三話 雌伏する天文術式
この世界の天文学が紀元前レベルと知り、俺はその場に崩れ落ちた。
なんてこった。腐ってる。世の中腐ってやがる。二十一世紀とまでは言わない。十八世紀ぐらいのレベルがあれば楽だったのに。
これでは紀元前レベルだ。馬鹿じゃないのか。馬鹿なのか。天文を利用した魔術も存在しないというし、前世のように歴史を漁って組み立てる方法も使えそうにない。
「くそっ、クッソ……!」
「だ、大丈夫かアマノ。良く分からないが、私はアマノの味方だ」
絶望して顔を覆っていると、トリウィアが背中を撫でてくれた。その優しさが心に痛い。
「まさか天文術式がこの世界では使えない事に気付いた、とか」
「いや、使える。使えるはずだ。でもな、手間がな」
伊達に古今東西の天文魔術を研究し尽くしていない。現代技術に頼らない、天体に関する大昔の測量術、記録法、原始的な星図の作り方。そういったものは頭に入っている。それを駆使していけば、この世界でも星の大きさを求め、惑星間の距離を割り出し、大きさを特定できる。が、恐ろしく時間と手間がかかる。これまでパソコンの演算ソフトと先人が蓄積したデータに頼りきって術式を構築してきただけに、原始人レベルから始めなければならないというのは面倒臭いを通り越して虚脱感しかない。
まったく信じられない。
望遠鏡を作り、毎晩毎晩空を眺めて星の動きを紙に書き続けるところから始めなければいけないのだ。
最低でも一年は天体観測を続け、データを貯めなければ何もできない。更にそこから計算し、数値を割り出す。慣れない手製の望遠鏡と手書きの星図から導き出したいい加減な数値でも発動するように天文術式を調整して。この世界の星辰次第だが、形になるのは最短で二年後か。
……二年後か。
あれ? 案外短いぞ。
魔法の研究を始めてから十年。それに比べれば二年程度なんて事は無い。こんな障害で躓いていたら仲間に笑われてしまう。
「すまん、大丈夫だ。少し取り乱した」
「そうかい?」
「ああ」
前向きに考えれば好条件もある。例えば、屋敷の窓にはガラスが嵌っている。ガラスがあるなら、望遠鏡を作るのは難しくない。かのガリレオ・ガリレイは、倍率十倍の望遠鏡をたった一日で作り上げたという。ガリレオが一日で作ったのなら、俺でも数日でできるだろう。
更にこの屋敷はツェーヴェ霊峰の山頂にある。下に雲海を見下ろせるほど標高が高く、空気が澄んでいて、天体観測に適した立地と言える。
そしてトリウィアは世界最高の魔女。知識も戦闘力もトップクラスで、彼女をどうにかできる存在は片手で数えるほどだとか。その庇護の下にあり、衣食住の保証付。何も気にせず、安心して研究に打ち込める。
俺はトリウィアに事情を説明し、当分天文術式のお披露目はできそうにない事を伝えた。理論の概要を話すぐらいならできるが、そもそもその理論がこの世界でも通用するかどうか確証がない。データの蓄積待ちだ。それまで天文術式は休眠状態になる。
天体観測は望遠鏡が出来上がり次第始めるとして。
データが貯まるまでは、そう。この世界の魔法について学ぼう。
魔法、魔法、魔法。
もうその響きだけで幸せになれる。この天野、魔法なら天文術式にこだわらぬ! 魔法を知りたい使いたい! なんでもいいからとにかく魔法だ!
ガラスを削り、磨いて凹レンズを作りながら、トリウィア先生の講義を聞く。
曰く、この世界の魔法は三つに分類されるらしい。即ち「魔技」「魔道具」「ギフト」。
この世界には生まれつき魔法が使える種族=魔物がいて、その魔物が使う魔法を「魔技」という。
魔法を使う動物だから魔物。別に人を憎んでいたり、瘴気から生まれたり、といった事はない。肉食の魔物なら人を襲うこともあるだろうが、それはライオンや熊も同じだ。本当に単純に魔法を使えるだけの動物である。そしてその魔物が使う技だから、魔技。単純明快なネーミングというか、単に翻訳が単純に訳しただけだ。
「魔道具」はそんな魔物の体を使って作られる道具だ。角から火を出す魔物がいれば、その角を切り取って加工し、火を纏う剣にする。外敵に襲われた時にバリアを張る魔物がいれば、その毛皮を盾に貼り付けて硬い盾にする。そんな感じだ。加工された魔技とも言える。
魔道具は生物由来の道具であるせいか、鮮度がある。魔物から素材を剥ぎ取って時間が経つと、素材が持つ魔法的特性が弱くなっていくのだ。だから魔道具は常に需要と生産がある。魔道具の材料にするために狩り尽くされ、絶滅した魔物もいるとか。汎用性の高い魔道具の材料になる魔物は家畜化もされている。屋敷の裏の畑に植えられている高山植物っぽいものも魔道具の材料になるらしい。
俺の頭に刺さっている翻訳角も、複数の魔物の素材を組み合わせて作った魔道具なのだとか。魔道具凄いです。
「ギフト」は謎が多い魔法だ。
この世界の人間は普通魔法を使えないのだが、時々魔法が使える者がいる。それは生まれつきであったり、ある日突然使えるようになったモノであったりする。
これは魔物や魔物でない普通の動物にも言える事で、この世界の生き物は誰でもギフトを持つ可能性がある。誰かに特別なチカラを贈られたようである事から「贈り物」と呼ばれている。
ギフトの取得条件は不明で、内容もランダムだ。残像ができるほど素早く動けたり、異様に回復力が高かったり、火を出せたり、冷気を纏っていたり。良いものばかりではなく、体が腐り落ちていったり、膝が突然爆発したりするようなロクでもないギフトもあるから単純に祝福であるとは言えない。
トリウィアもギフトを持っているという。
十八歳の時に「不老」を取得し、それから数年~数十年おきに「硬化」「発火」「右手が磁石になる」「生命探知」「浮遊」を得て、今では六つのギフト持ち。
ギフトは長生きしているほど複数持ちやすい傾向にあるため、三百年以上生きているトリウィアの六つは驚くほどではない。驚くほどではないが六つのギフトはどれも使えるギフトで、そのおかげでトリウィアは世界最高の魔女になれたと言っても良いだろう。
ちなみに人間のギフト持ちは約三百人に一人。複数持ちは一万人に一人いるかどうか、らしい。
「君を召喚したのは『生命探知』と魔道具を組み合わせた複合魔法だね」
そう言ってトリウィアは講義を締めくくった。
「なるほど。それはもう一度使えたりはしないのか?」
「ん、できなくはないね。何故だい?」
「星の知恵派の仲間も喚びたい」
彼らとは苦しい時も楽しい時も一緒だった。俺だけ異世界に召喚されて満足という訳にはいかない。魔法に満ちた、この素晴らしい世界を一緒に味わいたかった。
土下座も辞さない勢いの俺に、トリウィアは少し困った様子で頬をかいた。
「すまないが、魔道具の材料が足りなくてね。すぐには無理かな」
「どれぐらいかかるんだ?」
「……百年?」
「百年!?」
長すぎる!
百二十七歳まで生きる自信はないぞ。
「俺も材料集めを手伝う。それでもうちょっと短くならないか」
「厳しいね。この世界最強の生物の鱗が必要なんだよ。運良く市場に流れて、運良く確保できるかどうか、という話だから」
「……鱗ぐらいならそっと忍び寄って剥ぎ取れないか?」
「軽く息を吐くだけでこの屋敷を塵にできる生物を相手に?」
「あ、無理です」
やめてくださいしんでしまいます。
星の知恵派召喚は保留にして、実際にギフトと魔道具を見せてもらった。
「硬化」をかけて曲げる事すらできなくなった葉っぱ。全身全霊で曲げようとしたが、葉っぱより先に指が曲がりそうだった。
「発火」はもう見ていた。暖炉の中では薪か何かが燃えていると思っていたが、発火の火だったらしい。
「右手が磁石になる」は右手に鍋や包丁がくっついていた。はい。
「生命探知」は見ていてもよく分からない。
「浮遊」は実際にかけてもらった。体から重力が消えたように浮き上がる。エレベーターが止まる時のあの浮遊感に少し似ていた。無重力とはこんな感じなのだろうか。少し怖い。
「いつもは包丁に硬化をかけて刃こぼれしないようにしているのと、暖をとるのに発火を使っている事ぐらいだね」
「万能キャラだなー」
ちっぽけな人間が呪文も儀式もなく、意思一つで超常現象を起こすというのは、実際目にして体感すると改めて驚きだった。
地球世界では強大な星の力を借りてもライターレベルの火すら出せなかったというのに。ちょっとこの世界は優遇され過ぎじゃないか。
「俺にもギフトが贈られくると思うか?」
「それはなんとも言えないな。この世界の生物なら誰でも可能性があるけど、君は異世界人だし、そもそもギフトの仕組みがよくわかっていない。ギフト持ちの体を材料に使っても魔道具は作れないから、魔技とは違うようだけれど」
「そうか……」
魔法……
魔法使いたかった……
「しかし魔道具なら君にも使えるはずだ」
「!」
魔法!
魔法使える!
思わず椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった俺に苦笑しながら、トリウィアは薬瓶を持ってきた。
透明な瓶には白濁したネバネバの液体がなみなみと入っている。
「これは高山クラゲの体液。毎年夏になるとツェーヴェ霊峰の雲海に大量発生するから、在庫は有り余っている。平地の人間にとっては稀少素材なのだけどそれは置いておくとして、これは指で強くこするとその場に留まって光るんだ。見ていてくれ」
そう言ってトリウィアは白濁液を指に絡め、中空に伸ばしそこで擦った。すると豆電球ぐらいの仄かな明かりが灯り、なんとそれは指を下ろしても宙に留まり続けていた。
「お、おおおおおお! 魔法だ! や、やりたい! 俺もやりたい!」
「好きなだけどうぞ」
トリウィアに渡された瓶に指を突っ込み、空中に光を灯しまくる。
こする。明かりが灯る。
こする。明かりが灯る。
こする。明かりが灯る。
う、うおおおおおおおおおおおおお!
ジャンプして天井近くに明かりを灯す。
液をたっぷりすくい、指を擦りながら動かして光の線を描く。
液を手のひらに塗りたくり、喜びに踊り歌いながら屋敷を飛び出し庭を駆け回る。
ああああああああああああああああ!
庭を光の帯で埋め尽くすと、瓶が空になってしまった。
ああ、もう終わりか。
ガッカリしてとぼとぼ屋敷に戻ると、呆然として固まっているトリウィアと目が合った。
あっ……
はしゃいでいる所を全部見られた。
ぎゃああああ!
誰か時間戻してくれ! 知的な俺のイメージが! いやダメだ! 時間戻されても同じ事繰り返す自信あるわ! 魔法は至高だからね! 仕方ないね!
「あの、すみませんでした」
「いや、まあ、ここまで喜んで貰えると。うん」
トリウィアは少し引いていた。