十三
頭が痛む。身じろぎして目を開くと、緑色の美しい瞳に真っ直ぐに見つめられていて驚きのあまり一気に覚醒した。
「大丈夫か?」
更に近付いて来る瞳にどぎまぎして、私は反射的に体を遠ざけようとした。
「じたばたするな、また気分が悪くなるぞ」
急に動いたせいでめまいがし、私は体の力を抜いた。
「どこか痛むか?」
ようやく声の主に思い当たった私は短く答えた。
「頭が痛い」
リーアンの腕の中にいる私は、体の苦痛を感じながらも満たされて安心していた。
「リエルが到着したら治してもらうから、それまで我慢してくれ」
リーアンは優しい声で言った。その言葉は耳に心地良く、私は目を閉じるとまた意識を失った。
「義姉上、分かりますか?」
額に置かれた冷たい手のひらを感じて私は目を開いた。私を心配そうに覗き込むリエルの顔が見えた。
リエルは私の額から手を離した。
「気分はどうですか?」
私は仰向けに横たえられていた。体には毛布のようなものがかかっている。
「頭痛は治ったみたい」
リエルは笑顔になった。
「何か暖かい飲み物を買って来ますから、待ってて下さいね」
私の視界からリエルが消えた。
「起きられるか?」
今度は頭上からリーアンの声が降って来た。どうやら私はリーアンに膝枕をしてもらっていたらしい。
「たぶん大丈夫」
リーアンの手を借りて上体を起こすと、私は足をベンチから下ろして座った。この木のベンチに長く寝ていたのか背中が痛む。
「ここはどこ?」
私はまだぼんやりとしたまま辺りを見回した。
建物の中だったが、実に殺風景な印象を受けた。
「駅の待合室だ」
リーアンは簡潔に答えた。いつの間にか、あの殺人的な術で駅まで運ばれたらしい。私はリーアンを見た。
「あの術は本来人を運ぶようには出来てないんだ。無茶してごめん」
リーアンは目を伏せた。長い銀色の睫毛が際立つ。
「もう大丈夫だから、謝らなくてもいい」
頭痛もふらつきもきれいに消えていたが、ふわふわとした気怠さが残っていた。
「俺は今日、謝ってばかりだな」
リーアンは苦笑した。
「まだぼうっとしてるみたいだから、俺に寄りかかってろ」
私はリーアンに引き寄せられ、頭をリーアンの肩に乗せた。
リーアンはいつもいい香りがする。森と太陽の香り‥‥私は直感的にそう思った。
「腹、減ってないか?」
リーアンは心配そうに訊いた。
「よく分からない」
私は正直に言った。
「義姉上、お待たせしました」
元気なリエルの声が響いた。私がリーアンから体を離して真っ直ぐ座ると、リエルは湯気の立つ大きなマグカップを差し出した。
「蜂蜜たっぷりのミルクティーですよ。熱いから気を付けてくださいね」
私は慎重にマグカップを受け取ると、ゆっくりと紅茶を口に運んだ。優しい甘さの蜂蜜とまろやかなミルクが濃いめの紅茶にうまく調和していた。
紅茶に含まれるカフェインの効果か、私の頭の中の霞はきれいに晴れていった。
「そう言えば辰希はどうしたの?」
空になったマグカップの底を覗きながら、私は誰ともなしに訊いた。
「ここしばらく全く体を鍛えてないから、ちょっと山を走って来るって言ってましたよ」
リエルは私の手からマグカップを取った。
「山?」
私は困惑した。草原には多少の起伏はあったものの、山と呼べるほど高くはなかったはずだ。
「あの道は徐々に上り坂になります。この駅はすっかり山の中ですよ」
私は信じられない思いで待合室の中を見回した。扉や窓にはガラスがはまっていたが、薄汚れて外は全く見えなかった。
「辰希さんは列車の時間には戻って来ますよ。それより紅茶のお代わりはどうですか?」
窓は役に立たないが、壁に時計が掛かっているのが見えた。針は十一時十五分を指していた。駅にある時計が狂っているというのは考えにくい。
「義姉上?」
訝しげなリエルの声にはっとして、私は慌てて言った。
「え?ああ、お代わりはいらないわ。ありがとう」
リエルは立ち上がるとマグカップを手に出て行った。リエルが開けた扉から外を見たが、何かの建物がちらりと見えただけだった。
「お店があるの?」
看板が見えた気がして、私はリーアンに訊いた。
「田舎によくある何でも屋みたいなのが一軒だけある。リエルはさっきの紅茶をそこで買ったんだ」
私は急に外の空気を吸いたくなった。埃っぽい待合室はもう十分だ。
「外に出たい」
私の訴えに、リーアンは立ち上がって手を差し伸べた。
「ゆっくりでいいから」
私はリーアンの手を掴むと、足に力を込めて立ち上がった。めまいもふらつきも感じなかった。
リーアンは私の手を繋いだまま、リエルが出て行った扉から外に出た。ひんやりとした空気が体を包み、頭の芯までしゃきっとした。
私はきょろきょろと辺りを見回した。
細い砂利道を挟んで駅の向かい側に店があった。雑多なものが店の前に並べられていて面白そうだ。私達が通って来た道の延長らしいこの砂利道は、緩やかにカーブしながら更に上っている。
幾重にも重なる山並みは、この辺りの山が深いことを示していた。
「義姉上、もう大丈夫なんですか?」
店から出てきたリエルは、私を見ると急いで目の前までやって来た。
「大丈夫。リエルが治してくれたんでしょ?ありがとう」
リエルはにっこりと笑った。
「人を癒すのが神官の仕事なので気にしないで下さい」
私は微笑み返した。
「兄上」
リエルが私に向けるのとは違う尖った声で言った。
「これ以上義姉上に負担をかけるようなことをしたら、本気で怒りますからね」
リーアンは溜め息をついた。
「分かってるから、そうやって小型犬みたいにキャンキャン吠えるな」
リエルは表情を消した。笑顔を見慣れているだけに、何だか恐ろしい光景だった。
「僕が犬だったら、兄上は何ですか?」
リエルの言葉には感情がこもっていなかった。
「俺?狼ってとこかな」
臆することなくリーアンが言う。
リエルは一歩私に近付き、リーアンとは反対側の私の手を掴んだ。
「それでは危険な狼から、義姉上を守らないといけませんね」
リーアンはかすかに肩を竦めた。
「犬よりは狼の方が強いし、珠希を守れると思うけどな」
リエルは溜め息をついてから私の手を離した。
「兄上、どういうつもりですか?僕は挑発には乗りませんよ。それからここではっきり言っておきます」
リエルはリーアンの前に立ち、真っ直ぐ目を見て言った。
「もしもこの先義姉上が命の危険に晒されたら、僕は神官としての立場を最優先して、何を置いても義姉上を守ります。その結果、兄上が命を落とすことになってもです」
リーアンは笑った。
「なるほど、珠希を守ることが今のイトラ教の総意、もしくは上層部の意志ってことだな」
リエルは頷いた。
「それならイトラ教が抱えている神官兵を、大量に送り込んでくれればいいんじゃないか?」
リエルは複雑な表情を浮かべた。
「神官兵を動かせば、目立ち過ぎてしまいます。密かに《蛇》を封じることなんて出来ません」
私は兄弟の会話に割り込んだ。
「つまり邪教の者達が《蛇》を復活させようとしていることが広く知れれば大混乱になる。だから出来るだけ少ない人数で、目立たないように行動しないといけないってこと?」
リエルは私を見て頷いた。
「だとすると生半可な神官なら役に立たない。リエルは見た目と違ってかなり優秀だということだな?少なくともディータよりは優秀でなければ意味がない」
リーアンの言葉にリエルは小さく息をついた。
「ディータさんの技量はともかく、僕の方が神官としての経験が長くあそこで動かせる神官が僕だけだったっていう話ですよ」
リーアンは大きく肩を竦めた。
「今はそういうことにしといてやるよ」
私は言った。
「どうしてわたしがそこまで重要なの?封蛇師なら他にもいるのに」
リーアンとリエルは顔を見合わせた。
「他にもいるけど、現時点で大和の外にいるのは珠希だけだろ?よく考えてくれ。大和に封印されている《蛇》は一体だけ、でも世界中には後四体の《蛇》が封印されている」
私は気分が沈んだ。今後他の封蛇師が派遣されない限り、大和を除いて世界でたった一人の封蛇師ということになり、私は四体の《蛇》すべてに気を配りいざとなれば封じなければならない。荷が重過ぎる。
「イトラ教は以前から、火野家に対して最低四人は封蛇師を派遣してくれるように頼んでいました。でも何十年も拒否し続けて来たのに、今になって義姉上が結婚という形で外に出されたんです。火野家の真意が何なのか、僕には理解出来ません」
リエルの言葉を聞いていると、私の脳裏にある記憶が蘇った。
今から三年前の十五歳の誕生日、母は私を書斎に呼び出すといきなり切り出した。私が遠い西洋の魔導師と結婚しなければならないこと、これは決定事項で私がどんなに嫌だと言っても覆らないこと、私は相手の写真も見ることを許されず式に臨まなければならないこと。
私は衝撃のあまり、しばらく返事が出来なかった。
火野家の娘として生まれた私には、元から結婚相手を選ぶ自由はなかった。火野家の娘は十八前後になると本家当主から結婚相手を指示され、必ずそれに従わなければならない。しかし相手が西洋人なんて話は聞いたことがない。
火野家の当主は代々女性で、結婚は女性の幸せにとって重要だと分かっている。だから強制的な結婚といっても、相手の性格や二人の相性は十分考慮される。今回のようにめちゃくちゃと言っていい話は他に例がない。
呆然とする私に母は言った。「もちろん辰希は一緒に行くわ。だから独りぼっちになるわけではないのよ」
母はそれ以上何も言わず、私を部屋から下がらせた。その後もこの件に関する質問は許されなかった。
「珠希、どうした?」
私はリーアンの声で現実に引き戻された。
「ちょっと、思い出してたの。母がわたしに結婚のことを話したときのことを」
当時は気が動転していて気付かなかったが、あのときの母は明らかにいつもと様子が違っていた。
「母はいつも冷静で、感情を表に出さない人なの。でもあのときは傍目に分かるくらい憔悴していて、目も腫れてたような気がするの」
リーアンとリエルは目を見交わした。
「何か深い事情があるみたいですね。それにしても‥‥」
言いながらリエルは考え込んでしまった。リーアンは繋いだ私の手をぎゅっと握りしめた。
「心配するな。ルーナー家は全力を上げて珠希をバックアップする」
リエルは軽く溜め息をついた。
「ルーナー家は義姉上が封蛇師だと、いつ知ったんですか?」
リーアンは言った。
「式の時だ」
リエルはやや口を開き、呆然とした顔になった。
「それで‥‥よく式を決行しましたね」
リーアンは苦笑した。
「結婚を申し込んだのはこちらだ。それにイトラ教も魔法の塔も、封蛇師を欲しがってるのは知ってた。火野家の思惑は謎だったけど、取り止めることなんて出来なかった」
リーアンは少し躊躇った後に言った。
「珠希の母上が言ったんだ。これが珠希を幸せにする最善の方法なんだって」
私はリーアンをまじまじと見てしまった。火野家は閉鎖的な一族だが、決して鬼の集団ではない。一族の安定した存続と個人の幸せも考えられている。
「ちょっと嫌な予感がしますね」
リエルはそれだけ言うと、砂利道の上の方に目をやった。
砂利を踏む音とともに辰希が駆け下って来た。走り回って来たはずなのに、何故かすっきりとしていて服装も違う。
「あれ、三人で深刻な顔してどうしたの?まさかまた喧嘩?」
言ってから、辰希は私とリーアンが手を繋いでいるのを見て小首を傾げた。
「違うみたいだね。それならいいけど」
リエルは急に明るい笑顔を取り戻し、辰希に向かって言った。
「鍛錬から戻って来たところで申し訳ないんですが、ちょっとこの山で薬草集めを手伝ってもらえませんか?」
辰希は一拍の後に答えた。
「いいよ。まだ時間があるしね」
リエルは持っていた買い物袋をリーアンに押し付けると、辰希と一緒に山を登っていった。
「腹、減ってないか?」
リーアンはまた質問した。
「ちょっとすいてるみたい」
リーアンは私の手を引いて向かいの店に入った。食欲をそそるにおいが私の胃を刺激する。
店の奥はカウンターだけの小さな食堂になっていた。
黒板に手書きでメニューが書かれていた。
【こだわりのチキンカレー】
何種類かあるように見えたフードメニューは、単に何種類かの言語で書かれていただけですべて同じ内容だった。
リーアンはカウンターの奥に向かって叫んだ。
「おばさん、どこだ!?」
たっぷり五分後にカウンターの奥から現れたのは、どう見てもおばさんではなかった。




