母の手記
その日の夜に父はハンミルテの件の事後処理の為に王都へと向かった。
僕はシロの元に必要最低限の物を持ち込み、本を読んで過ごした。
人間の看病と違ってシロは苦しむでもなくただ、こんこんと眠り続けている。
時々ヒクヒクと髭が動くのを見て、僕は安堵の息をつく。
「シロ……」
そっと額を撫でてみたが、目を覚ます気配はなかった。
僕は再び小さく息をつくと 本棚に目をやる。
ふと、一冊の薄目で比較的新しそうな本が目についた。
なんの気なしに立ち上がると、僕は棚からその本を抜き出した。
薄い緑色の装丁に仕上がっている飾り気のないその本のタイトルを読んで僕は思わず息を飲む。
『水盆による魔力移行の記録』
これは……!
ドキドキと高鳴る胸をなだめつつページを一枚捲ると、『サラナレア・コーフスネル』の文字が書かれていた。
母さま!
それは間違いなく母の名だった。
僕はその本を胸に抱えてシロの頭元の床に腰を下ろし、シロの寝ているソファの端に寄りかかった。腕をシロの柔らかな毛がくすぐる。
少しだけシロと接しているのがなんだかとても心強くて安心できた。
そっと抱えていた本を開いて目を落とす。
……これは、本と言うよりは研究日誌のような物だな。
始めの方には水盆を魔力移行の道具として利用できるのではないか、と思い至った経緯が記されていた。
『ある日この隠し部屋を見つけた。
魔術人形のシロがふらふらと入っていくので、心配になって後をつけたのだ。
この部屋には様々な魔術書と魔術具がホコリをかぶって置かれていた。
それらを調べているうちに、魔力の移行方法が有ることを知った。その媒体としてこの部屋にあった水盆が最も適していると思えたので、その過程をここに記していく事にした。
この命がつきる前に、愛する息子にこの魔力が引き継がれることを願う。
そしてその傍らに夫の友人であり家族でもあるシが有れば嬉い。
』
その後は何度も実験を繰り返す様子が事細かに書かれていた。
しかしその記録は完成したと思われる所でふつりと途絶えていた。
試してみると書かれた後には記載がない。
おそらく、これが最後になったのだろう。
母さま……
「ありがとう、ごさまいます。母さま」
僕は母の本に額をあて、小さく感謝の言葉を呟く。
母が命を繋いでくれたから生きてこられた。
長年思い続けた「何時死んでもおかしくない自分」に対する引け目と諦めのようなものは、そう簡単には消えてくれないけれど。
僕の事を思ってくれていた母に「ごめんなさい」は違う気がした。
ふと、昼のロリーとアーリサの怒った顔が思い浮かんだ。
僕が僕の命を軽く扱う事を、本気で怒ってくれた。
僕は生きてもいいのだと。
生きなければならないのだと。
そう言われた気がした。
背後のシロを見る。
無防備な顔で眠っている。
それでも彼に魔力を与えて、少しでも、一秒でも長く側にいてほしいと思う。
しかしアーリサや、他の誰かを危険にさらすわけにはいかない。
自分が消えるのは受け入れられるが、自分の周りの人がいなくなると考えるのはなんて苦しいんだろう。
何か……何かもう他に方法は無いのか……
「あ……」
その時、僕の頭に恐ろしい考えが浮かんだ。
ハンミルテは、死罪になるのではないだろうか?
背筋を冷たい汗が一つ流れ落ちた。
それは、甘い 甘い誘惑だった。
ハンミルテはどうせ死罪になる。
ならば、その魔力を奪っても……いや、むしろ奪うべきではないのか?
だってシロがこんなに急に弱ったのはアイツのせいだ。
責任を、とらせるべきではないか?
そうだ、そうすべきだ。
無駄に死なせるくらいなら、アイツから魔力を奪えば……そうすれば……
ごくり、と唾を飲み込んだ。
その時、ふいに目の前を何かがふさいだ。
続いて耳馴染んだ少年のような声が優しく僕を呼ぶ。
「ハコルさま」
ピトリと瞼にあたる肉球の感触。
ふさふさと額にあたる毛がくすぐったい。
「……シロ」
呼ぶ声が自然とかすれた。
「どうされました。恐い夢でも見ましたか?
酷い顔色です」
目を覆っていた手が頭に移動し、よしよし、と小さな子供にするように頭を撫でてくる。
昔から変わらない仕草で。
「恐い、夢……」
僕は呟いて、さっき考えた事を思いだし、そのおぞましさにゾクリと身を震わせた。
僕は……今、なんて事を考えたんだ……!
ヒト一人の命を、物のように考えた。
犯罪を犯したのだからうってつけだと、物の位置をあちらからこちらに移すように。
それはとても合理的で、そして絶対にしてはいけない事だ。
そんなことをすれば、僕はきっと後戻りできなくなる。犯罪者をシロを生かす貯蔵庫のようにしか見られなくなるのではないか。
いや、下手をしたら何の罪もない領民ですらその魔力欲しさに命を奪うようになるかもしれない。
そう、ハンミルテのように。
越えてはいけない一線を、越えてしまうだろう。
その罪は恐らくシロをも巻き込む事になる。
そんなことを、シロに背負わせることはできない。
一線を越える前に気づけて良かった、と思う気持ちと、いっそ落ちてしまえればシロを失わない未来を得られたのにという自嘲が入り交じり、僕は己の心をもて余しながらもシロに
「そうだね。少しだけ悪い夢を見たけれど、もう大丈夫だ」
とできるだけ明るく答えた。
その時、なんとか取り繕おうとする僕の頭を撫でていたシロの手がピタリと止まった。
僕がそれにつられて顔を上げると、少し遠くを見るように瞳をさ迷わせたシロが再び僕の方を見てふっと笑った。
「エディさま」
「え……?」
エディ……?
どこかで聞いた名だ、と思っていると、シロの次の言葉ではっと思い出した。
「また、いたずらをしてマスターに叱られたのでしょう?」
マスター。
シロがそう呼ぶのは一人だけだと、昼に父に言われた。
そうだ。
エディは、たしか千年前にシロが作られる理由になった、魔力の弱い伯爵子息の名だ。
「仕方ありませんなぁ……
シロが一緒に行って差し上げますので、二人で謝りましょう」
「……シロ?」
意識が混濁しているのか、シロが宥めるように僕の方を向きながら笑う。
そしてそっと息をつくと、目を閉じた。
シロの手が僕の頭から下ろされて、だらりとソファの端から垂れる。
僕はとっさにその手をとった。
「シロ?」
再度耳元で囁くように呼び掛けると、シロが細く瞼を開けた。
「シロ、わかるかい?」
僕はシロの顔を覗きこんで訊ねた。
ぼうっと目を開けるシロに、もう一度、ゆっくり訊ねる。
「わかるかい?」
すると、シロは僕の方を見て、にっこりと微笑んだ。
それはそれは、嬉しそうに。
「はい、マスター」




