第百三十一話 記憶
交代に来た護衛の方が、松岡さんが号泣しているのを見てビックリしていました。
普段めったに泣かないのだそうです。
怒られたりしないのかなと心配しましたが、大丈夫なようでした。
「ここじゃ言わないだけだろ。控え室に行ったら、やはり怒られるさ」
「そうですか。泣かせようと思ったわけではなかったんですよ。後で謝らないといけませんね」
「いや、警護中だろ。どんなことにも感情を揺さぶられてはいけないってこと。人間だから難しいところだけどな」
「忍者もそう言うときがありますか」
「極力なくさないといけないけど、どうやったって人間だから。そういう時もあるっちゃある」
片倉さんは苦笑して私の肩を軽く叩きました。
「そう言うときはどうするんです?」
「切り替えるために目を閉じる」
「目を閉じる?」
「周りの音に耳を澄ませるんだ」
私は目を閉じてみました。
自分の呼吸の音、片倉さんの気配。
ふと足音が聞こえたような気がして目を開けました。
「もしかして、今の聞こえたのか?」
「え? 足音ですか?」
「……警護対象じゃなかったら、本当に勧誘したいくらいだ。訓練すれば忍者の足音聞こえるじゃないか?」
とすると、今のは忍者の足音ではないということですね。
「誰の足音でした?」
「扉のところに立っている警護が交代に来たみたいだ。……今のは?」
「聞こえませんでしたけど?」
そう言うと片倉さんはニヤッと笑って親指と人差し指で丸を作りました。
「合格」
「あ、試しましたね?」
「乗っかるやつもいるからなあ。ところで、松岡が号泣しちゃって話しが途中だったけど。まだあるんだろ?」
最後にする話しとなると、一つしかありません。
「小さいものは似たようなことでしたけど」
印象的な事件といえば、一つだけです。
未だに思い出すと恐ろしいんですよ。時々夢に出るくらいに衝撃的だったのでしょう。
「私に何も害はなかったのですが、遠くからロープを持って走ってきた女性がいました」
「ロープ?」
「刃物だと誰かに見咎められやすいと判断したのではないかという話でしたけど。冷静には見えませんでしたから、見えるところにあったものを持ってきたのではないかと私は思います。カッと見開いた目で両手でロープを持ちながら全速力で走ってきたんです」
小学生でしたから、まだそんなに身を守るすべを知らず。
その恐ろしさのあまり動けずにいました。
彼女は私の前まで来ると、さっきまでの表情が嘘のように優しくなって。
「笑顔で“どっちが良い?”って聞かれたんです」
片倉さんは表情を歪めて拳で口を覆います。
「っ……悪い。今更どうもできないのに」
「いえ」
「それで……どうなったんだ?」
「意味がわかりませんので答えようもありませんでしたし、恐ろしさで声もでませんでしたから。ただ彼女の顔を見ていました」
焦れる様子もなく私の答えを待っていた彼女。
周りの人がさすがに可笑しいと思ったのでしょうね。警察を呼んでくれました。
「警察が近づいて来ても彼女は微動だにしませんでした」
何かを言っていたら……と思うと恐ろしくなるのです。
「後で知ったのですが、父の元同僚の方だったそうです」
父が転職することになったあたりでした。
その後、引っ越したので会うこともありませんでしたが。
刃物を持ち出してきた女性より、私の記憶の中では彼女が一番恐ろしかったのです。