冬の訪れ
「目を開けてごらん」
低い男の人の優しい声がして、私はそっと目を開ける。
最初は薄ぼんやりと、次第にくっきりと見えてきた視界には、艶やかな黒髪を後ろに撫で付けた年若い紳士の顔があった。
「分かるかい?」
何がとは言わず問いかける紳士の言葉の答えは、しかし私のなかに苦もなく見つけることができた。
「はい、マスター」
この人は私を作った人。
私は、彼の望みを叶える為に彼の手によって作り出された____人形、だ。
* * *
しんと冷えた夜の空気の中、僕は息苦しさに目を覚ました。
喉からは息をする度にヒューヒューと嫌な音がする。
ああ、また発作だ。
今年の冬は例年になく寒い。ただでさえ生まれつき貧弱な僕の体はお陰ですっかり調子を崩してしまった。
本来なら今頃、まだ学校で気ままな寮生活を送っているはずだったのに、あまりに発作を頻発するので僕だけ早めの冬休みを余儀なくされてしまっていた。
ああ、全くもって嫌になる。忌々しい発作め。
内心毒づきながらも、もはや慣れっこになっているので慌てずに体を起こす。
体を起こすと少しだけ、呼吸が楽になった。
「フーーーー……」
深く、息を吐き、大きく息を吸う。
部屋に落ちる深い夜の闇に、粗い僕の呼吸の音が吸い込まれていく。
まだ、大丈夫だ。人を起こす程じゃあない。
そう自分に言い聞かせて、ともするとぐったりと力の抜けそうになる体を励ましながら、毛布にくるまったままそっと覆いを捲ってベッドを下りる。
足下の室内履きから感じられる冷気にぶるりと身震いをしながら枕元のテーブルへ移動すると、そこには僕のために絶えず水差しが用意されていた。
冬の夜気にキンと冷えた水を飲む。
冷水が熱を奪うのか、流れる水が自分の胃の形を教えてくる。
水に潤わされて、つかの間呼吸が楽になった気になるが、すぐにまた息苦しくなる。
僕は顔をしかめると、新たにグラスに水を注ごうとした。
「ハコルさま」
子供のような声が僕を呼ぶのと同時に、ぱっと灯りがついた。
電灯の光に目を細めて振り返ると、入り口にお盆を持った真っ白な猫が立っていた。
後ろ足ですっくと立ちグレーのベストと黒のトラウザーズに身を包んだ姿は一見すると人のように見えるが、全身を覆う柔らかそうな純白の毛皮と本人いはくの「凛々しい」ヒゲが彼を猫たらしめている。
「シロ……起こ、して……しまっ、……か?」
何となく後ろめたい気持ちになっりながら、苦しい息の下で言葉を押し出すと、シロはニャアとヒゲを揺らしながら笑った。
「ハコルさま、お忘れですか?私は伯爵様に千年使える人形でございます。睡眠など必要ありませんので、お気になさらず」
さあ、と言ってシロはお盆をサイドテーブルへ置き、僕をベッドへと促す。
人形と言いつつ、夜は特製のクッションで丸まって寝ているくせに。
そう思ったが、喋るのがおっくうで言われるままにベッドに入る。
背中にクッションをたくさん詰められて天覆ベッドの柱にもたれると、横にならない分息苦しさが増すことはなかった。
そうしてもたれてみると、我知らずずいぶんと体が参っていたようで、僕はもう少しも体を起こす気にはならなかった。
ぐったりと柱に寄りかかっている僕にシロはサイドテーブルに置いたお盆から温かい薬草茶を深いカップに注ぎ入れ、手渡してくれる。
顔を近づけると、ほわりと立ち上る湯気と共に甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ハコルさま、湯気を吸うようにしながら飲んでください」
シロの声に促されて、すぅっと湯気を吸うと、引き絞られていた気管がまるでゆるりと解きほぐされるようだ。
僕は無心で湯気を吸い、時々熱い薬草茶をちびりちびりと舐めるように飲んで喉を温めた。
どれくらいそうしていただろう、気がつけばあれだけ苦しかった発作もすっかり治まってしまった。
呼吸が楽になると、途端にうつらうつらと眠気がさしてくる。
まるで幼子のようで、何だかカッコ悪いな。
ちらりとシロを盗み見る。
この猫の従僕は当家の子供に仕える、いわばナニーのような存在だ。僕はもうナニーが必要な年ではないが、シロは今でもこうして病がちな僕を気にかけてくれる。
僕から空のカップを受け取ったシロは僕の体を横たえると、いつのまにか付けていた暖炉に薪を追加して退室しようとした。
「シロ」
思わず声をかける。振り向いたシロにうっかり言いそうになった言葉を、僕はとっさに飲み込んだ。
「来てくれて、ありがとう」
代わりにかけた言葉に、シロはニャアと笑った。
「また火の様子を見に参ります。お休みなさいませ、ハコルさま」
そっと音もなく閉められたドアを見ながら、僕は顔に熱が登る思いだった。
そのまま ボスンと枕に顔を埋める。
せっかく言うのを思いとどまったのに、あっさり心意を汲み取られてしまった!
本当は慣れてるから平気なんて嘘だ。発作で苦しくて、だんだんと心が弱ってしまっていた。
そんなところにシロが来てくれて、助けてくれて、どんなに心強かったか。
そして一人になる心許なさから、もう少しだけ側にいて欲しいと思った。
でも12にもなって、そんな子供みたいな事を言うのは何となく恥ずかしかったのだ。
でもまた後で来てくれる……。
そう思うと何だか妙に安心して、僕はそのまま眠りに落ちていった。
翌朝目を覚ますと、ベッドの隅っこにシロが丸まって寝ていた。
「やっぱり寝るんじゃないか」
僕は少し呆れながらも、優しい人形を起こさないように そっとベッドを降りて薄暗がりのなか窓辺に寄るとカーテンを少しだけ引いた。
柔らかい朝の光が部屋に差し込んでくる。
昨夜からやたらと冷えていたが、今日はやはりいい天気になりそうだ。
二階にある僕の部屋からは屋敷の裏側の庭が見渡せる。
今の時期はすっかり木々の葉が落ちてしまっているが、庭師が一年草をこまめに入れ換えるので年中花が耐えない。夏になるとそこに さらに緑が生い茂ってとても涼やかで美しい庭になる。
「ハクシュッ!」
少し庭を眺めていただけだったが、窓辺の冷気に当てられたようだ。早く服を着替えて温まろう。
ぶるりと身震いをして振り返ると、そこにガウンを持ったシロが立っていた。
「わあ!」
「おはようございます、ハコルさま」
「な、なんだ、起きたのか。声くらいかけろ」
ビックリした!
驚きにドキドキと早鐘を打つ心臓をなだめていると、僕にガウンを着せかけながらシロがしれっと訂正した。
「シロはずっと起きておりますよ、ハコルさま。シロは千年伯爵様にお仕えする人形でございますので、そもそも眠ったりいたしません」
「は?何を言っているんだ。
さっきまでそこで……」
「眠っておりません」
「…………」
……コイツ、無かった事にする気だ。まあ、確かに主人のベッドに乗っかって一緒に朝までぐーすか寝ていたとは認められないだろうな。
「シロ、僕はもう起きる。
今朝は体調が良いようだから、午前中は書庫に行く」
「かしこまりました」
シロは恭しく礼をする。
「それから何か温かい飲み物を用意してくれ。
今朝は特に冷えていけない」
「承知いたしました」
そう言うとシロは早速仕度をしにドアへと向かう。
そんなシロをドアノブに手をかけた所で呼び止める。
「ああ、それからシロ」
「はい」
「ヒゲに寝癖がついているぞ」
「!!」
指摘するとシロはニャア!とヒゲを立てて驚いたあと急いでドアを出ていった。
朝食を取り、自室に戻って温かい薬草茶を飲んでいると、ヒゲをビシッと伸ばしたシロに今日は従妹のロリーが来ると知らされた。
思わずため息をついてしまう。
僕は彼女が苦手だ。
彼女はとにかく おてんば な娘で、幼い頃は今よりもっと寝込みがちだった僕を おんぶして屋敷中歩き回ったりしていた。
彼女いはく、「歩けないって言うから、私が代わりにあちこち連れていってあげようと思ったのよ」ということらしい。
彼女の気持ちはありがたいが、玄関ホールの中央階段の上でバランスを崩して空中に放り出された時は、正直死を覚悟した。
病弱な僕が 持病以外で死を覚悟することになろうとは。
日がずいぶんと高くなり、気温が緩んできたので暖炉の火を少し弱めた頃、本を読んでいた僕の耳に廊下からけたたましい足音が聞こえたてきた。続いてバーン!と体当たりしたような音をたててドアが勢いよく開き、ロリーが入ってくる。
くるりくるりと弧を描いて揺れる、腰まである長い髪は光を弾く金色で、深い森色の瞳は生命力に溢れている。彼女の母の、少女らしくして欲しいという願望で着せられている薄桃色のドレスは残念ながら彼女の魅力に霞んでいる。
「ごきげんよう、ハコル!
今日はベッドに沈んでないのね?」
「やあ、おはようロリー。
君は相変わらず太陽のように元気そうだね。
その元気を少し分けてほしいくらいだよ」
たいがいなロリーの挨拶に、僕はにっこり笑ってトゲを返すが、ロリーはいっこうに気にした風もない。
「ねえ、元気なら街を案内してちょうだい!
久々のコーフスネルですもの、久し振りに見て廻りたいわ」
そう言って僕の手をとってグイグイと連れ出そうとするのに必死に抗っていると、間に割って入ったシロがそっとロリーを押し止めた。
「申し訳ございません、ロリーお嬢様。ハコルさまはまだ体調が万全ではございませんので、今日のところは……」
「あら、シロ。ハコルが体調不良なのは今に始まったことではないわ。
ハコルが元気になるのを待っていたら、私お婆ちゃんになってしまってよ!」
「……そう仰って昨年ハコルさまがお倒れになるまで雪合戦をされましたね?」
ロリーがぐっと言葉に詰まった。
昨年雪の中でぐったりしたハコルを慌てて昔のように担いで運ぼうとし、運びきれず共倒れになって屋敷の者の肝を冷やしたのは記憶に新しい。
あの後ロリーは叔母さまに散々怒られたと聞いた。
「……わかったわ」
あまり納得していない顔をしているものの、ロリーはひとまず頷いた。
よかった。珍しくロリーが訪れたのに静かに本を読んで過ごせそうだ。
そう思ったのもつかの間、太陽のような輝きを取り戻したロリーはぱっと顔を上げて言った。
「今日は我慢するわ!
どうせ今回は一冬まるまるこっちに居るのですもの。街には何時でも何度でも行けるわよね!」
「なっ!」
僕はあまりの事にシロを振り返ったが、シロもその事は知らなかったようでヒゲをビンと立てて驚いている。
「ふふ、驚いた?
どうせハコルが暇してるだろうと思って、叔父さまにこっそりお願いしておいたのよ!
サプラーイズ♪」
ロリーは両手を高らかに天に掲げてイタズラが成功したことを喜んでいる。
僕はこの冬に襲い来る試練に目眩がしそうだった。
「あ、あの、ロリー……」
「ああ、そうそう。それともうひとつサプラーイズ!」
どこからともなく聞きなれない声がしたかと思ったら、急にはっと思い出したようにロリーが言った。
今度はなんだ。
「今回は私の友人、アーリサもお招きしたのよ!」
ロリーがぱっと体を避けたそこには、おどおどとした様子の女の子が立っていた。
ロリーよりも一回り小柄な彼女は、全てにおいてロリーと正反対だった。
しっとりと艶めく夜色の髪に困ったように僕を見て微笑む黒曜石の瞳。白い肌は緊張からかうっすらと桃色に蒸気している。
「あ、あの、ハコルさま。
お初にお目にかかります。アーリサと申します」
おどおどしつつも、意外と綺麗な所作でアーリサは淑女らしく礼をした。
ますますロリーの友人とは思えない。ロリーはぜひともアーリサの爪の垢を飲むべきだと思う。
僕にそんな失礼な事を思われているとはつゆ知らず、ロリーはご機嫌にアーリサの事を自慢する。
「ハコル、アーリサは凄いのよ!
なんと魔術で花を咲かせることができるの!」
「それは凄い」
僕は素直に驚いていアーリサを見る。
魔術は失われつつある貴重な力だ。
建国の昔には世界は魔力を原動力に動いていたと言われている。
シロもそんな古の魔術の産物だ。
僕の先祖が協力な魔力を用いてシロを作ったと聞いているが、詳しい事はシロしか知らない。
シロに昔の事を聞くと、少し悲しそうな顔をするので、僕からは昔の事は聞かなくなった。
今でも先祖帰りで時々魔力持ちが現れるが、シロのような者を作り出すほどの強い力を持っている人は確認されていない。
「あの、咲かせると言っても、少しだけなんです。
蕾のついているものを開かせると言うだけで、そんなに凄くは……」
「いや、とても素敵な能力だと思うよ」
心からそう思ったのもあるが、やたらと恐縮するアーリサにどうせこの冬一緒にいるのなら居心地よく過ごしてほしくて優しく話しかけてはみた。
しかしアーリサは益々ちじこまるばかりだ。
うーん、アーリサも少しロリーの爪の垢を飲んだ方が気持ちが楽になれるかもしれない……
「そうよ、アーリサ!
早く花が咲けばそれだけ早く梨や桃の実が食べられるじゃない!最高の能力だわ!」
本当だ、頭良いなロリー。
でも女子としては何かガッカリだ。
ロリーは僕にもう少し女の子に夢とか持たせてくれても良いと思う。
「ねえハコル、レディーがこうして貴方のために訪ねてきているのよ?
街は無理でも庭くらい案内してくださらない?」
レディーに恥をかかせるものではなくってよ、と言うよく分からないロリーの提案に、僕はしぶしぶ腰を上げた。
まあ、庭くらいなら……
と言っても僕は自分の屋敷の庭もあまり詳しくはないのだが。
なにせ子供の頃は庭にすらあまり出られなかったし、九つになると全寮制の学校に入らなければならなかったのだ。
僕の知っている庭は……病床で窓から眺めるあの裏の庭だけだった。
「晴れててとっても気持ちいいわね!」
ロリーは庭に出るとぐっと伸びをした後、そこかしこを駆け回り始めた。
庭石の上を跳び跳ねたり、木の下をくぐったりと子供の頃と変わらない好奇心を見せる。
令嬢としてはどうかと思うが、あまり駆け回ったりできない僕としては彼女の生命力溢れる様子は正直羨ましい。
庭の中程にさしかかると、庭師のコナー翁が 丁度手入れをしている所であった。
コナー翁は僕たちに気がつくと、使用人らしく作業を止めて目に付かない所に移動しようとする。
「コナー、かまわないよ。そのまま続けて」
「ですが、ハコルさま……」
コナー翁がちらりとロリーとアーリサに目をやる。
「僕はコナーが庭を造っているところを見るのも好きなんだ。まるで手品を見ているような気持ちになる。だからそのまま続けていて欲しいんだ。二人とも、構わないだろう?」
二人を振り返ると、ロリーは特に興味なさそうに、アリーサは目を輝かせて「ええ」と言った。
「あっ、あの!ハコルさま」
「ハコルでいいよ。なに?」
それまで大人しくしていたアーリサが急に僕に呼び掛けてきた。
「あの、私、お爺さんとお庭の事についてもっとお話しをしたいのです。もしお邪魔でなければ……」
チラチラと僕とコナー翁を交互に見上げてくる。
コナー翁を見れば、少し困った様子で僕を見てきた。
うーん、コナー翁は昔から僕の話し相手になってくれていたくらいだから、気難しい訳でもないし子供が嫌いなわけでもないけど……
僕らくらいの年の子供は少し難しい。
機嫌を損ねると悪知恵を働かせて使用人を貶めたりもする。コナー翁もできれば関わり合いたくは無いだろう。
アーリサはぱっと見そんな様子は無いけれど……
僕はチラリと後ろに控えているシロを見た。
シロはピクンと耳を揺らすと腰を折った。
「ハコルさま、会話に入ることをお許しください」
「うん、許す」
僕が答えると、シロはアーリサに向き直って微笑みかけた。
「アーリサさまは魔術で蕾を開かせる事ができると聞きましたが、コナーと話したい事もその一貫でございますか?」
「え?ええ、そうなんです」
アーリサはこくんと頷いた。
コナー翁は「おお、それは凄い」と言うと興味を引かれたような顔をしている。
僕もそういう事なら良いかな、と思う。
でも丸投げするわけにはいかないので、ロリーはシロに任せて僕がついていよう。うん、そうしよう。
しかし残念ながら僕の計画は実らなかった。
「ハコル!こちらに来てご覧なさいよ!
変な虫をみつけたの!」
片手に木の枝を握りしめたロリーがもう片方の手でグイグイとハコルを引っ張って走る。
始めこそ天真爛漫な子供という風だったロリーの髪はいつの間にか葉っぱや蜘蛛の巣だらけになりドレスは泥だらけで、もはや浮浪児のようだ。
そんなロリーに半ば引きずられながら、遠くでシロとアーリサとコナー翁が楽しそうに談笑しているのを見る。羨ましい。
僕もぜひともあちらに混ざりたい。
しかしこの従妹殿は何故か真っ直ぐに僕の所へやって来て、つれ回してくる。
きっと彼女は僕の面倒を見てやっているつもりなのだろうが。
ああ、しかしだんだんと呼吸が苦しくなってきている。
これは……良くないかもしれないな……
「ロリ……、ロ……、まっ……」
ロリーに必死に止まってと言おうとするも、なかなか声にならない。
いけない……頭がジンとしてきた。
するとロリーがピタリと足を止めた。
「ここよ!ここに白い塊があるでしょう?
ね、可笑しいでしょ!
それでここをこの棒でつついてやると……ほら!
汁が出てきたわ!あはは、気持ち悪ーい!おっかしいー!」
あはははと笑うロリーの声を遠くに聞きながら、僕は意識を手放した……