第七十一話 スローモーション
「これは貴女に送ったブローチですよ、開封もせずに送り返されてきましたがね」
太陽をモチーフとした向日葵のブローチでした。
「何度も何度もプロポーズの手紙を書いたのに、ひとつの返事もない」
顔も知らない人を好きになれるものなのでしょうか。私には分かりかねます。たとえ、好きになったのだとしても、相手は自分の顔も知らず会ったこともないのですからプロポーズされても困るだけですよ。
「きっと恥ずかしがっているだけなんですよねぇ? 慎ましい方だ。そうだ、確か近くに教会があります。今から行って神の前で誓いましょう」
うっとりと呟いた飯橋さんは、こちらへ来ようとしています。
何故そこまで勘違いができるのか、不思議としか言いようがありません。
「は、速水君。苦しいので少し力緩めてくれる?」
「あ、あぁごめん」
「これ、使って」
ようやく力を緩めてくれたので、鉄扇を渡しました。
「奈津子さんは誰かを呼んできてもらえる?」
「うん」
「早良君、奈津子さんに付いていって」
「え、でも」
「他に仲間がいて、奈津子さんに危害を加えないという保証がないから」
今ここで走って逃げることは容易ですが、他のお客さんを巻き込むわけにはいきません。
「僕が盾になるから、陽向ちゃんも行って」
「ダメです、そんなことをしたら速水君、怪我するかもしれないし」
首を横に振ると速水は困った顔をしました。
でも速水君だけを残して逃げるなんてできません。
「貴様か…ミナさんを誑かしているのは」
いえ、だから私はミナさんではないんですって。
「いつもいつも側にいて、邪魔してくれたな」
「え? いつもってわけじゃないですよ?」
思わず言うと、隣にいた速水君がため息をつきました。
だって、女子と男子は部屋が別ですし。
池を見に行った時は確かに速水君がいましたけど、二人きりというわけではありませんでした。
「うん…まぁ、良いよ」
何で残念そうな顔をするんですか、速水君。
あぁ、でも思い出してみると父のストーカーさんたちも、誰かのせいにしていました。貴女がいるから…とかお前が邪魔をしているからとか。
毎日自分に笑いかけてくれた、声をかけてくれた。だから私を好きに違いない…なのに自分に告白してくれないのは、お前が邪魔をしているからだ! ってびっくりするようなことを言っていました。
「僕のミナさんから離れろ!」
「いえ、この場合。私が速水君の服の袖に掴まっている状況でして…」
「これ以上、話さない方が良いと思うよ」
速水君にため息混じりに言われました。
あれ? おかしなこと言いました?
あ、それから、貴方のではありませんしミナさんでもありませんから。
おもむろに飯橋さんがブローチをしまったので、ようやく諦めてくれたのかと思いきや、先ほどまで私たちが座っていたベンチに手をかけました。
「ちょっ、えっ、嘘」
火事場のなんとやらなのでしょうか。
背もたれがないとはいえ重そうなベンチですよ?
それを持ち上げてこちらへと投げつけたのです。
「きゃっ」
速水君にも私にも当たりはしませんでしたが、飛び退いたせいで両側に分かれてしまいました。私は尻餅をついてしまい、立ち上がろうと顔を上げたところに飯橋さんの手が伸びてきたのです。
鉄扇は速水君に渡してしまいました。
万事休す!
飯橋さんの手が近づいてくるのが、スローモーションで見えました。




