けたところで決着がついた。
あれから色んなことがこの倉庫であった。
雨が漏る真ん中のベッドが猫の居場所の窓際に移された時は酷く顔を引っ掻かれた。
夏の酷暑には限りある水分を巡って2者の間で睨み合いが続いた。
嵐が来た時は風が強く吹き飛ばされそうな窓際の猫の居場所が一時的に男の居場所である藁のベッドの隣になった。
食べられる実が取れた秋のある日には男が猫に食べ物を与えた。
寒さが酷く、火もたけない冬は猫が男に暖を与えた。
両者はお互いにお互いを認めあってはいないはずだった。しかし、いつの間にか、持ちつ持たれつ、お互いがお互いを刺激し合ってはまるで慰めあうかのように一緒に眠るようになっていった。言葉も通じない別種族でありながら、男は猫に、猫は男にほんの少しの情を与えていた。
また、男が出発する日がやってきた。今度の戦は長引くようである。通じるはずのない人間の言葉を、普段の彼を知る人が見れば驚くほど沢山彼は猫に話しかけた。たどたどしくも、弱々しくも、一生懸命彼は猫に生きて帰ると伝えていた。男にとって、猫は、ひなたは、灰色の毎日に唯一色を持たせてくれる、そんな存在になっていた。他者の温もりを欲していただけなのかもしれない。けれど、彼に善意はなくても悪意のない目で、好意はなくても偽りのない行動を取ってくれる存在はとても貴重だったのである。そう、それは、戦場で拾いやっとの事で隠し持ち帰り売却した敵国のナイフで得た僅かな金を、猫のための鰹節に使うほどには。男は最後猫をそっと抱きしめると立て付けの悪いドアを少し力強く閉め出ていった。猫はその間身動ぎもせず、ただただ男の顔を見つめていた。
きょうは、おとこがかえってくるはずのひである。
いつもはおいしいおみやげにめんじてしゅくふくをあたえているのだが、どうにもかえりがおそい。
あのおとこは、われにひなたのなをくれた。
あのひから、われはふしぎなことにあのおとこのかえりをまちわびるようになっていた。
あらそいにまけ、まちをおわれ、ようやくみつけたこのあんじゅうのちをゆずるわけにはいかない。
そんなささいなおもいからはじまったこのきみょうなせいかつのまいにちは、たんたんとしていながらもそれなりにたのしいものであった。
あのおとこはわれをただのねこだとおもっているようだが、もしわれがほかの、ぶたのようなきぞくとかいうにんげんのくずにみつかろうものなら、そのいじきたないかねかんじょうののうりょくをじゅうぶんにはっきし、われにしゅくふくをもとめるだろう。
われはげんじゅうとよばれる、ほかのいきもののことばをりかいし、たしゃにたいしてこうふくをあたえるしゅぞくである。
むかしはにんげんともいっしょにくらしていたが、このすうひゃくねんはわれをめぐるあらそいがおこってしまったにんげんのせかいにはなるべくかかわらぬよう、ひっそりとねことかいうせいぶつにぎたいしてくらしていた。
おもいのほかねこのきままなせいかつにうかれてなまけていたらしい。
われはとなりのくににやとわれているらしいほかのげんじゅうにけんかをしかけられ、そのちからのほとんどをうばわれながらなんとかにげのびたのだ。
たぶん、おとこがたたかっているあいてとはそのくにのことだろう。
やつはわれのふしのちからのはんぶんをうばっている。
やつのしゅくふくをうけたへいしたちはあのおとこのようにちめいしょうをおわぬかぎりどのようなじょうきょうでもいきのこることができるだろう。
あのおとこは、そんなかてるはずもないいくさに、おのれのいしにかんけいなくこうけんさせられているのである。
かわいそう、とはおもわない。
しかし。しかし。しかし。
そのきかんがまちどおしいくらいにはさびしいのである。
男は180日経っても倉庫に帰ってこなかった。鰹節はとっくの昔になくなった。猫は、その袋に抱きつくように眠り、男の帰りを待っているような、鰹節の到着を待っているような格好で擬態を解き眠っていた。
そんな所を、たまたま倉庫にものを放り投げにきた兵士に見つかってしまったのである。
国は上から下からの大騒ぎ。捕まえられてしまった猫はありとあらゆる魔術を掛けられ、ひとの姿となって人々の前に現れた。幻の幻獣、その住む地は安寧が約束される。戦で疲弊していた民はその姿に歓喜した。貴族はその力を取り込もうと、人の姿、可愛らしい少女の姿をした猫に迫った。わが息子の愛妾となれ。わが伴侶に相応しい。これまでの生活とは比べ物にならないほど豪華な食事が毎日用意され、人の感覚で美しいとされるありとあらゆる贈り物を送り付けられ、しまいには王族との婚約まで結ばれそうになった。頑なに話そうとしなかった彼女は婚約式の誓いの言葉の時にようやくその美声を人間にぶつけたのである。
「われは、あのそうこに、きかんする。
じゃまだてするものすべてに、われはふこうをやくそくする。
さぁ、どけ。
われは、あのそうこに、われのいえにきかんする。
われはきさまらのようなぶたとのこんやくなぞのぞまぬ。
めがいたくなりそうないろのおくりものなどいらぬ。
われは、あのおとこをもとめる。あのおとこのもってかえるかつおぶしをようきゅうする。
ほかのすべてが、いらぬ。このくにすらも、いらぬ。
われに、あのおとこをかえせ。
われは、あのそうこに、きかんする。」
彼女の声は人々の胸をうった。好色な貴族どもの欲望を掻き立てた。益々熱をあげる彼女の争奪戦。貴族がそんなつまらない争いをしているなか、国境では、ようやく、その戦に終止符がうたれることとなった。馬鹿みたいに強い魔術師がいる。彼があの国にいる限り、これ以上の前線突破は無理だろう。そんな言葉と共に、停戦協定が結ばれた。男の所属する軍の国が、その領土を大幅に狭めることによって。
兵士が帰還する。彼女争奪戦に浮かれる王都にそのような一報が報じられた。民は僅かながらの希望をのぞむ。兵の帰還が叶うことはとても珍しいからだ。出兵の際、兵は家族と今生の別れを誓うほどに。民は彼女にもとめる。どうか家族を帰還させて欲しいと。貴族は彼女に求める。帰ってくる息子の嫁になれと。彼女は求める。きかんせよ。きかんせよ、帰還せよ。
王都に兵が到着した。家族との再会に大声を上げるもの。遺品となって帰ってきたものにすがりつくように咽び泣くもの。王都は皮肉なことにこの日、1番のざわめきがうまれていた。市で活発であるべきの大通りは今まで絶望の表情を浮かべた暗い市民の灰色で構成されていたのに。今日、この日は、帰ってきたものへの喜びと帰ってこられなかったものへの悲しみと。人々の感情で、まるで色が戻ったかのように。
一方、貴族議会は沈黙していた。いつもは野次と罵声が飛び交い金が横行する議会も、誰に敗戦の責任を押し付けるべきか睨み合いを続けている。間違いなく、責任を取らされたものは貴族としての特権を失う。そんな恐怖が、貴族を凍りつかせていた。
猫は倉庫に帰還した。人の姿になってしまった。もう、彼は自分をひなたと思ってもくれないだろう。彼の姿を見るだけでいい、そんな思いで、彼女は待ち続けた。
立て付けの悪いドアがあいた。
随分弱々しい。
男が1人、入ってきた。
片手には一欠片のチーズ。
そして、ちょっと新しい袋に鰹節。
男は死んだようにベッドで眠りについた。
目を開けると少女の寝顔があった。
見覚えはない。
けれども。どこか懐かしくも感じる。
何より、布団があたたかい。
…猫ではない。可愛らしい少女である。
それでも。
彼には。
1匹しか、いや、1人しかいない。
倉庫に帰ってくるような。
自分と共にいてくれるような者が。
そう、それはまさしく。
「…ひなた?」
「うむ。」
彼女は彼の元へ。彼は彼女の元へ。ようやく。帰還を。
YouTubeで、米軍兵の帰還動画に感銘を受けました。