雪子 (少女崩壊②)
「雪子おばあちゃま、なかなか目覚めないわね・・・。」ゆかりが兄の浩一郎に向かって言った。「そうだな。」浩一郎が答えた。二人のの大伯母にあたる雪子は三週間前に家族の前で突然倒れ救急車で運ばれた。心臓の発作だということだった。処置は早かったが、意識が戻らない。「何分、ご高齢ですからね。」雪子を見た医者はそういった。雪子はもう八十歳を過ぎている。
「低いレベルの意識はあるので、あとは目をさましてくれれば・・・。」と医師は言ったが、もう丸二日眠ったままだった。そう雪子はただ眠っているだけだった。
「雪子!何やってんの!ぼやぼやするんじゃないよ!」継母のきつい言葉に雪子は唇をかみしめ、「はい。」と答えるしかなかった。今は昭和の初め、此処は雪子の実家の小さな乾物問屋である。雪子はその名の通り色白の、やや背の高い、肩を越した長さの黒髪を持った、鼻梁のすっきりとした顔に切れ長の瞳の、美しい少女であった。このころはまだ日常に着物を着ている人も多く、雪子も普段着に銘仙を愛用していたが、それがよく似合っていた。
雪子の母は雪子が数えの四歳の時に亡くなった。雪子は一人っ子であったため、父と、それから店の番頭、中番頭、丁稚が4人、女中二人、それに自分の世話をするために雇われたばあやといった大人ばかりに囲まれ育った。周りは大人ばかりだったが雪子は寂しくはなかった。雪子には友達があったから。それは、亡くなった母親が雪子に残していった抱き人形である。友禅の端切れで作られたのだろうか、丁寧に色合わせされ縫われたた着物をまとっていた。当時さくらビスクと呼ばれていた人形で、元来西洋風の衣装をまとっていたものだったが、雪子の母が雪子とお揃いにしてあげる、と幼い雪子に話しかけながら、着物をつくって着せたのだそうだ。雪子は毎日それと寝起きを共にしていた。幼いころのの雪子はおしゃべりが上手で、快活で可愛らしく、店に来る客も「雪ちゃんいるかい。」と雪子目当てに買い物に来るものも多かった。父は「雪子はうちの看板娘だな。」と言い、母を亡くした憐れさもあって、雪子を文字通り、目の中に入れても痛くないほど可愛がった。
雪子の生活が一変するのは、雪子十歳の時であった。父がカフェの女給をしていた美夜と再婚したのである。再婚する前から父と交際していたらしい美夜は家に入ると間もなく弟の直哉を産んだ。「旦那様の子かどうか怪しいもんだ。」使用人たちは陰で噂した。美夜は派手な顔立ちでガサツな女で、一日中動き回り店の経営に首を突っ込み、使用人皆に煙たがられていた。「前の奥様とは違う。」使用人たちはそうも言って嘆いた。厄災は雪子にも及んだ。雪子は継母から弟の世話をするように言いつけられたのだ。それまで朝晩の着替えさえばあやに手伝ってもらう生活をしていた雪子に、弟の世話をするのはきついことだった。まずなぜ泣くのかわからない。泣き止ませなければ美夜に大声で怒鳴られた。おむつを替えおしりをふく、おむつの洗濯をする・・・・。家事などしたことはない、もちろん、便所掃除など考えたこともない。自分の下着を自分で洗ったことさえもない。きたないものなどこの世にないかのようにばあやから甘やかされて育っていた雪子には拷問のような仕事だった。
それでもだんだんと手がかからなくなり、遊び相手にもなるようになり、弟のことが可愛くもなってきたころ雪子にまたつらいことが起きた。女学校へは進めないというのだ。そのころ雪子の父は病気で家を空けており雪子のことは美夜に任せられていた。
雪子は尋常小学校の最終学年だった。このころは尋常小学校が終われば男女ともそのまま高等小学校へ進むか、それとも男なら中学へ進学するか、女なら女学校へ行くのか、と道の分かれる時期だった。雪子は当然女学校へ進めると思っていた。自分の周りの友達と言える子たちも進むし、うちの商売の大きさから言っても当然そうだろうと。だが美夜は「女学校なんて無駄だよ。」と言って取り合ってくれなかった。女学校というものは行ったから何になれるというものではない。当時は女というだけで何にもなれないのが普通だったから。もし職業を持ちたいと思うなら師範学校へ行って先生になるくらいだろうか。美夜の言う通り無駄といえば無駄であった。だが、雪子が女学校に行きたいのにはわけがあった。亡くなった母と同じ女学校へ行き、亡くなった母の歩いた場所を歩きたかった、母のの生きた場所で生きてみたかった、追体験がしたかったのである。母がどんな人だったかは周りの人間からいろいろと聞かされてはいた。が、母の生きた軌跡をたどることで、母を本当に知り、理解して、自分の中の空虚な穴を埋めなければ、この先一人で大人になっていけないように感じていた。「おっかさん・・・。」美夜にそう呼ぶように言われていたので雪子はそう呼んでいた。雪子は苦手な美夜に対して、精一杯の勇気を振り絞り懇願した。「私・・・、家のことも、店の事も手を抜かない、ちゃんとやる、ちゃんとやるから、だから・・・、お願いします、女学校へいかせて・・・。」だが。
美夜はちらと雪子を見た、そして「ダメと言ったろう。無理なんだよ。」と言った。もうそれで終わりであった。
そうして今、高等小学校も卒業した雪子は、店で女中の一人のように美夜にこき使われているのだった。すでに戦争の機運も高まりつつあり、店は番頭も中番頭もいなくなり、ばあやも田舎へ帰ってしまった。店も家事も兼務する女中と丁稚が一人づついるだけである。父は療養所に入ってしまい、店も家も美夜がすべて取り仕切って好きなようにやっていた。そんなある日美夜が珍しく皆で出かけよう、といった。街はずれに遊園地というものができたらしい、それにみんなで行ってみようじゃないか、と。
当日は晴れだった。皆、丁稚や女中もつれての一家そろっての久しぶりの外出にうきうきしていた。もちろん雪子もだったが、雪子にはもう一つ遊園地に行きたい理由があった。夕べ丁稚の佐之助から「そういやぁお嬢さん、きいたことあります?」と聞かされた話のせいだった。なんでも遊園地にはカルウセルという夢のような乗り物があり、その乗り物に使われるのは普通木製の馬ばかりなのだが、その遊園地のは特別で白い象の乗り物がある。「で、噂なんですがね、」佐之助は続けた「その白い象に乗れさえすれば、その人の願いが叶うっていうんですよ。」「なんでも?」「まあそうなんじゃないですかい。」
雪子は昨夜の佐之助との会話を思い出していた。だったら叶えてほしい願いがあった。母に会いたい。雪子には母の記憶がほとんどなかった。友達はみな困ったことや悩みがあると母に相談するという。母とはどんなものなのか。
遊園地ににつくと弟の直哉が大喜びで走り回り大興奮だった。雪子は落ち着かせるのに一苦労だった。弁当を広げ皆に食べさせ、いよいよ乗り物に乗ろう、ということになった。カルウセルは行列ができていて順番が来るまでしばらくかかるという。人数を係りに告げ順番待ちを一人残しておけば他のものはいなくてもよいとのことだった。雪子が順番待ちに残ることになった。雪子はカルウセルを見つめた。白い象を見つけ胸がときめいた。昨夜、佐之助が言っていたことを思い出した。「・・・ですがね、お嬢さん、その白い象にはいつも網がかけてあって誰も乗ったことがないっていうんですよ。」雪子は何としても、乗りたい、係の人に事情を説明し、お願いして何としても乗せてもらおう、と決心していた。網をかぶせられ誰にも触れられていない白い象は今日のこの日の雪子のための象のようにも思えた。だんだん順番が近づいてきた。もうすぐ願いが叶う、白い象に乗れる、お母さんに会える・・・。その時だった。突然、「お嬢さん、帰りましょう。」佐之助に腕をつかまれた。直哉が別の遊具で遊んでいて、落ちてけがをしたというのだ。「おかみさんたちはもう出られました、病院へ行ってくるそうです。」雪子は大変な心残りを感じたが、帰らないわけにはいかなかった。きっと、またこれる、近いうちにきっと・・・。そう自分に言い聞かせながら遊園地を後にした。
あれから一年以上たったが、もう一度遊園地に行く機会はなかなか巡ってこなかった。直哉のけがは案外重く、治療に半年近くかかり、美夜の顔色をうかがって、誰も遊園地のことは言い出せないままだった。それに相変わらず父の具合は芳しくなかったし商売も忙しかった。
ある日、雪子が昆布の仕分けをしていると、一緒に仕分けをしていた佐之助がそう言えばお嬢さん、あの遊園地、閉園になったそうですよ、と何の気なしに口にした。閉園?雪子は自分でも驚くほどの大声をあげた。え、ええ。と佐之助は驚きながらも、まあこの非常時に遊園地っていうのもなんですからね、と答えた。すでにアメリカとの戦争が始まって居り、遊びや贅沢は煙たがられる時代となっていた。雪子は立ち上がり家を飛び出した。なぜ、なぜ、あれは私の白い象でしょ、そのはずでしょ?私の願いをかなえてくれるんじゃなかったの?
雪子は不幸だった。だから、何か生きるよすがのようなもの、すがるものが必要だった。それが遊園地の白い象だったのだ。街はずれの遊園地のあったところにまで来ると、佐之助の言った通り遊園地の門は固く閉ざされ、あのカルウセルも無くなっていた。ひどく落胆した雪子はどこをどう歩いて家までたどり着いたかわからなかった。戻ったのは随分遅くなってからだった。家に帰っても店には戻らず、自分の部屋に行った。部屋には昔朝から晩まで一緒に過ごしたあの友禅の着物を着た抱き人形が箪笥の上に座っていた。抱き上げて横にすると目を閉じる・・・、抱き上げて横にする、抱き上げて横にする、抱き上げて・・・。暗がりの中で、ぼんやりと雪子はその動作を繰り返していた。すると縁側を誰かが走ってくる音がして乱暴に部屋のふすまが開かれた。「雪子!」美夜がそこにいた。鬼のような形相で。「何やってんだい、店の仕事ほっぽって!」雪子はその時まで昆布の仕分けの途中だったことを忘れていた。「佐之助一人でできる量じゃないだろう!」美夜は本当はこんなに遅くまで帰ってこなかったことを心配もしていたのだがそのことは口にしなかった。
雪子は仕事を放りだしたことを思い出して「ごめんなさい・・・。」と謝った。美夜は雪子が人形を手にしているのを見て「なんだい、もう十五になるってえのにまだ人形遊びかい!」とその人形を取り上げた。美夜はただ取り上げてすぐ返すつもりだった。その人形が雪子にとって大事なの生母の形見の品だと知っていたから。だけどその時、姉の部屋にすごい剣幕で母がかけていったのを見た直哉がついてきていて、「おかあちゃん、やめて!」と美夜の足に飛びついた。美夜はよろけて人形を放り投げる形になり、人形は静かな放物線を描いて縁側を超え庭の置石の上に落ちた。
雪子だってわかっていた。家業がうまくいってないことを。番頭と中番頭が美夜に辞めさせられたのは、長年仕入れ値をごまかし懐に入れていたのを美夜に見つかったからだということを。父が寝付いてから継母の美夜がどれほどその経営に苦心しているかということを。商売がここまで傾いた原因は、父が人の好さに付け込まれ他人に騙されたからだということを。家に女中を置く余裕もなくなったということを。そう、わかっていた。美夜の意地悪などではなくうちには雪子を女学校へやる余裕などないことを。もう自分が十分大人で子供のころのように甘えて過ごせなどしないことを。美夜はガサツで恐ろしいが、貞淑で直哉は間違いなく父の子供だということを。雪子が小学校の時の弁当には美夜は雪子がふたを開けたとき惨めな思いをしないようにと、高価につくのに卵焼きを毎日欠かさなかったということを。そして・・・、どんなに願っても、亡くなった母にはおそらく会うことはできないだろうということも。わかっていたのに素直になれなかった。素直になれなかったがわかっていたのだ。
雪子自身もはっきりと認識してはいなかったがそれらを認めてしまえば、もう少女時代が終わるようで怖かったのだ。少女が大人になるのはとても不安で恐ろしいものだ。それは着物を脱いで丸裸になって家の外へ出ていくような恐ろしいことだ。だが、みなそれをくぐりぬける。たいていの場合、母親や家族や友人たちに支えられながら。だが雪子には怖い時に優しく慰めてくれる母もいなければ、仲の良かった友人達は女学校に行ってしまって疎遠になり孤独だった。雪子はひとりで大人にならねばならなかった。
なかなかに難しいことだった。だが、いずれ、いつか、時が熟せば、それも自然と成るようなことであった。
人形は幼い雪子の悲しみや憤りや無力さへのいら立ちをずっと見てきていた。
人形は置石に落ちると衝撃で顔にまっすぐ縦にひびが入り割れてしまった。そしてなんとしたことかその頭が割れたときまるで脳みそのように茶色いどろりとしたものが中から流れ出てきたのだ。
何、それは説明のできないことでもない。抱き人形は眼の後ろに空洞がある。そこに虫でも入り込み、中で死んで腐ったのだろうて。
もし、今日でなかったなら、まだ耐えられたかもしれない。けれど今日の今日は、雪子は心の支えを一つなくしていた。あのカルウセルの白い象。疲れ果てていたのだ。雪子の心は人形が割れたとき、そう、まるで心電図の波形がフラットな一本線になるように死んでしまったのだ。雪子の心。それは弱さ、迷い、口にできなかった言葉、生母を思う優しさ、家族を守ろうとする気持ち。雪子が雪子であるための大切な良いところであった。
いや、それともやはり人形には意思があり、一人で死ぬが嫌さに雪子の心を道連れにもっていってしまったのかもしれない。
「いやあぁぁぁ!」悲鳴を上げたのは美夜のほうであった。割れた人形の頭部からどろりとしたものがこぼれるのを見てすっかり怖気づいてしまった。「佐之助、佐之助!」大声で丁稚を呼び、片付けるように言いつけると逃げるように部屋を出て行ってしまった。
佐之助は古い布に包んで裏木戸の外のごみ箱に割れた人形を捨てた。
その夜は風が強く、裏木戸のごみ箱のふたがもちあげられ開く小さなきしむような音がした。
次の日から雪子は人が変わったように働いた。以前のまるで雪子なら言われた仕事をこなすだけだったが、自分から仕事を見つけ動くようになった。そんな雪子を見て継母の美夜はやっと使い物になるようになったと喜んだが、何かしら釈然としない気持ちもあった。雪子の働きぶりがまるで機械のようだったから。だが、あまりの日々の忙しさに雪子の様子を思いやる余裕はなかった。
それから2週間ほどたったころ、雪子の父が療養先の病院で亡くなったと知らが来た。看護人が朝見回ったとき死んでいるのを見つけたということだった。夜のうちに一人で亡くなったらしい。
父はよくなる見込みもない状態だったが、時々医者の許可が出て帰ってくるのをみな楽しみにしていた。
葬儀は時節柄簡素なものだったが、美夜が取り仕切ってくれた。
父が亡くなって気落ちしたのか美夜は、すっかり雪子を頼るようになった。家にはほとんどいない父であったが、美夜の憔悴はひどく、親類や近所の人々の間で、連れ合いをなくすとこうもつらいもんなんだね、と噂されるほどだった。
ある日雪子は美夜に折り入って話がある、と呼ばれた。「あんたに、婿を取ろうかとおもうんだよ。」
美夜が言うには直哉もまだまだ幼いし、もともとおとっつあんは婿入りしてきた立場だし、この店の直系のお母さんの血を引いてるお前に店を継いでもらうのが筋ってもんじゃないか、と。見せられた相手の釣書は年が二十歳もうえの徴兵検査丙種合格のさえない男だった。美夜の親類らしい。「小さいころに小児麻痺にかかって片足が不自由なんだよ、それで戦争に駆り出される心配はないし、本当に優しい男なんだよ。今どき男だっていうだけでもありがたい話だよ。」美夜は、やっぱり家の中に男がいればどれだけ安心かわからない、この話進めるよ、といって雪子の意見など聞く耳はないようであった。
翌朝、朝食の支度が終わっても、美夜はなかなか起きてこなかった。住み込みの佐之助が、先に起きてきていた直哉に聞くとお母ちゃん怒ってるよ、というので、女中がが見に行った。美夜の布団の中には恐ろしい形相で息絶えた躯があった。
わずか二か月の間に相次いで両親の葬式を出すなんて、と親類や近所の者は、雪子と直哉をいたわった。継母の美夜という名が本名ではないというのを雪子は彼女が死んで初めて知った。本名は、たね、といった。まあ、継母をを美夜という名で呼んでいたのは亡くなった父だけだったが。おそらく女給時代の源氏名をそのまま呼んでいたのだろう。
雪子は人形が壊れた日から毎晩よく眠った。そしてよく夢を見た。自分が父の病室へ行った夢。継母の寝室へ行った夢。だがそれは夢だった。雪子は目覚めると休んだ時と同じように布団の中にいる。雪子自身は指一本、父にも継母にも触れたわけではない。身体から魂が抜け出て、寝ている間に、雪子の心の奥底に秘めた不満や憤りといったものが、毬をつくるように、少しづつ膨らんで大きくなった爆弾を爆発させてしまったのであった。雪子自身は自分が何をしたのか気づいていたのか。気づいていないとすれば、自分の見た夢が正夢になるということをどう思ったいたのか。いや、雪子はもう以前の雪子ではなかった。感情をほとんど無くし、ただ息をしているというだけの、空虚な人形のようなものであった。残る感情があるとすればわずかばかりの直哉に対する愛情だけであった。
いや、しかし、もしかすると・・・私は間違った解釈をしているのかもしれない。
婿取りの話はなくなり、やがて戦争も終わった。乾物屋を辛うじて続けていたおかげで、配給切符が手に入り、仕入れたものを闇市で売り、何とか直哉を養っていった。
結局、そのまま誰とも結婚することもなかった。生きること、直哉を育てることで必死だったから。
そう、周りも直哉も思っていた。雪子は直哉のために自分を犠牲にしていると。
直哉は大学を出て、就職し結婚し子どもが生まれ、やがてその子供にも子供が生まれおじいちゃんと呼ばれるようになった。社会的地位もありまずまず成功していた。
雪子はずっと直哉の家族と一緒に暮らしていた。
年老いた雪子に直哉も直哉の家族も優しく接した。直哉の妻の真理子は雪子の世話をいとわなかった。だが、ある日、真理子は直哉に、ずっと思っていたことがあると打ち明けた。それは、お姉さんは、何を考えているかわからない。なんの文句もおっしゃらないし、何かして差し上げるとありがとうと言ってくださるけれど、まるで機械かロボットと一緒にいるような気がする、という内容の事だった。部屋の外にいる雪子にまったく気づかずに。その翌朝真理子は起きてこなかった。夜中に心臓の発作を起こして亡くなっていた。葬儀では、通常行う「お別れ」、つまり生前親しかった人がお棺の中の故人の顔を見てお別れを言う儀式がなされなかった。ただ、ご遠慮願います、と繰り返されるだけだった。人々はひそひそと噂した。なんでも、一度見たら忘れられぬほどすごい顔らしいと。
誰も雪子の事など疑わなかった。だって雪子は朝まで自室でぐっすりと寝ているのだから。
葬儀の後直哉は雪子のためひとを雇おうといったが、雪子は自分のことは自分でできるからいらないといった。直哉の娘夫婦が同居していたので、いざというときはそちらの手を借りることができるので、それでよしとなった。
手伝いの者を断るなんて、雪子は真理子の死に何か思うところがあったのだろうか。
かつての父と継母美夜の死だけでなく、これまでも何度か、不快に思う人に夢で逢うと、翌日その人がなくなっているということが起きていた。偶然の域を超えていた。雪子はもしかしたら、と思うこともあった。もしかしたら、自分の魂は六条の御息所のように体から魂が抜け出て人を傷つけているのでは、と。だが、生霊になるのは雪子がコントロールしてやっていることではなかった。雪子にとって夢な中で起こっていることでしかなかった。
それにしても、と雪子は思った。こんな夢を見た翌日は本当に心底疲れている、と。年を取ってからはなおさらで、死んでしまうのでは、と思うほど体がだるく動悸がする。身の周りの世話をするものなど置いては、また同じことが起こるかもしれない。それが、雪子が直哉の申し出を断った理由である。そう雪子が真理子の死に責任を感じていたからではない。
雪子はあの日、感情のほとんどを失ってから表面上の優しさはふんだんに持っていた。穏やかで、微笑みを絶やさず不平など漏らしたこともない。その優しい笑顔の裏で小さな子供のままの雪子が紐を巻いて毬をつくるように心の芯に不満を巻き付け、じわじわと爆弾を大きくしていたのだ。
ある日直哉が雪子に「そう言えば姉さん、昔、戦争前に遊園地があった場所を覚えていますか?」と聞いてきた。戦争中に閉園され空襲で焼け跡となっていた、あの遊園地の跡地に新たに小さな遊園地が作られるということだった。「聞いた話だと、昔と同じように、回転木馬をつくるらしいですよ。」本当に?雪子は聞いた。「ええ、なんでも昔、白い象の伝説というのがあったらしくそれを復活させるということでした。出来上がったら、いってみますか?」と直哉が言うので、行きたいわねえ、と雪子は答えた。
遊園地が完成して家族で出かける日になった。雪子と直哉とその娘夫婦とその夫婦の子供である男女の高校生の兄弟である、浩一郎とゆかりが一緒だった。
一家が到着すると小さな遊園地はもう人でいっぱいだった。
一家は昨夜のうちに遊園地をどう回るか話し合っていた。そのさい、直哉が「姉さんの希望を入れてくれないか。」といっていたので、ゆかりが「雪子おばあちゃま、何にのりたい?」と聞いた。雪子は低く小さな声でカルウセル、とだけ言った。よって皆はまず回転木馬に向かうことにした。
回転木馬は大きくきらびやかで切り立った断崖の上に目立つように建てられていた。中には木馬や馬車、それに目玉として前宣伝していた白い象のかごが作られていた。白い象は飾り立てられきらびやかでかつてのひっそりとした素朴なものとはずいぶん違った。
「違う・・・。」うめくような声が聞こえた。雪子だった。違う、違う、雪子は思った。こんなの白い象じゃない、願いをかなえる白い象じゃ・・・。「おばあちゃま、どうしたの?のりますよ。」直哉の娘が言った。が雪子はもう一度、違う、とつぶやいて近くのベンチに座り込み動かなくなった。
結局その日は、早く家路について、お開きとなった。もともと、高校生にもなって遊園地についてきたのは祖父の直哉に頼まれたからで、浩一郎とゆかりはファミリービジネスから解放されて、やれやれと出かけて行った。雪子が倒れたのはその日の夕食の席の事で、それから今まで眠り続けていた。
遊園地のほうではここ三週間ほど奇妙な出来事が続いていた。回転木馬にお客を乗せようとすると、誰もが白い象のかごを避けるのだ。遊園地側としては順番待ちも出ているときはできるだけ詰めて乗ってもらいたい。お客にそちらもどうぞ、と象のかごを勧めるがお客のほうはもう人がいるという。係員が見ると誰もいない。あら、おかしいわねえ、女の子がいたと思ったんだけど、とお客は言う。順番待ちが嫌でそこに乗った客はひどい乗り物酔いになり、回転木馬から降りると地面を立って歩けないほどだった。あっという間に噂が広がり、断崖の上一番目立つ、回転木馬は人々の忌み嫌う乗り物となった。経営者は困惑し客のいない夜間に至急点検しようということになった。
その夜、経営陣の社長と専務と技師の三人がが回転木馬のところに集まった。目視で点検したが特に変わった点は見られなかった。お客がひどく酔うというのも原因はわからなかった。一時間ほど点検作業をし、仕方ない今日はここまで、と専務が顔を上げたとき、ふと見ると断崖の先に十歳くらいと思われる少女が立っていた。七五三の時期だからだろうか着物を着ていた。アンティーク調の友禅のようだった。「どこから入ったんだい。こんな時間に。」おうちに帰らないと、お母さんが心配してるよ。と元来子供好きな専務は少女に話しかけた。違うの。それじゃダメなの、少女は答えた。何が?おうちに連絡して送って行ってあげようか。おじさんたちももう帰るところだからね。お母さん、家にいるかな。といいながら専務はポケットをさぐり、携帯をとりだした。近道があるから大丈夫と少女は歩きだした。じゃ、そこまで送ろうかなと専務が足を踏み出したとき、「村田君、どうした!」社長が専務の腕をつかんだ。あと一歩で断崖から転落するところだった。「どうしたのかね、気を付けてくれよ。」だがその社長の声より先に専務の耳に届いたのは、耳元で、「ちっ。」と舌打ちする音だった。
そのころ雪子の入院する病院では雪子の容態が急変し家族が呼び寄せられていた。あえて不毛な延命措置はなしでという直哉の希望で皆の見守る中雪子は息を引き取った。最後の言葉は「違うの、それじゃダメなの。」だがその意味は直哉にも誰にもわからなかった。
雪子の葬式も無事終わり、今日は浩一郎とゆかりが直哉に頼まれ、雪子の遺品の整理をしていた。質素に暮らしていた雪子の持ち物はあまり多くなく、一日で片付きそうだな、と浩一郎はほっとしていた。その時、ゆかりが「あら、これは何かしら?」押し入れから布にくるまれたものを見つけた。開けてみると古い古い抱き人形だった。一度割れたのか誰かがきれいにくっつけてあった。古びているが奇麗な柄の着物を着ていた。「これ、おばあちゃまのかしら?」抱き上げて横にするとまだ目が開いたり閉じたりした。抱き上げて横にする、抱き上げて横にする、抱き上げて横にする、抱き上げて・・・。
浩一郎は、ばあちゃんが大事にしてたならお棺に入れてやりたかったな、といった。人形をまだいじっていたゆかりはふと「じゃあ、燃やそうか。」といった。え、ええ、何、マジ?と浩一郎が答えたが、ゆかりは白い紙に包めば大丈夫って聞いたことがあるよ、おばあちゃんに届けてあげようよ、という。
庭に落ち葉を集め真ん中に白い紙に包んだ人形を置く。バーベキュー用の着火剤を置いて火をつけた。「ちょ・・・、ちょっとまじ・・・。」思いがけず火が強まり、また、とてもきつい臭いがして二人はうろたえた。おそらく昔の人形なので頭髪が人毛だったのだろう。火が弱まり消えたとき包んでいた白い紙は燃え去り、焼け焦げた人形だけが残っていた。「やっちゃったって感じだね・・・。」二人は焼け残った人形を見てそう言った。きれいに焼けてしまうということはなく、ほとんど原型が残っていた。着物は焼け焦げてはいたが火が移らなかったのか元の形は大体残り、模様も色も辛うじて判別できた、が、全体的に表面は真っ黒にすすけ、髪は焼けてちぢれて、顔は頬の部分が溶け、まるでやけどをしているようにも見えた。「ま、でも、白い紙に包んだし、おばあちゃんのとこにいったんじゃない?」まだ、熱をもっていたので明日の朝片付けよう、といって二人は焚火をそのままにして、休むことにした。
その夜、夜半過ぎ、急に風が強くなり、庭の焚火のあとにも吹き付けた。その強風で焚火の中に横たわっていた人形が起き上がり、まるで歩くように古い家屋の縁の下に入り込んだ。縁側は長年の風雨にさらされ、ぼろぼろに朽ち、乾燥していた。そこにまだ体の中に熱を持った人形が、身体をよりかけ座るように、風に吹かれながら止まってしまった。家の中では直哉と娘夫婦と孫たちがぐっすりと眠っていた。
風で偶然そうなったのか、それとも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・怒らせた?
先日の街の大火の後、遊園地は久しぶりに賑わいを取り戻していた。夜中に一軒の家から火が出て、強風にあおられ広範囲に燃え広がった火事は奇跡的に火元の一家が全滅しただけでほかに死傷者は出なかった。だがしばらくは街じゅう片付けに追われて遊園地に遊びに行こうという雰囲気ではなかった。
また以前のように、乗り物に乗りましょう、観覧者、コーヒーカップ、おとぎ電車・・・。小さな女の子を連れた家族連れが回転木馬にやってきた。母親は願い事があり白い象に乗りたかった。家を買いたいと思っていたのだった。良い家が買えますように。だが小さな娘が白い象のかごの前まで来てはじかれたように後ろへ下がった。「どうしたの?」娘のただならぬ様子に母親も父親も白い象を覗き込んだ。中はなぜだか昼だというのに薄暗かった。二人は目を凝らした。娘はすっかりおびえ震えている。最初暗い中、何もないかのように見えた白い象のかごの中にだんだんと、何かの形が、次第に、はっきりと、見えてきた。今どき珍しく着物を着た十歳くらいの少女が座っていた。もう七五三の時期は過ぎたのにと母親は思った。それは、腕の中に焼け焦げた友禅の着物を着せた人形を持っていた。そしてこちらを向いて言った。いや、少女は話したのではない、頭の中に声が聞こえてきたのだ。老女のようなしわがれた、でも、妙に甲高い声で。
『コレ、ユキコノ。デテケ!』と。