九
浮遊感がして、一瞬方向感覚を失った。右も左も、上も下も分からなくなる。でも私の体に回されたリーアンの腕を確かに感じ、パニックを起こさずに済んだ。
そして重力が戻った。少し足がもつれたが、リーアンがしっかりと支えてくれた。
「もう目を開けていい」
リーアンの声は冷静だった。
恐る恐る目を開くと、まず目に入ったのは森だった。木々が視界いっぱいに広がっている。空気はひんやりとして湿り気を帯び、先程までいた砂漠とは正反対だった。
空を見上げれば、どんよりと厚い雲に覆われて太陽は見えなかったが、夜でないことは分かった。
私達は森を見下ろす崖の上にいた。辰希とディータも転位する前と同じ配置で立っていた。リーアンはようやく、顔にぐるぐる巻きにしていたスカーフとサングラスを外した。
「ここはどこかな?」
辰希が何か手がかりになるものを探して、高性能双眼鏡で森を見回した。眼下にはどこまでも続く森以外何も見えない。私達のいる崖の上にも、崖下と同じように森が広がっている。
私達は崖上の少し開けた場所にいた。
「術で引っ張られたな」
リーアンは木々を見ながらぽつりと呟いた。
「え?」
双眼鏡で森を観察していた辰希が声を上げた。
「砂漠で俺が術を使った瞬間、誰かがここに引っ張ったんだ」
リーアンの話し方が淡々とし過ぎているような気がして、私は少し心配になった。
「引っ張るって、移動に関する術は風術師しか使えないんじゃないのか?」
ディータが質問した。
「力の強い術者なら、強く念じれば引っ張れる。ただし俺達の行動をリアルタイムで把握していないと無理だ」
私は頭に浮かんだことを口にした。
「あのとき追って来た邪教の者達?」
リーアンは薄く笑って否定した。
「あそこにいたのは雑魚ばかりで、そんな高等なことは出来ない。それに奴らはまだ離れていたから無理だな」
辰希が言った。
「でもあそこには誰も‥‥」
リーアンは大きく両手を広げた。
「感じか?ここの空気は清浄だ」
リーアンが冷静なわけが分かった気がした。恐らく極限まで精神を集中させているのだ。
「この清浄さ、聖地としか考えられない」
リーアンが更に続ける。
「恐らくかなり高位の聖職者が、俺達をずっと術によって監視し、転位と同時に引っ張ったんだと思う」
ディータは難しい顔をした。
「確かにここの空気は清らかだ。だがイトラ教の聖地にこんな場所はない筈だぞ?」
リーアンはまた薄く笑った。
「ディータが知らないだけじゃないのか?」
ディータは目を見開いた。
「誰か来る」
辰希が言って間もなく、崖上の木立の向こうから物音が聞こえて来た。
密生している木々の間に、道のようなものは何もない。小枝を踏む音、進路を阻む枝をかき分ける音はどんどん近付いて来た。
森から現れたのは、一人の美しい女性だった。日に焼けた小麦色の肌に、澄んだ青い瞳の持ち主だ。真っ直ぐな金色の髪は背中に垂らし、質素な白い長衣とサンダルを身に着けていた。ディータよりも長身で、年は三十歳前後に見える。
女性は何故か憤怒の形相を浮かべていた。私は困惑して他の三人をちらりと見た。
リーアンと辰希は冷静そのもので、静かに女性を見つめている。しかしディータは違った。顔が引きつったまま硬直している。
「火野珠希様とお連れの方を、安全に保護しろと言っただろ!」
突然女性が発した大声に、私は思わず飛び上がった。
それに気付いたのか、女性は瞬時に怒気を収め優しげな微笑を浮かべた。
「これは失礼致しました。私はノイア大神殿に仕える、神官のシャルナと申します。皆様をお迎えに参りました」
リーアンが言った。
「ノイア大神殿というのは聞いたことがありませんが、ここはノイアの森ですか?」
ノイアの森はウェイス大陸ほぼ中央、やや北寄りに位置する広大な森で、古くから神聖な場所として知られる。
イトラ教はこの森を保護するため、たとえ高位の神官であろうと許可なき者の立ち入りを固く禁じている。
「その通りです」
シャルナは謎めいた微笑を浮かべた。
ノイアの森に神殿があるなどという話は聞いたことがない。
「姉上、ここには隠された神殿があるのですか?」
ディータはシャルナが現れてから、初めて口を開いた。
「姉上?」
私は思わず声を上げた。
「申し遅れました。ディータは私の末の弟なのです」
見事にディータを無視したシャルナは、私に向かって言った。私は密かにディータとシャルナを見比べた。ディータは色白で茶色の髪と瞳を持つ。顔の造作や体格を含めても、あまり似ているとは言えない。
「ああ、似ていないと思っているのですね?私は父親似で、この子は母親似なんです」
シャルナは気を悪くした風もなく言った。ディータは子供扱いされたのが気に入らないのか、不機嫌そうだ。
「皆さんお疲れでしょうから、神殿にご案内します。ついて来て下さい」
シャルナは私達の返事を待たずに歩き出した。
辰希、リーアン、私、ディータの順でシャルナの後に続いた。
シャルナはやって来たのと同じ場所から、木々の間に入った。長身のシャルナが通った後なので、道はないものの意外と歩きやすかった。緑の香りが気持ちいい。
ほんの十メートルほど進んだところで、シャルナは立ち止まった。足元には鉄製の蓋があった。街の中にあれば、マンホールにしか見えないような、何の変哲もない四角い蓋だ。
シャルナは苦もなく蓋を引き上げると、梯子を使って垂直の縦穴を下りて行った。ディータ以外の私達三人は、顔を見合わせた。
「辰希、先に行ってくれ。この穴は十メートルはありそうだから、俺は珠希を連れて下りる」
辰希はリーアンの言葉に頷いて梯子に足をかけた。
「下に着いたら叫ぶよ」
辰希は難なく梯子を下りて行った。
「またあの術を使うの?」
私はリーアンの顔を見た。
リーアンは瞬時に場所を移動する転位術の他に、体を浮き上がらせて縦移動する浮遊術が使える。この術があったからこそ、私達は三十メートルの高さがある鉄道の高架橋から、全員無事に砂漠に下りられたのだ。この穴は狭いので、一度に全員を移動させるのは難しいのだろう。
「怖いのか?」
リーアンはからかうように私に言った。
「そんなことないわ」
私は強がって見せた。宙に浮かぶ感覚はあまり心地いいものではない。
「こんなに高さがあると、珠希には危険だからな」
リーアンが微笑んだ。もう先程までのように気を張っている様子はなかった。
「下に着いたよ!こっちは明るいから、安心して下りて来て!」
辰希の叫ぶ声が聞こえた。
「分かった!場所を空けてくれ!」
リーアンは穴の底に向かって叫ぶと、私を引き寄せた。
「狭いから出来るだけくっついてくれ」
私はリーアンの体に腕を回してしがみついた。着膨れしたままのリーアンは、少し掴みにくかった。
リーアンは前触れなく飛んだ。そして私が驚いている間に、すぐに底に足が着いた。
縦穴の底は少し広くなっていて、不思議な光でぼんやりと明るかった。まるで壁自体が光っているようだ。穴自体はただ土を掘っただけのように見える。
「これはイトラの光です」
シャルナが言った。イトラとは光を意味する古代語だという。
「ここから先は神殿の領域になりますので、暗闇は存在しません」
イトラ教とは光によって人々を守り、癒し、導く教え。どんなに小さな神殿でも光で満たされている。不思議な光は天井からだけでなく、四方の壁や床からも神殿内を照らす。私は納得した。
縦穴の底からは、横穴が三方に延びていた。どの横穴も光に満ちていた。
ディータが梯子から下りて、辺りを見回した。
「姉上、ここは迷路なのですか?」
ディータは訊いたが、それには答えずシャルナが歩き出した。
「はぐれないようについて来て下さい」
私は心の中で密かに笑った。自分にとって重要だと思わない質問を聞き流す辺り、シャルナがディータの姉だと実感出来た。
横穴は何度もカーブし、いくつにも分岐していた。シャルナは明確な目的を持って歩いているようだったが、目的地までの最短距離を進んでいるかどうかは疑問だった。既に元の縦穴に戻る経路は私には分からなくなっている。
方向感覚が完全におかしくなった頃、急にトンネルの様子が変わった。見た目はこれまでと同じだったが、清浄な空気に優しさが加わったような感じだ。大きな愛に包まれているような、幸福な感じがするのだ。
ディータが足を止めた。
「姉上、ここは私達が立ち入っていい場所なのですか?」
ディータの張り詰めた顔を見て、思わず私の足が止まる。辰希とリーアンも立ち止まった。
全員が立ち止まってしまったので、シャルナも足を止めて振り返った。
「この森に入ったときから、あなた達はもう後戻り出来ないんです」
シャルナはディータ以外に言った。
「それからディータ、お前はもう二度とこの森の外には出られない」
ディータは息を詰めた。大きく顔を歪ませたが、一つ息をつくといつもの表情に戻っていた。
「分かりました。他に道がないのなら、姉上について行きます」
シャルナは軽く頷いてから、また歩き出した。
選択肢がないようなので、私達も歩き出した。
「リーアン、さっきの縦穴まで戻れる?」
私は小声で訊いた。リーアンは溜め息をついてから言った。
「戻れることは戻れるけど、どっちみちこの森からは出られない」
私は更に訊いた。
「リーアンでも無理なの?」
リーアンは穴の天井を見上げた。
「珠希にも分かるだろ?ここにはさっきの砂漠とは種類の違う術がかかってる。ここは許しなく来る者を拒み、出る者も拒む。つまり森には戻れても、この神殿の神官には俺達がどこにいるのか筒抜けだ」
リーアンはどこにいても、自分の現在位置をある程度把握できる能力を持っている。これは転位術が使える風術師に限られた能力だが、精度はその時の状況によって大きく変わるらしい。
私にもここに何か不思議な術がかかっているのは分かっていた。でも詳しくは分からなかったのだ。
「転位術は?」
私は諦め切れずに言った。
「イトラ教の施設は全て、特例を除いて転位厳禁だ。それにここは秘密の神殿らしいから事情が他とは違って来る。もう開き直るしかないな」
肩を竦めるリーアンを見て、私は肩を落とした。
「何か不穏なものでも感じるの?」
辰希が心配そうに小声で訊いた。
「ここは何だか、空気が優しすぎて落ち着かないのよ」
私の言葉に辰希は首を傾げた。
「ここは僕達の理屈が通る場所ではないから、リーアンの言うように流れに身を任せるしかないよ。危険な感じは全くないしね」
シャルナは真っ直ぐ前方を見据えて歩いていたが、私達の会話は聞こえているような気がした。
やがて穴は緩やかな上りになった。そして穴を上り切るといきなり外に出た。
出た場所が深い森なのと天候が悪いせいで薄暗く、直前まで穴の出口に気付かなかった。さすがに屋外まではイトラの光で照らせないようだ。
空気はしっとりと湿り霧のように体にまとわりついたが、霧のように視界は遮られていなかった。森の息吹きを吸った細かい水滴は濃厚な緑の香りがして、濡れても全く不快ではなかった。
シャルナは石畳の細い道を歩き始めた。私達が砂漠から転位した場所には道らしきものはなかったので、何だか少し安心した。
森が深くて道の先は見通せない。頭上を覆う木々の枝は、幾重にもなって空を覆い天井のようだった。
唐突に石畳の道が終わりを告げた。私達は森の端から広い草原に歩み出た。
広場は隅から隅まで見通せた。まるで森を切り取ったかのように、きれいな真四角の形をしている。
シャルナが一歩進み出て、右手を上げた。手には銀色に光る短剣が握られている。
シャルナは躊躇うことなく短剣を鞘ごと空中に投げた。弧を描いて飛んで行った短剣は、何故か空中で止まった。
すると短剣が鞘から抜けた。短剣の刃は強烈な光を放ち、私達の目を眩ませた。
視力が戻ると、目の前には白い神殿が出現していた。それほど大きくはなかったが、窓のない壁一面に彫刻が施され優美な姿をしていた。正面の扉には、太陽と月を抽象化したイトラ教の象徴が描かれていた。
短剣は私達に背を向けて立つ小柄な人物が、鞘に収めて持っていた。
その人物はゆっくりと振り返った。
シャルナ以外の全員が息を呑んだ。
緩く波打つ銀色の髪、少女かと見紛うばかりの美しい顔立ち‥‥。
神官の質素な長衣とサンダルを身に着けたその人物は、リーアンに瓜二つだった、瞳の色を除いて。
「シャルナ、相変わらず馬鹿力だね」
彼はリーアンとそっくりの声で話した。




