四
移籍してからも雅博の芝居への情熱は変わらなかった。ただ、舞台以外の仕事が入るようになった。テレビドラマの仕事(大抵は死体役とか、一言二言のエキストラだった)もあれば、テーマパークのアトラクションに出演なんていうモノもあった。
「なんでも屋だね。それはそれで面白い」
雅博はそういって笑っていたが、決して満足している訳ではないのはわかっている。舞台が好きなのだ。スポットライトの熱さ、観客の息遣い、演じる俳優達の情熱。それらがまるで一つの生き物のように蠢き、うねる舞台が。牧子にはそれが痛いほどわかる。
「続けてたら、きっとなにかにつながるよ。そう思わなきゃ」
自分に言い聞かせるような呟きに牧子は黙ってうなずくしかなかった。
「舞台、どうよ」
久々に翔子から電話が入った。相変わらずのぶっきらぼうな喋り口調で雅博にオファーをしてきたのだ。
知り合いの脚本家から翔子に問い合わせがあったらしい。翔子は劇団を辞めた後、フリーの脚本家として活躍していた。テレビの連続ドラマを書き下ろして賞を取ったのを機に、仕事は順調に増えていた。
「前の舞台をたまたま観に来てたんだって。それで『今度の新作に雅博を起用したいんだけど連絡とってよ。』って、頼まれた。雅、する?」
「勿論!」
雅博は受話器を持ちながら小躍りせんばかりに喜んだ。
その脚本家が率いる劇団の公演に客演という形で雅博は出演した。久しぶりの舞台という事もあり、雅博のここしばらくの欲求不満を、全部爆発させて、昇華させたような渾身の芝居だった。
牧子は公演の間中、毎日のように劇場に足を運び、千秋楽には涙をこぼす雅博をみて貰い泣きをした。割れるような観客の拍手が、くらくらするほど心地よかった。
舞台は客の入りもまずまずで、新聞や演劇雑誌には好意的な記事が載った。その記事の中には「山本雅博の若手ながらもベテランに引けをとらぬ演技が、物語の展開を引き締めていた。今後の活躍に期待したい」というような、短いけれど絶賛するようなものもあった。牧子は思わずその記事をスクラップした。
この舞台が転機となり、事務所から持ち込まれる仕事は徐々に質が上がっていった。テレビの仕事も、最後のロールに名前が載るようになってきた。
ようやく軌道に乗った。
牧子はそう確信した。
「映画?」
雅博からその話を聞いたのはそれから半年ほどしてからだった。
「そう。映画。それもかなりデカイ話なんだけど……」
雅博はスタッフと主なキャストの名を挙げていく。牧子でも知っているような著名な面々だった。
「台本をもらったんだけど、凄く目立つ役なんだよね……」
「すごいじゃない! 良かったね!」
思わず歓声を上げる。しかし雅博の表情は冴えなかった。
窓のカーテンを開け、暗くなった外に目をやる。ガラスに映った雅博の瞳はなんとも頼りなげだ。
「なんで? 素直に喜べない?」
「そういう訳じゃないよ。嬉しいんだけど」
わざと少しおどけた調子で、牧子は雅博の顔を覗き込んだ。雅博は遠くを見つめている。
「どうしたの? ちょっとビビってますかぁ?」
雅博は不意に牧子を抱きしめた。思った以上に強い力に牧子は戸惑う。
「茶化すなよ。……本当にビビってるんだから」
耳元で溜息まじりのかすれた声が響いた。力のない声だった。
「順調すぎて、怖いんだよ」
彼の不安はわかるような気がした。
演劇に対する情熱は人一倍強いと言っても、劇団の規模はそれほど大きいものではなかったし、今まではほとんど舞台の仕事ばかりだった。同じ芝居と言っても、映像の業界での知名度を考えれば、まだまだ新人のようなものだった。なによりも彼自身に、芸能界と言われるような華やかな世界と、自分の立っている場所が同じモノなのだという意識がまだ確立されていない。芝居以外の事については、雅博はアマチュア、いや、素人のようなものだ。
「凄い勢いで、知らない世界へ踏み込んでいくみたいだ」
「……大丈夫だよ」
牧子はそっと背中に手を回した。母親が子供をなだめるように、軽く背中を叩く。
「時々、夢を見る。山を登っているんだ。一人で延々と。道は険しくて、先は霧がかかっていて見えない。でも昇らなきゃ……そう思って歩き続ける。そしたら急に崖から落っこちて、目が醒める」
雅博は牧子の身体を離すと、その場にゆっくりと座り込んだ。膝を抱えて腕の中に顔をうずめた。
「自分でも情けないんだけどね。不安だけが膨らんでいく……」
牧子もその傍らに座り込み、肩に手を回した。
「大丈夫。大丈夫だよ。雅博はきっと成功する。雅博の芝居は、どこに行っても通用するんだって、翔子も言ってたじゃない。保証するよ。あ」
雅博は牧子を抱き寄せ、その場に覆いかぶさるように押し倒す。
「前、僕に投資する、みたいな事言ったろ?」
牧子の首筋に顔を埋めてきた。耳元に熱い呼吸を感じ牧子は思わず首をすくめる。雅博の手はいつになくせわしない動きで牧子のセーターの下にもぐりこんできた。
本当に不安でしょうがないのだ。確かなものにすがりつきたい、そんな勢いで牧子の身体を愛撫する。
「……そんなくだらない事、忘れて」
「僕に投資して失敗だったとか、思ってる?」
「思ってないわよ。……そんな事。絶対……思ってないから」
雅博を強く抱きしめる。大丈夫、大丈夫と呪文のようにつぶやく牧子の唇を雅博はむさぼるように自分の唇でふさいだ。
甘美な刺激の波間に引きずり込まれながら牧子は雅博に呪文をかけた。
大丈夫。あなたは絶対に大丈夫……。
<続く>