十
翌朝少し早いめに牧子は家を出た。病院にたどり着くと、母がちょうど手術室に向かうところだった。
点滴をされながらストレッチャーに載せられた母を見ると、急に不安が増してきた。なんとか顔に出すまいと慌てて明るい表情を作って、母に手を振る。母は顔をしかめながら頷いた。
母が連れて行かれた後、年配の看護師に軽く肩をたたかれる。
「大丈夫よ、心配ないから」
よほどわざとらしい笑顔だったのだろう。雅博のような役者にはとてもなれそうになかった。
母がいない間に、牧子は持ってきた着替えをベッドの隣にある小灯台に移していった。それが終わると、売店に向かい、洗面道具などこまごました物を買い揃える。
暇つぶしの雑誌でも買おうかと平積みされた雑誌類を眺めると、例の写真週刊誌が目に付いた。思わず牧子は眉をひそめた。週末の顛末が思い出される。一連の事は思い出したくもなかった。
結局、雑誌を買う意欲を無くし、必要な物だけを買うと病室に上がった。
買ったものをまた、小灯台に収めていくとあっという間に小灯台は満タンとなった。やる事がなくなったので、仕方なくパイプ椅子に腰を下ろし大きな溜息を一つつくと、窓の外に目をやった。
母のベッドは四人部屋の窓際だった。昨日はそんなところに気が回らなかったが、この病棟は四階なので外の景色がよく見えた。
病院の周りは意外に緑がたくさんあった。緑の木々もあれば、もう既に赤や黄色に色づく木々も混じっている。
病院の敷地の隣には大きな池が見えた。池には水鳥が軌跡を残しながら水面を滑っていた。
窓は事故防止のためか大きく開かないようになっていたが、空気を入れ替えられる程度は押し開ける事が出来る。
そっと窓を開けると少し冷たい空気がすうっと吹き込んできた。見晴らしはいいが窓際だけに朝夕は少し寒いかもしれない。でも、悪くない景色だ。母も自分も少しは気がまぎれるだろう。そんな事を思いながらそっと窓を閉めた。
昼を過ぎて母が病室に戻ってきた。麻酔の効いている間は平気そうな顔をしていたが、だんだん顔をしかめながら痛みを訴えるようになってきた。夕食が運ばれてくる頃にはピークだったようで、ほとんど夕食には手をつけなかった。
「ちょっとでも食べておいたら? 痛み止めも飲めないよ。明日からリハビリも始まるとか言ってたし。最近はあんまり絶対安静とか言わないんだね。随分早くから動かすらしいよ」
「……いらない。痛くて痛くて。食欲なんてあるはずないでしょ。牧子、代わりに食べて」
「それはないでしょ」
めちゃくちゃな事をいうものだ。母はそういいながらも少しだけ食事に箸をつけた。
母の様子が気にかかったが、消灯時間に病院を出た。こんな生活が当分続くのかと思うと少し気が重くなった。
母の回復は順調と言えた。翌日の午前中はまだ痛みを訴えていたが食事もちゃんと食べたようだった。午後には病室に理学療法士が訪れ、簡単なリハビリに取り組んでいた。鎖骨には金具が入っているので緩やかになら動かしても支障はないらしい。入院自体は一週間ほどになりそうだった。
水曜日になると牧子も少し精神的に余裕が出てきて、これまでよりも遅い時間に家を出た。母の顔を見たのは昼食前だった。
母はベッドの上での食事は嫌だという。重病人みたいで気がめいるらしい。仕方がないので、詰め所前のホールに食事のトレイを持って移動した。
母の食欲は旺盛で、二日前の様子が嘘のようだった。
「ちゃんと食べないと骨がひっつかないじゃない。牛乳とか小魚とか、買ってきてよ」
「食べ過ぎると太るよ」
「何言ってんのよ。体重は増えない。コレステロールが上がる」
「だめじゃん、それ」
二人の会話が聞こえたのか、詰め所でカルテを書いていた若いナースが吹き出した。
母の食事が終わってから、牧子は最上階の食堂に一人向かった。エレベーターを降りると大きな窓が目の前に広がっていた。
母の病室から見るよりも更に開けた眺望だ。秋の空の蒼さが目にしみる。下を見ると病室から見えていた池の形がよくわかった。
目の前を不意に大きな鳥が横切った。鳥は池に向かっていき、水の上に降りていった。どこかから渡ってきた鴨だろうか。もうそんな季節なのか……と改めて感じる。緑の少ない都会に長くいると、季節の移り変わりにもだんだん無頓着になっているようだった。
牧子は硝子に額をつけ、池の上に目をこらした。たくさんの水鳥が見えた。皆どこからかやってきて、春が来るとまた何処かへ飛び立っていく。今ここに来ている鳥達はやはり来年の冬にここに帰ってくるのだろうか。
夏のツバメ達もそうだ。いつの間にか街から姿を消していた。今頃どこか暖かい国で飛び交っているのだろう。また次の夏には日本に帰ってくるけれど、同じ鳥が帰ってきているのだろうか。そんな事がふと気になる。専門家ならわかるのだろうが、牧子にそんな術はない。今年のツバメにまた来年も会えるのだろうか。ちゃんと帰ってくれるのだろうか。
牧子はすっかり鳥達に心奪われていた。
どのくらいそうしていたのか。
「何かおもしろいものでもありますか?」
不意に声を掛けられ、びっくりした。いつの間にか隣に人が立っていたのに少しも気がつかなかった。その人物を見上げて更に驚く。
「雅博!」
大阪にいるはずの雅博が牧子の隣に立っていた。いつものように優しい屈託の無い笑顔を浮かべて。
「なんで?仕事はどうしたの!」
「今日、休演日なんだ。今朝の始発の新幹線でこっちに帰ってきた。すぐに帰らなきゃいけないけど、どうしても気になって」
なにか言葉を返したかった。色々な言葉が一度にこみ上げ、結局何も出てこない。胸が痛かった。
牧子はそっと手を伸ばし、雅博のセーターの袖を握り締めた。そして額を胸に押し付ける。雅博の手が優しく肩にかかった。
「すぐに来れなくて悪かったね」
牧子は無言で首を横に振った。恋しくて欲しくてたまらなかった手の温もりに、ここしばらくの胸のつかえがゆっくりと溶けていくようだった。これほど幸せな気持ちになったことはなかった。このまま全てが止まってしまえばいい。心からそう願った。
<続く>