二
リーアンの部屋は私の部屋よりほんの少し広かった。それに何だか部屋の装飾が可愛らしい。
私はベッドに置かれたハート型クッションを手に取った。
「‥‥‥‥。」
リーアンは備え付けの冷蔵庫を開けて何やら作業しながら言った。
「聞いたか?」
私はクッションの意味を考えていたので反応が遅れた。
リーアンは作業を中断し、私の前まで来ると私の胸元に手を伸ばした。
「ちょっ‥‥」
彼は私の胸の緑風石のペンダントを手に取った。石はぼんやり光っていた。
「ぼうっとしてるんじゃない。それともそんなにさっきのキスが良かった?」
リーアンは小悪魔的微笑を炸裂させた。でも左頬が腫れていたので威力は半減した。
私は慌ててリーアンの手からペンダントを取り戻すと、石をぎゅっと握り目を閉じた。
私の意識は一瞬にして虚空を飛んだ。
そこは執務室だった。床には臙脂色の絨毯が敷かれ、本棚や机などの家具類も深みのある色の高級品で全体的に落ち着いた印象だ。
ただし本は本棚に収まり切らず、雑然と床のあちこちに積み上げられている。本で出来た塔はいくつもあり、一つでも崩れれば大惨事になりそうだ。
私は意識体なのを忘れて体を縮こめた。本は好きだが下敷きになって死にたくはない。
部屋の主は机に向かって猛然と仕事をしていた。素早く書類に目を通しては何やら書き付けている。
私は心の中で十秒数えてからわざとらしく咳払いをした。
「用件を手短にお願いします」
緑風石は魔導師同士の連絡に使われる石で、呼ばれた人間は呼んだ人間の側に意識だけを飛ばすことが出来る。
「え?ああ、珠希、来るのが遅いから寝てるのかと思ったよ」
この部屋の主のロータス師は眼鏡を外すと優しく微笑んだ。
「珠希はいつも可愛いねぇ」
私は溜め息をつくと言葉を押し出した。
「意識体に可愛いも何もありません。それよりご用件は?」
ロータス師は苦笑しながら言った。
「ちょっとくらいお喋りをしても罰は当たらないと思うんだけど、その仕事熱心なところが珠希のいいところだね」
私はまた溜め息をつきたいのを我慢した。
「はいはい、それで?」
ロータス師は三十代後半の女性魔導師で、小麦色の肌、澄んだ薄茶色の瞳、純白の髪を持つ印象的な人だ。魔導師としてのレベルとキャリアは超一流だが、男性魔導師に厳し過ぎ、女性魔導師に優し過ぎるために何かと誤解される事が多い。
「分かった、話すよ」
ロータス師は一瞬で表情を引き締めた。
「例の卵だけどね、龍都から持ち込まれるらしいって情報が入ったんだよ」
私は驚きのあまり絶句した。
「そんなのあり得ないって思うのは分かるけど、これはかなり信頼できる情報なんだよ。情報源は明かせないけどね」 私達は魔導界の公的機関であり、全世界の魔導師が所属する魔法の塔(通常はただ塔と呼ばれる)のために働いている。塔の内部は大きく二つの部門に分けられる。
一つは魔導師向けサービスや雑務を行う役所的部門、もう一つは魔導師が絡む犯罪や人に害を与える魔生物退治を担当する警察的部門だ。
ロータス師はその警察的部門の中でも難事件を担当する部署の責任者だ。彼女の部下の中でも色々な組織に潜入して情報収集を行う【影】と呼ばれる存在は、安全上の理由から一切の情報は非公開で、ロータス師と塔の上層部数名しか身元を知らない。
「でも、龍国は強大な龍の力に守られて邪なものはすぐに察知、排除されるはずですよね?」
龍に守られる国、龍国。首都龍都には皇帝一家が暮らす紅龍殿がある。その地下深くには紅龍が住み、龍都周辺を守っているとされる。
「それなんだけどね、こっちも困った問題なんだけど龍の力が弱まって来てるらしいんだよ」
ロータス師は眉間に皺を寄せて難しい顔をした。
「何とはた迷惑な!」
私は思わず声を荒らげた。龍の力が弱まるというのは何らかの理由で皇帝一族である龍族内部に不和が生じ、結束が乱れているという事だ。
「珠希‥‥相変わらず手厳しいね。まあ、迷惑でも何でもそういう訳で今回は龍族の助けは全く期待出来ない」
私とリーアンの今回の任務は、この列車の中で行われるというある邪悪な魔生物の卵の取引を未然に防ぎ、何を置いても卵を確保することだ。取引をする人間も逮捕出来ればいいのだが、今回は無理はしないようにとの指示が出ている。
「それでは、ロータス師が演出した小芝居はもう止めていいんですね?」
私は精一杯言葉に皮肉を込めて言った。
「もちろんだよ。それより全力で一刻も早く卵を押さえて欲しい」
ロータス師は涼しい顔で言った。私は海都駅に着いてからの小芝居を思い出し、一気に精神的疲労を感じた。
「分かりました。それでは戻ります」
私が意識を緑風石に戻す直前、ロータス師は慌てて言った。
「待って、珠希。龍族は動かないけど、一般の国際警察が動いてるらしいよ。何でも稀少な保護生物の卵の取引だと勘違いしてるらしくてね」
私は今度は頭痛に見舞われた。
「分かりました。役に立つようなら協力してもらい、邪魔なら排除します」
ロータス師は少し顔を強ばらせた。
「くれぐれもお手柔らかにね。相手は普通の人なんだから」
私は微かに笑うと、自分の肉体へと戻った。
軽い眩暈を感じた後、私は目を開いた。目に入って来たのは客室の天井で、私はベッドに横たえられていた。
「遅かったな」
リーアンの声が頭上から降ってきた。彼はベッドの横に座っていた。
「ロータス師の無駄話が多かったから‥‥。」 私はゆっくりと体を起こした。リーアンは立ち上がって私を助け起こしてくれた。
「辰希にロータス師の言葉をかいつまんで話しておいた。イーレへの対処も頼んでおいたから、その間に着替えておくといい。その格好じゃ動きにくいだろ?」
辰希は確かに私の双子の弟だが、魔力は全く持っていない。その代わり幼い頃から各種戦闘術を叩き込まれ、今では一族一の腕前になっている。今回は予備の戦力として私達に付き合ってもらっていた。
私が着ていたスーツのジャケットは、ベッド脇のテーブルに置かれていた。私はそれを手に取ると、腫れたリーアンの左頬を見た。
「筋書き通りだったけど、あんなに強く叩いてごめんね」
リーアンは苦笑した。
「まあ、あのキスで五分五分かな」
私はリーアンに鋭い視線を投げると無言のまま部屋を出た。
自分の部屋に戻ると、まずシャワーを浴びた。睡眠不足に打ち勝つためにも、頭をスッキリさせておく必要があった。
熱い湯を全身に浴びると意識が冴え渡り、心の中の靄も一時的に晴れた。
この靄はリーアンとの結婚式の日から始まった。
魔導師の一族の間では、子供が産まれたら数年以内に結婚相手を決めることも珍しくない。結婚相手は家柄や利害関係で決まるのではなく、それぞれが持つ魔力の相性で決まる。相性のいい相手との結婚はお互いの力を何倍にもし、魔導師としての更なる発展が望める。
しかしここに大きな問題がある。本人達の気持ちが全く考慮されていないからだ。
許婚同士が近くに住んでいる場合は、子供の頃から何度も会わせ、お互いに親しくしていくらしいが、私とリーアンのように遠く離れて暮らしているとその機会を作るのが難しい。
そして結局、挙式当日に初めて顔を合わせるという前時代的な状況になってしまった。式から一ヶ月経った今も、リーアンを夫として認識するのは難しい。式の直後大和にとんぼ返りしたので会ったのは式以来だし、口づけたのもさっきで二度目だ。とても夫婦と呼べる関係ではない。
ただ魔導師としての相性がぴったりなのは、初めて会った瞬間直感的に分かった。
魔導師の夫婦は仕事を共にするのが通例で、私もロータス師の部下として働くことになった。ロータス師は以前大和にある塔の支部で働いていて、母の同僚だったのでよくうちにも遊びに来ていた。だからロータス師の下で働くのには抵抗がなかった。
私は身支度を整えると、再びリーアンの部屋に向かった。本当はもっと動きやすい服装をしたかったが、西洋では女性らしい服装をするのが淑女の礼儀とされていると聞いたので、ゆったりしたワンピースと柔らかい革のサンダルを履いた。
私を迎え入れたリーアンは、にっこり笑うと私の手の上に包みを乗せた。氷を袋に入れて布で包んだもので赤く腫れていた手の平に心地良かった。
「ありがとう」
私はなぜかどぎまぎしてリーアンから目を逸らして言った。ちらりと横目で盗み見ると、リーアンの頬の腫れがだいぶ引いているのが分かった。
彼が窓際のソファを指し示したので私は素直に腰掛けた。
「気付かないのか?」
溜め息とともにリーアンは言った。私は首を傾げた。
「え?」
リーアンは私の顎の下に片手を添えると、彼の顔が真っ直ぐ見えるように上向かせた。
直後、リーアンの緑風石のような瞳と出会い、胸の奥が甘く疼いた。その疼きの意味を考えるより早く私はリーアンの変化に気付いた。
「ああ、元に戻ったのね」
目の前にいたのは先程までのほっそりとした愛くるしい少年ではなく、均整の取れた体つきでキリリと目元の涼やかな美しい青年だった。
私は自然に頬が熱くなるのを感じた。おそらく真っ赤になっているだろう。私は居たたまれない気持ちになったが、リーアンは私の顎から手を離してくれなかった。
「もう芝居をしなくていいってロータス師が言ったから、中和剤を飲んで戻したんだ」
ロータス師の提案した小芝居では私達三人は皆名家の子供達で、しょっちゅう列車内で問題を起こす事でわざと目立ち、犯人から怪しまれないようにするのが目的だった。そして目立ち過ぎるリーアンの容姿を誤魔化すため、魔法薬で子供に変身していたのだ。
「そう言えば、同じ話をするならロータス師も私達を一緒に呼べばいいのにね」
リーアンは激しく顔を引きつらせた。
「俺にだけ特別な任務が追加されたんだ‥‥」
リーアンのこめかみがピクピクと動くのが分かった。よほど大変な極秘任務なのだろう。
私は話題を変えようと口を開いた。
「ねえ、薬で確か三年くらい若返ったのよね?リーアンってあんまり背が伸びてないのね」
リーアンが使った若返りの魔法薬は、外見上の全てを若返らせる。当然身長も忠実に再現される。
私の顎に添えられていた手が小刻みに震えた。
「珠希‥‥今度俺の背の事を言ったら、屋敷の地下牢に十日間閉じ込めるぞ」
リーアンの声は低かったが目は真剣そのもので背筋が冷えた。しかし不当な処分に思わず抗議した。
「何でそれだけで地下牢に入れられる訳?しかも十日間?冗談じゃないわ!リーアンは顔も年より若く見えるし、背も小さくて可愛いと思ったから言ったのに!」 今度はリーアンの全身が震えていた。
「だから‥‥‥‥可愛いって言うな!」
今まで聞いた事のないリーアンの激しい言葉に私は身を竦めた。
今になってようやく気付いた。リーアンは背の低さと童顔を気にしているらしい。
私は身の危険を感じて立ち上がった。いまさら謝る気にはなれなかったので、とりあえず自分の部屋に避難することにした。
でも三歩も進まないうちに鬼神と化したリーアンに左手を捕まれた。迫力では完全に私が負けている。
「お仕置きだ」
言うなりリーアンは私を掴んでいない方の手を上げてひらりと一閃させた。
強い風が一瞬で吹き抜けた。何となく違和感を感じて見下ろすと、私のワンピースはズタズタに切り裂かれていた。いくつか布切れはかろうじて体に張り付いているものの、少しでも身動きすれば落ちてしまうだろう。
私は体の奥底から怒りが沸き上がり、全身が小刻みに震えるのを感じた。
「今回だけは素直に謝ったら許してやる」
リーアンは低い声で言った。
「分かったから手を離して」
私の声は震えていた。リーアンはゆっくりと手を離した。
私は顔を上げると燃え盛る炎を宿した目で真っ直ぐにリーアンを睨み付けた。そして右手を上げると縦に大きく振った。
突如リーアンの全身が音もなく激しい炎に包まれた。リーアンの顔が苦悶に歪むのが見えた。何か叫んでいたが炎に封じられて全く聞こえなかった。
私はしばらく魅入られたようにじっと炎を見つめた。どれくらいの時間そうしていたのだろう、激しくドアがノックされる音で私は我に返った。
目の前ではいまだに激しく炎が踊っていた。私は言った。
「リーアン、それ熱くないから」
その直後炎はかき消え、自由になったリーアンが床をのたうちまわった。
私がドアを開けるのを待たず、部屋に辰希が飛び込んで来た。
辰希は一瞬で状況を見て取るとリーアンの側に駆け寄った。
「大丈夫?」
リーアンは動きを止め、肩で息をしながらゆっくりと立ち上がった。ふらつきながらもベッドに向かい、そのまま倒れ込んだ。
辰希はリーアンの体の下から布団を引っ張り出し優しく上からかけてやった。
「まったく乱暴なんだから」
辰希は呆れ声で言った。辰希の話し方は芝居モードが抜けて本来の優しい調子に戻っていた。
「龍都に着くまで珠希は部屋で謹慎ね」
口調は柔らかいが有無を言わせぬ迫力があった。私は壁沿いをドアに向かって進んだ。
「通路のカメラもイーレさんも黙らせておいたから、その格好で出ても大丈夫だよ」
私は自分が下着しか身に着けていないことを、この時まで完全に忘れていた。手近に体を隠せる物が見当たらなかったので、私は勢いよくリーアンの部屋を飛び出し自分の部屋に飛び込んだ。
ドアを閉めると緊張の糸がふつりと切れ、意識が遠のいていった‥‥。




