はじまり
受験生の日常というのは勉強に重ね勉強で、驚くほど変化がない。
いや、そもそも俺の人生自体が変わり映えのない毎日の繰り返しだった。
だから、何か‘おもしろいこと’を望んでいなかった、というと嘘になるだろう。
でも、その気持ちがこの状況を招いたのだとしたら、後悔せざるを得ない。
俺の名前は高橋悠。
家族は父と母と兄と妹と犬。
そんなごく普通の家庭に生まれて、ごく普通の生活をしていた。
今は亡き我が祖父は孫の名前を付けるのが夢だったようで、母が兄を妊娠した後、毎日のように電話をかけてきては「名前を付けさせろ」と要求してきたそうだ。
しかし、その息子、つまり俺の父親も同じ血を受け継いでいる分、名前付けに拘り、兄の出産前はそれはそれは激しい親子間の名付け権争奪戦争が繰り広げられたらしい。
結果、父が無理やりに兄の名前を付けたが、祖父のしょげっぷりが半端なく、2人目の俺の名前は祖父がつけてくれた。
孫3人に対して平等に厳しかった生前の祖父からは想像もできない話だ。
この名前に加えて、小柄で中性的な顔立ちだった俺はしょっちゅう女の子に間違われていたが、中学に入ってからは急激に背が伸び、今やそんなことも思い出の一つになった。
ここに来る前の俺は、本当にありがちな生活をしていたと思う。
そして、だからこそ幸せに生きていた。
勉強もスポーツもそれなりにできたし、友達もそれなりに居たし、家族との関係も良好。
間近に迫る大学受験は、そんな俺にとっては初の大きな壁だった。
何か目標があって大学に行きたいわけではなく、小中高と進学して次に大学に行くことは当たり前で。
親がそう望んでいたのは確かだし、だからといってそれに応えたかったのでもなく。
ただ周りと同じように、流されて流されて生きていたのだ。
きっとこのままなんとなく生きて、なんとなく死ぬんだろうな。
そんな風にも思っていただろうか。
あの日もごく普通の受験生として、学校帰りに塾の自習室へ行って。
そこから先は、覚えていない。
ああ、なんて気持ちいいんだ。
閉じた瞼に暖かい陽光が降り注ぐのを感じる。
さわさわと木々がささやき、頬をそよ風が撫でる。
ずっとこのまま寝転がっていたい。
そう思いつつ、空を見上げて、
気付いた。
「・・・・・・・・・ここ」
どこだ?
思わず呟く。
呟こうとしたんだが、俺の口から飛び出した音は全く日本語のソレとは違った。
意味は確かに「ここ」を表すと俺自身が認識しているが、日本語ではない。
生まれてこのかた日本で育ち、受験英語にさえ苦しんでいる真っ最中な俺が、何か他の国の言葉を喋れるはずがない。
いや、ちょっと待て。
「くぉーく!こっクォ・・・・こ!きゅぉーきょ・・・・・・・・こょぉぉこ・・こ!」
日本語が、話せないのだ。
「でぉうーくぉおおだ でうっこおー」
・・・・・・・・・・。
なるほど、夢か。
俺はなんとまあ、自習室で寝てしまったようだ。
よく夢の中で夢だと気づくって話を聞くけど、こんな感じなんだな。
そもそも普段からそんなに夢を見ることもないし、ここまで壮大な夢は初めてだ。
実はいつもは覚えていないだけでこんな夢を見ていたんだろうか。
ちょっとあちこち探検してみたい気持ちもわくが、しかし俺は受験生。
こんなことをしている場合ではない。
さっさと目覚めて数学の問題に挑まねば。
えーっと、それで、どうやったら目覚めるんだ?
「起きろ!俺!」
開けゴマのノリで言ってみる。もちろん言葉は謎の言語。
そしてもちろん変化なし。
目をギュっと閉じて開く。
周囲の景色は・・・・・・変化なし。
ありがちな感じでほっぺたをつまんでみる。
変化なし。
と、ここで気付く。
痛みが全くないのだ。
正確には、ほっぺたにじわっと不快な痺れを感じるが、もし目覚めた後に同じことをやった場合はもっともっと痛いはずだ。
これが示すのはただ一つ、ここが確かに夢の中だということだ。
そしてわかった。 俺は今、ものすごく安心している。
どうやら心の底で、このリアルな世界が本当に夢なのか心配していたらしい。
良かった夢だ。これは夢だ。
つまり後は目覚めたらいいわけだ。
とりあえず立ち上がろうとして、右腰に何かがぶら下がっていることに気付く。
恐る恐る見ると、それは刃こぼれした、いかにもボロそうな短剣だった。
俺はどんな夢を見てるんだよ・・・と思いつつ、その短剣を眺めていると、突然ぶわっと短剣の上方に「ボロボロの短剣」という文字が浮かんだ。
いや、見たらわかるよ。
っと突っ込む前に、その文字が全くもって俺の知っている文字ではないこと、そして俺が難なくそれを読めることに驚く。
どうやら話し言葉だけでなく、文字もこの世界オリジナルらしい。
そもそもこんな風に物の上に名前が浮かぶなんて、これじゃあまるで・・・
RPGみたいじゃないか。
いつのまにか着ていた、いかにも初期装備っぽいボロボロの皮の服も。
見渡す限り木、木、木、の全く見覚えのないこの森も。
自分の想像力の豊かさに、我ながら感心してしまう。
それほどまでにリアルなのだ。
森の生命力が溶け出しているかのような、生き生きとした空気。
葉がこすれあう音や、遠くから聞こえる鳥の鳴き声は、本当に森の中にいるように錯覚させられる。
身体を動かした感覚も、このボロい短剣と服の重みも。
ここが異世界だったとしても、何も不思議ではない。
自発的に目を覚ますのが無理なら、自然と目覚めるか誰かに起こされるまで探検してみようか。
どうせ夢の中なんだし。
俺は自分に言い聞かせるように、そう付け加えた。
これが全ての始まりだった。