植物の勉強
翌朝は一段と冷え込んだ。
僕の部屋はシロの計らいで欠かさず炊かれる暖炉が部屋を常にある程度の暖かさに保ってはいるが、それでも何処からともなくヒヤリとした冷気が忍び寄る。
窓の外はどんよりと重たく、今にも雪が降ってきそうだった。
まだ朝も早いのに目が覚めてしまった僕は、厚いカーテンを開けて窓の外を眺めながら学校の課題に取り組むことにした。
館の使用人たちはすでに起き出して各々の仕事に従事しているが、僕が起きた事を知らせると彼らの仕事のペースを乱してしまう。
勿論そんなことで文句をいいような人間はこの館にはいないし、彼らの仕事はいつも完璧だ。
ただ、幼い頃から僕が熱を出す度に少しばかり疲れを滲ませつつも笑顔で接してくれる彼らに、あまり無理をして欲しくないのだ。
ベッド脇のテーブルにある水差しからグラスに水を注いで喉さえ潤せば、後はメイドが起こしにくるまでは特に頼むような事もない。
むしろこの少しだけ何時もと違う時間が楽しかったりもするくらいだ。
窓の外に目を向ければ、裏の庭はそんな天候にも負けず相変わらず美しく、冬にも関わらず茂る緑の所々に白や黄色など色とりどりの花を咲かせていた。
……本当に、うちの庭師は腕がいい。
どれだけの手をかければ、冬の入りにこれだけの植物を生き生きとした状態で揃えられるのだろうか。
もし「コナー爺は実は魔術師だ」と言われたら、僕はきっと すんなりと信じてしまうだろう。
それからしばらく、朝の冴えた頭で黙々と課題をこなしていると、眼下の庭をコナー爺が通りかかり軽く会釈をした。
一瞬僕に気づいたからかとも思ったが、直ぐに建物からアーリサが現れたので、彼女に挨拶したのだと気付く。
コナー爺に駆け寄ったアーリサは、声は聴こえないものの何やら楽しそうにコナー爺と庭を巡り始めた。
途中あちらこちらに立ち寄りながら、この寒空の下で話し込んでいる。
僕はしばらくその様子を眺めていたが、あまりに楽しそうに二人が話しているので、だんだん混ざりたい気持ちがわいてきた。
僕はその辺のセーターや上着を適当に着込むと、冷気を吸い込まないようにマフラーを首もとから顎にマスクの様に巻き付ける。
鏡であまり大袈裟に見えないかを確認して、僕はいそいそと庭に足を向けた。
「コナーさん、こちらの花も宿根なのですか?」
庭に近づくと、アーリサが白い息を吐きながら弾んだ声でコナー爺に問いかけている。
「そうです。コイツはちょっと変わっておりましてね、冬の間に葉や花をつけて、春がくると地上に出ているところは全部枯れちまうんでさぁ」
コナー爺が愛しげに植物を撫でながら答える。
「へえ、ひねくれ屋さんなのね」
アーリサはクスクスと笑った。
僕が庭に出ていくと、足音に顔を上げたアーリサと目があった。
「おはようございます、ハコル」
ニコリと笑顔を向けてくるが、どうにも先程までの自然さがなくなる。外向けの笑顔という感じが否めない。
「おはよう、アーリサ。
朝早くから何だか楽しそうだね」
僕は何だか少し落胆しながらも、そんな気持ちを微塵も感じさせないようにことさらニコリと微笑んで彼女らに近づく。
「申し訳ありません、騒がしくしてしまいましたか?」
「いや、今朝は僕も早くに目が覚めてしまってね。
学校の課題をしていたんだ」
「まあ、そうでしたか」
「しかしながら、ウチの学校の教師はとても教育熱心でね。早期に休みに入った僕のためにと山のような課題を出してくれたんだ。
おかげで休んでいるのか集中講座を受けているのか分からないくらいだよ。
だから息抜きに、少し一緒に話を聞いていてもいいかな?」
僕が大袈裟に嘆くと、アーリサは「ハコルは期待されているのでしょう。大変ですね」と全く同情した風もなく軽やかに笑って頷いた。
さっきと違った素直な彼女の笑顔に、僕もつられて笑った。
僕はコナー爺とアーリサの植物談義の少し後ろをゆっくりとついで歩いた。
アーリサは植物に本当に興味があるようだ。ポケットからメモを取りだし、熱心にコナー爺に質問しては書き込んでいる。コナー爺も興味をもってもらえるのが嬉しいらしく、普段よりもよく喋る。そうして話を聞くと、コナー爺は本当に素晴らしい庭師だと僕は改めて気づかされる。育てかたなどもだが、植物の名前の逸話までもよく知っていたのには驚かされた。
一通り庭を回ったところでメイドが朝食を知らせに来た。
その頃には僕もすっかりコナー爺の植物談義の虜になっていて、アーリサに混じってあれは?それは?と話をせがんでしまっていた。
僕とアーリサは一旦部それぞれの部屋に戻って朝食用の服に着替え、食堂に向かうことにした。
学校から家に戻って何が一番面倒かと言ったら、朝昼夜と何だかんだと一々着替えなければならない事かもしれない。
学校では制服か私服かの二卓だったので非常に楽だったのに。
従僕を呼んで着替え食堂に行くと、アーリサは先に席に着いており、ロリーはすでに食事を終えて、ミルクをたっぷりと入れた甘いお茶に舌鼓をうっていた。
今朝のメニューはさっぱりとした蕪のスープと軽く焦げ目のつけられたもっちりとしたパン、豚の腸詰め、温野菜、スクランブルエッグに木ノ実とフルーツが数種類と軽いものだ。
ロリーとアーリサが楽しく談笑しているのを聴きながら温かいスープに口をつけると、じんわりと体の内から温まるのを感じた。
どうも外にいる時間が長かったせいで体がすっかり冷えてしまっていたようだ。うかつだったかな。熱が出なければ良いが……。
それでも思いがけず楽しい時間を過ごしたことを思えば、庭に出なければよかったなどとは、どうしても思えなかった。それに寒かったせいか、少しだけでも体を動かしたせいか、いつもよりスープが美味しく感じる。
まあ、美味しく感じるのはそれだけが原因ではないのかもしれないけど。
僕はちらりと声のする方を見やった。
自分でも意外なほど、ロリーとアーリサが楽しげに話しているのを聴きながら食べるのは何だか嬉しい。
僕の父は忙しい身だし、母は幼い頃に亡くなった。もっとも、たとえ父が家にいる時でも病がちな僕はそもそも食堂で食事をすることがあまりできなかったが。おかげで僕は記憶にあるかぎり、専ら一人で食事をとっていた。
こうしてみると、やはり周りに使用人が居るとは言え一人で食事をとるのは味気なかったのだなと気づかされる。
もしかしたら二人が帰ってしまったら、僕は食事の度に さみしい……とか、思ってしまうのかもしれないな。
……ちなみに昔からロリーが遊びに来ているときはよく二人で食べてはいたが、ロリーの絶え間ないおしゃべりに付き合っていると食事は全く食べられない。
自身もよくしゃべるが、やたらと質問も繰り出してくる。そして二人で話ながら食べているはずなのに何故かロリーは余裕で食べ終わり、僕は全くの手付かずとなってしまい、外で遊ぼうと連れ出されるのだ。そして遊びの途中で倒れる、と。
……ん?
なんということだ!僕の病弱の一端はロリーなのではないか!?
「ねえハコル、明日の昼にはお母様と伯父様がお帰りになるそうよ」
僕が彼女らのさえずりを聴くとはなしに聞きながら食後のお茶を飲んでいると、ロリーが突如目を輝かせて言った。
その途端、何故か回りの使用人達やアーリサが「ああぁ……」と嘆く。
「へえ、そうなの?」
僕は首をかしげた。
「僕にはまだ連絡が無かったから、もう少し先になるかと思ってたんだけど。
必ず連絡をくれる父上にしては珍しい……あ、そうか」
そこまで言ってピンと来た。
明日は僕の誕生日だ。
父上はそれに会わせて帰ってくるのだろう。使用人達の反応からして、おそらく内輪のサプライズパーティーが準備されているに違いない。
僕がチラリと家令のモルゾイを見ると、さっと目を伏せられた。
うん、間違いないな。
感情をあまり面に出さない優秀な家令の顔が若干苦く見えるのは、サプライズを楽しみに計画しているであろう父上に何と言って報告すれば父上の落胆が少ないかを考えているのだろう。
僕は心のなかでそっとモルゾイにエールを送った。
頑張れモルゾイ。負けるなモルゾイ。
そんな微妙な空気に気づかないロリーは僕の近くにアーリサを引っ張ってやって来て、それはそれは嬉しそうに二人に内緒話を持ちかけてきた。
「今年はどんな事をする?」
「どんなって?」
ロリーに腕を組まれて強制的に引っ張ってこられたアーリサは、悪巧みに加担させられているとも知らずにキョトンとして聞いてきた。
僕は肩をすくめて説明した。
「昔は視察から帰ってきた父上と叔母上をロリーと二人でイタズラを仕掛けて驚かせていたんだ」
「そうなの!執務机の中に蛇の脱け殻をいれたり、お茶にいれる砂糖壺の中身を塩に入れ換えたり、庭の銅像をカラフルにペイントしたり。そうそう、二人で頭を丸坊主にしたこともあったわね!その頭でお出迎えした時の二人の顔ったら無かったわ!お母様なんか腰を抜かしちゃって大変だったのよ!」
「イタズラを仕掛けた後は毎回、散々叱られるんだけどね。あの時だけは叱られずに泣きつかれたなぁ……」
武勇伝を誇らしく語るロリーとは裏腹に僕は遠い目をして当時の事を思い出していた。
アーリサは若干引き気味に「へ、へぇ……。けっこう体を張ったイタズラもしたんだね……」と言った。ロリーは「うふふ」と嬉しそうだ。ロリー、誉められてないから、照れるんじゃない。
「今年は三人だからいつもより派手な事ができるわね!」
「えっ、私も!?」
ロリーの発言にアーリサが顔を青くして驚きの声をあげる。
うん、アーリサは平民の出なのを父上に能力を買われて学費やら生活費やらを出してもらっている立場だからね。そんな出資者の不興を買うかもしれない恐ろしい挑戦は、僕らのようにホイホイとはできないだろう。
仕方ないな。
「僕はもうやらないよ」
僕は冷めた口調でロリーに宣言した。
「なんでよ!」
ロリーがムッとしながら言う。
「もうイタズラをするような年じゃないからね。
それに僕は課題がまだ残っているし、そんなに暇じゃないんだよ」
僕は肩を竦めながら言った。
いたずら自体はロリーに引っ張られていたとは言え案外僕も楽しんでいた節があるのでそう嫌ではないのだが、課題の方は本当の事だ。
多いと言っても冬休みいっぱいを使ってするのならば別段無理な量ではないのだが、何せ僕の場合は寝込んでいる時間が長い。
いつ出るか分からない寝込み時間分も事前にやっておかなければ、想定外に倒れてしまったとき休み明けまでに間に合わなくなってしまうだろう。
「ハコルったら、なによ!課題なんてすぐに終わらせれば良いじゃない!」
「そうできたら苦労しないんだけどね」
ロリーがむくれるのにため息をつきながら答えると、アーリサが「まあまあ、ロリー」となだめに入った。
「ハコル、ロリーはハコルと遊ぶのを、それはそれは楽しみにしていたので、寂しく思っているんです」
「ア、アーリサ!何言うの!
そんな事ないわよ!私はただ、ハコルが暇してると思ったから、仕方なく来てあげただけで……!」
ロリーが真っ赤になって否定するが、アーリサはそんなロリーをさらっと流す。
「あ~、そうね、そうだったわね~。
天使みたいに綺麗な顔の、自慢の従兄を私にも見てほしいって、今回連れてきてくださったんですよね。
なのにハコルは忙しそうだから……」
「アーリサ!」
ロリーはなけなしの令嬢らしさをかなぐり捨ててアーリサに飛びかかると両手で口を塞ぐという荒業に出た。
ロリーは必死だが、アーリサは何だか楽しそうだ。
でもそうか。ロリーがそんなに毎年の訪問を楽しみにしていたとは思わなかった。
ただ叔母上に連れられてやって来て、暇だから僕を振り回しているものだとばかり思っていた。
……まあそれも有るだろうが。
でも言われてみれば、途中から叔母上が来ない時も毎年欠かさず来ていたし、ロリーが女学校に入ってからも僕と滞在がずれていたから出会いはしなかったものの毎年訪れてはいたと聞いている。
うん、僕は少しだけ認識を改めるべきだな。
ロリーのことはやたらとつきまとってくる騒がしい子だとばかり思っていたが、僕になついていたんだな。可愛い所も有るじゃないか。
「なっ、何でもないから!
アーリサったらもう、何言ってるのかしらね!?」
「うん、ごめんね。寂しかったんだ?課題はなるべく早く終わらせるよ」
「!!」
僕が素直な気持ちで真摯に謝ると、ロリーは「絶対!分かってないでしょうっ。もういいわ!」と捨てぜりふをはき、アーリサを引っ張って食堂を飛び出していった。
失礼な、分かっているとも。
僕は照れ屋なロリーに歩み寄るべく、書庫に行って課題に専念することにした。
自慢の従兄らしく、さっさと終わりのめどをつけなければ。
……しかし自慢の従兄か。そう聞いていたとすると、初日にアーリサの前で倒れるという醜態を晒してしまったのが悔やまれる。せっかく意外にもロリーが僕の事を良く言ってくれていたのに、台無しだ。まあ、カッコつけた所で父上から病弱だとは聞いていたわけだし、遅かれ早かれ倒れただろう。今さらだ。
途中でベルを鳴らしてメイドを呼びお茶を頼む。
するとお茶のお盆を手に、何故かアーリサがやって来た。
「ハコルが書庫を使っていると聞いたので、私も使わせて貰えないかと思って。
その、私もまだ出来ていない課題があって……」
そう言うと書庫をぐるりと巡って分厚い本を何冊か取りだし、手近な椅子に座ってノートを広げる。
しかしチラリと覗いたノートの中身は、朝コナー爺から聞いた植物の纏めだった。
「植物の課題?」
「うっ……、課題と言うか、研究をしてて……」
「研究?女学校ではそんな事もしてるの?」
意外だ。良家の子女がほとんどの名門女学校では、主に行儀見習いをしていると聞いたが。
僕の疑問を察したアーリサは、少しばつの悪そうな顔をした。
「あの、ね。
私……女学校を出してもらうかわりに、卒業したら伯爵様のご子息……つまりハコルに、なんだけど、生涯魔力を供給する約束になっているの」
「えっ!」
なんだ、それは。なんだそれは!
そんな話は聞いていない。
そんな……人身売買紛いの事が、あろうことか僕のために行われているなんて!
僕が驚き憤っていると、アーリサが慌てて付け加える。
「あ!誤解しないで!?
これは私もちゃんと了承して契約したのよ。
魔力を供給するかわりに学校で学ぶ機会を得たし、家族の暮らしは豊かになったわ。
もちろんちゃんと約束通り魔力を供給するつもりよ!」
そこまで言ってアーリサは少し目を伏せた。
「ただ……できればもう少しだけ、勉強を続けたいと思って……。
優秀な成績を納めれば研究員の枠に滑り込めるから、そしたらもう少し勉強を続けられると思ったの。でも……今は」
「続ければいい」
僕は怒りに震えながら言葉を吐き出した。
アーリサが驚き目を見開く。
「僕の母はね、君と同じように微量ながら魔力を供給できる人だったそうだよ。
ただ、体の弱い人でね。なのに知らず知らず僕に魔力を供給していって、そして体を壊して亡くなったんだよ」
「え……」
「君の……っ、何も関わりのない君の人生を奪ってまで、僕は生き延びたいとは思わない!」
絞り出した僕の声が しんと静まり返った書庫に響いた。