三
ちょっとした変化が起きたのはそれから二年たってからだった。牧子は相変わらず面白くないOL生活を送り、雅博は細々とバイトとしながら生活の大半を芝居に費やす日々を送っていた。
その日、深夜まで雅博は帰ってこなかった。劇団の公演は最近終わったばかりで、次の舞台の準備にも入っているはずもなかった。いつもなら牧子が仕事から帰ってくる頃には家にいて「おかえり」と、あの屈託ない笑顔で迎えてくれるのだが。
日付が変わってしばらくしてから、雅博が帰ってきた。
「遅かったね。……どうしたの」
珍しく深刻な顔をしていた。牧子の問いにも答えず、居間のソファーに座り込む。こんな雅博を見るのは初めてだった。
「解散するんだよ」
「解散? なにが??」
あまりに唐突な言葉に牧子は聞きなおした。有名なロックバンドとか、国会とか、色々な名詞が頭に浮かんだ。
「劇団が、さ」
牧子は言葉を失った。運営が厳しいという話は翔子からも聴いていたが、それは小さな劇団はどこも同じで、即解散という状況には結びつかなかった。
「経営の問題だけではなくて。簡単に言うと、仲間割れだよ。方針が違うってさ」
雅博は多くは語らなかったが、どうやら内部の勢力争いという構図があったようだ。その火種が大きくなり、ついに翔子を始め、中心メンバーの半分が退団するという話になったようだった。
「よくある話だけどね、こんな小さなしがない集団で、なんでこんなつまらない結果になるんだろう。僕には理解できないよ。一生懸命、やってきたのに……。皆、莫迦だよ」
雅博は悲しそうにそうつぶやいた。
劇団は以前より少し大きくなっていた。人数も増え、まとまりがなくなってきた。それは翔子や雅博の話から想像がついた。でも、いわば役者バカの雅博にとっては、芝居が出来る空間である事に変わりはなく、彼にとってはかけがえのない場だ。そこが無くなる。
牧子は隣に座って背中をなでた。男性にしては細い背中が、ますます細く見えた。
それからしばらく雅博はバイト以外は家にこもっていた。しばしば劇団関係者からの電話があったが、あまりまともに応対していないようだった。朝、牧子を送り出し、ぼちぼちと家事をし(余計に仕事が増えることがあるので、牧子としてはあまり好ましくなかった)、バイトに行き、テレビを見て、寝る。そんな生活を送っていた。
「ちょっと出かけてくる。帰りは何時になるかわからないから」
久しぶりにバイト以外で外出した雅博は言葉通り帰って来なかった。時期が時期だけに、牧子はだいぶ心配した。連絡を入れようかどうしようかと何度も携帯を手にしたが、結局かける事ができなかった。
ほとんど一睡もせず朝を迎え、仕方がないので出勤の用意をして家を出る頃になって、雅博が帰ってきた。
「連絡くらい入れてよね」
安堵しながらつい強い口調でたしなめる。
「ごめん。今後の相談をしてたもので」
雅博はいつもの笑顔で言った。牧子は少しほっとしたが、時計を見ながら、
「あぁ、もう、時間がないわ。その話、帰ってからじっくりと聞かせてもらうから。絶対よ!」
じたばたしながらそう言うと出勤した。
その日は正直なところ、仕事にならなかった。睡眠不足と雅博が心配なのとで注意力は散漫になり、データの入力ミスを連発した。
昼休みにも一緒に昼食を摂っていた同僚に、「顔色がくすんでるよ」とチェックを入れられ、帰りの駅の階段を二段ばかり踏み外した。
あたふたと帰宅すると、雅博が夕食を作って牧子の帰りを待っていた。雅博の顔を見て、開口一番に、
「朝の話は?」
と咳き込むように聞く。
「まぁ、そうあせらずとも。ゆっくり行きましょう」
雅博は柔らかい笑顔で牧子を手招きする。さんざん心配させておいて、ゆっくりもクソもない。牧子はむっとした表情で食卓についた。
「他人事みたいに、なによ。どれだけ人が心配したと思ってんのよ」
雅博はビールをグラスに注いだ。
「わかってるよ。牧ちゃんが心配してくれてるの、充分にわかってます。感謝してるよ。ああせい、こうせいと横から口を出したいのを我慢して、ここしばらく僕の事見てくれてたもんね」
そして、少し改まった口調で切り出した。
「劇団は解散するけど、芝居はやめない。知り合いの紹介でプロダクションに所属する事になった」
雅博の口にしたプロダクションは有名なタレントも何人か抱えている会社だった。そういう話題に疎い牧子にはピンとこなかったが。
「そう。それが良いのか悪いのか、私にはさっぱりわからないけど、舞台の仕事ばかりじゃなくなるのよね?」
「多分ね。選り好みをしてる場合じゃないし……」
「そう、なんだろうね、きっと」
自分の世界に置き換えたら、勤めていた会社が倒産して、せっぱ詰まって派遣会社に移籍して、持ち込まれる話を断れないような状況とでも理解すればいいのだろうか。
「……それでさ、牧ちゃん」
「なに?」
「牧ちゃんとしては、このままの状況でもいいのかな」
「なにが?」
「だからさ……」
雅博は言い澱み、ばつが悪そうにビールを飲んだ。
「だからさ、このまま今まで通りに、僕がここにいてもいいのかって事。これから先、僕がどうなるのか、僕自身にもさっぱりわからないから、正直なところ。……先々、もし、結婚とか、子供とか、色々考えているのなら。僕と付き合っていて、機会を逃すんじゃないかとか、考えているのなら」
「やめようよ、そんな話」
牧子は思わず遮った。そして雅博を見つめた。
「あなたに養ってもらおうなんて考えてもいないから。結婚してほしいとも思ってない。私は雅博が芝居をしているのを見ているのが好きなの。舞台に立っている雅博を見るのが好きなの。一緒にいるのはそれが傍で観られるから。……それに、実際のところ結婚するメリットってあまりないと思うのよね。ほら、私、こんな性格だし。今のままの生活で、何か不自由があるとも思えないんだけど。少なくとも私にはないわ」
雅博は複雑な表情を浮かべた。
「それって、僕に甲斐性が無いって事だよね。まぁ……、実際に無いから反論も出来ないけど」
「そういう意味じゃないわ。なんて言ったらいいのかしら……。そうね、あなたの才能に投資しているとでも思ってよ。ね、ほら、とりあえず次が決まったんだから、良かったじゃない」
「……なんだかなぁ」
牧子の畳み掛けるような口調に雅博は困惑したようだった。弱ったような表情のままビールを一口飲んだ。
その晩、久しぶりに安心した表情で眠る雅博とは反対に、牧子はなかなか寝付けなかった。夕べは寝ていないのに、少しも眠気を感じない。
雅博の才能に投資する。あんな傲慢な言葉が自分の口から出たことが信じられなかった。本当に自分はそんな事を思っていたのだろうか。
結婚について考えた事がないなんて、それは嘘だ。実家の母は牧子が雅博と同棲している事を知っていた。若い頃は自分も恋人(後に夫になった)と『神田川』のような生活をしていた母は、一緒に暮らす事についてとやかく言うことはないが、時々電話で話す時、「あんたももういい歳なんだから」という常套句がつく。暗に「早く身を固めろ」というプレッシャーを感じていた。気がつけば、もうすぐ三十歳だった。昔の友人の半分は結婚していて、子供がいるのも少なくはなかった。
なんで今さらこの人相手にそんな嘘をいうのか……。あんな話を自分から切り出したのだ。よくよく考えた末の思い切った決断だったに違いない。それを大人が子供をあしらうような態度を取ってしまって、雅博は傷ついたかもしれない。
私は莫迦だ……。
牧子は眠る雅博の額にかかる髪をそっと払うと、唇を寄せた。
「ごめんね。」
本当は違う。本当は別れたくない。離れたくない。だからあんな強がりを口走った。私があなたの足枷にならないために。足枷を嫌って、あなたが逃げていかないように。強い大人の女のふりをしただけ。多分、そうなのよ。
雅博の髪を指に巻きつけながら、牧子は少し泣いた。
<続く>