痛み
どれくらい そうしていたのか。
シロの消えた毛布を抱えたまま、僕は隠し部屋で座り込んでいた。
情けないことに、どうしたら良いのか分からなかったのだ。
あまりにも胸が痛くて。
心にぽっかりと穴が開いたような気持ち、とはこういう事かと悲しみのなかで妙に冷静に思ったりもした。
そして辺りがうっすらと藍色に明るんできた頃、僕はのろのろと隠し部屋を後にした。
屋敷はシンと静まり返っていた。
どうやって歩いてきたのかも覚えていないが、気がつくと自分の部屋の扉の前にいた。
取っ手にそっと手をかける。
しかしどうしてもそれ以上動くことができなかった。
僕にとってベッドは人生の多くの時間を過ごした場所だ。
そしてその傍らにいたシロは、もう呼んでも現れる事はない。
胸が、痛い。
発作の時よりも呼吸が苦しい。
僕は自室に戻ることを諦めると、扉に背を向けて歩きだした。
自分の部屋以外に行くところと考えたら、ふと頭に裏庭が浮かんだ。
僕の拠り所。
ベッドの次に馴染んだ場所。
そこに行ったからといって、この心の穴が埋まるわけではないけれど……
ただ、何かせずにはいられなかった。
しかし、反面何も手につかなかったから。
ざわめく心のままに足を向けた。
濃く薄く、全てが藍色に染まる裏庭は、幻想的で美しい。
さすがにコナー翁もまだ寝ているのだろう。
物音一つない庭は冬の早朝らしく冷え込み、僕はぶるりと身震いをした。
空を見上げて はぁっ、と息を吐くと熱い思いが真っ白な霞となって現れ、消えた。
「……っ、……」
ふいに小さな嗚咽が聞こえた。
僕は自分の口から漏れたのかと、思わず口に手を当ててみる。
しかし、その微かな泣き声は途切れ途切れに耳に届いた。辺りを見回すが人影は見えない。
僕はその微かな声を頼りにそっと泣き声の主を探した。
声の主はすぐに判った。
僕は常緑の低い木立の向こう側にうずくまる少女を見つけた。
石畳の上にへたりと座り込み、両手で顔を覆っている。
薄いクリーム色のショールの上には艶やかな黒髪が寒そうに夜気を含んで流れていた。
アーリサだった。
細い肩を震わせながら声を押し殺して泣く彼女を、僕は声をかけることもできずにしばらく見つめていた。
何がそんなに悲しいのか。
彼女に何があったのか。
分からないけれど、あまりにも痛々しそうで問いかける言葉を見つけられずに、僕は彼女を見つめた。
見つめるうちに、震える彼女が 何だか自分の半身のような気がしてきた。
シロを失って途方にくれる今の自分と重なる。
僕はそっとアーリサに近寄ると、手に持っていた毛布を震える肩に掛けてやった。
アーリサは人が居たことに驚いた様子で、ビクッと肩を震わし振り返った。
「ハ、ハコル……」
驚きに見開かれた漆黒の瞳は涙で潤み、夜の湖に月明りが映って揺らいでいるようだった。
綺麗だな。
そんな感想がぼんやりと浮かぶ。
「どうして、泣いているの」
アーリサに訊ねる声は小さな呟きになった。
自分でも意外なほど優しい声が出た。
アーリサの瞳に新たな滴が盛り上がり、慌てて下を向いて顔を隠した。
サラリと髪が流れる。
「……っ、何でも……ありませ、……」
絞り出した言葉は途切れて消えた。
僕はふぅ、と白い息を吐くと、下を向いて拳を握りしめるアーリサの横に腰を下ろした。
すると尻から伝わる冷気でぶるりと身が震えた。
さすがに寒いな……
冬の明け方近くとなると、雪が無い日でもかなり寒い。
隠し部屋には暖炉もなく、使用人を入れることも憚られたので僕はかなりの厚着をしていたが、それでもたぶん今鼻の頭は真っ赤だろう。
するとアーリサがはっと顔を上げて僕を見たあと 慌てて袖で涙を拭い 、
「ハコル、部屋に戻ってください。お風邪を引いてしまいます」
と顔を引き締め言った。
何かが有ったはずなのに、泣き腫らした赤い眼で僕を心配するアーリサに、ずっと疼いていた胸の痛みが少しだけ和らいだ気がした。
「僕もそうしたいんだけれどね。部屋に、戻れなくてね」
「え?」
そんなアーリサにこれ以上心配かけたくなくて、なるべくいつも通りに見えるよう肩をすくめた僕に、アーリサは不思議そうに首を傾げた。
僕は何となく、屋敷を見た。
裏庭を望む自室の窓に目が止まる。
「戻れないんだよ。あそこには、シロの……記憶が濃すぎて」
僕の声は穏やかだったと思う。
しかしアーリサは何があったかを察したのだろう。息を飲んだ。
「シロさんは……では……あの……」
「うん」
僕はアーリサに、シロの最後を話した。
「何も残らなかったんだ。
まあ、何せ千年前の魔術具だからね。本来ならとっくに朽ちているはずの物だ。
支える魔力が尽きれば姿を保ことも出来なかったんだろう」
「そんな……」
「でもね、アーリサ。
シロは幸せだったと言ってくれたんだ。
最後に僕と過ごせて幸せだったと。
だから……だから僕は……」
僕は……
話している途中で声がつまった。
視界が霞む。
霞んだ視界の向こうでアーリサがこちらを見て痛そうな顔をすると、両手で毛布を大きく広げ、僕の首にぎゅっと抱きついてきた。
ふわりと瑞々しい花のような香りがして、胸が強く跳ねる。
突然の彼女の行動に驚いて目をしばたかせたら、目の前の彼女の肩に濃い染みができた。
その時初めて、僕は自分がいつのまにか泣いていたのだと気づいた。
相変わらず格好がつかないなぁ。まったく……
そう思いながらも 、しがみつくように抱き締めてくれるアーリサの温もりを感じながら涙を流すうちに、こういうのも案外悪くないかと思えてきた。
一人で何でも完全にこなせなくても、こうして受け止めてくれる人がいる。
こうして真摯に力になってくれる人と、少しずつでも良い未来へ向けて歩いて行ければ良いのじゃないかな。
ねえ、シロ。
「僕は、シロに誇れる立派な領主になりたいんだ」
「なれますよ。ハコルなら、必ず素晴らしい城主様になれます」
「アーリサ、君も僕に力をかしてくれる?」
「もちろんです、ハコル」
アーリサは迷いもなく答えた。
当たり前のようにアーリサが言うので、彼女がいれば僕は本当に立派な領主になれるような気がした。
いや、なるのだ。必ず。
きっと見守っていてくれるだろうシロに、胸を張って報告できるように。
「そうか。
ありがとう、アーリサ」
僕はアーリサを大切に抱き締め返した。
彼女の髪は氷のように冷たく冷えきっていた。
「……寒いね。中に入ろうか。
出来れば一緒に来てくれると心強いのだけど」
「そうですね。火をもらって 部屋を温めますね」
「いや、別に仕事をさせたいわけではないのだけどね……」
アーリサを寒空の下から温かい部屋へ移すべく提案すると、アーリサはにこりと笑って僕に羽織っていた毛布をグイッと押し渡し、働くべく駆けていった。
僕はその張り付けたような笑顔に不安を覚えた。
自分のことで一杯になってアーリサに励ましをもらったが、彼女がここで泣いていたのは何故かを聞きそびれたままだ。
出来ることならアーリサがしてくれたように、僕もアーリサの力になりたい。
僕は手の中の毛布をふわりと広げると、肩に羽織った。
ふわり、と毛布からアーリサの香りがした。
胸の痛みは消えないけれど。
僕は小さく微笑んで小路を部屋に向けて歩き出した。
気がつけば朝日が藍を祓い、辺りは彩りを取り戻し始めていた。




