十二
小鳥のさえずりが朝の空気を心地良く震わせる。爽やかな風が草の海を揺らし、さやさやと音を立てた。
まばらに立つ木々には、名前の分からない果物が実っているものもあった。
「あれ、食べられるのか?」
リーアンが赤い実を指差して訊いた。
「小鳥が食べないのには理由があるんですよ」
リエルは広げた弁当を頬張りながら言った。
「あの実は小鳥には毒です」
サンドイッチを飲み込んだリエルはいきなり立ち上がったかと思うと、急に実の生る木に向かって駆けて行った。
「落ち着きのない奴だな」
溜め息とともにリーアンが呟く。
駆け戻って来たリエルが手を開くと、赤い実が数個乗っていた。
「兄上、食べてみて下さい」
リエルがリーアンに手のひらを差し出す。
「は?さっき毒だと言わなかったか?」
リエルが悲しそうな顔をした。
「僕が兄上に毒を盛るはずがないでしょう?」
目は潤み、今にも泣き出しそうだ。
「リーアン!リエルは『小鳥にとっては』毒だって言ったのよ」
リーアンはみるみる顔を赤らめ、気まずさを取り繕うかのようにリエルの手にあった赤い実を全部掴むと一気に口に放り込んだ。
「兄上!」
リエルの制止も間に合わず、リーアンはごくりと飲み下してしまった。
直後リーアンは喉を押さえ、悶え苦しみ始めた。リエルは素早くリーアンの後ろに回り、暴れないように羽交い締めにする。
「辰希さんも手伝って下さい」
辰希は何も訊かずにばたつくリーアンの足を押さえた。
「兄上、よく聞いて下さい!その実は人間には薬ですが、一度にたくさん食べると刺激が強すぎます。数分で収まりますから、我慢して下さい」
リーアンの体から力が抜け、辰希とリエルは拘束を解いた。
仰向けに寝転がったリーアンは、しばらく呻いていたが急に体を起こした。
「治った!ところで何の薬なんだ?って、あれ?」
違いは私達にも分かった。リーアンの声は明らかに艶が増し、響きが良くなっている。
「喉の薬ですよ。風邪を引いたり喉を痛めているときに食べると瞬時に炎症を鎮め、何もないときに食べると声に艶が出て、声量も飛躍的に大きくなります。効果は数時間で消えますけどね」
リーアンはしばらく発声練習らしきものをした後、急に声高らかに歌い始めた。
知らない歌だったが、音程が完全に狂っているのは分かった。声量が増しているだけに始末が悪い。
私は食べていたきゅうりのスモークサーモン巻きを、草の上に吐き出してしまった。辰希とリエルは手で両耳を押さえている。
リーアン本人はと言えば、実に気持ち良さそうに朗々と歌い上げていた。
私は身近にあった水筒をリーアンに投げ付けた。
「その下手な歌を今すぐやめて!」
既に胃の中に入った食べ物も逆流しそうだ。
苦もなく水筒を受け止めたリーアンは、目で私を睨んだだけで歌はやめなかった。
私は負けじと言い放った。
「へえ‥‥そっちがその気なら、わたしにも考えがあるんだから」
私は立ち上がると右手を上げ、空中に円を描いた。炎の輪が出来上がると、徐々に大きくなりリーアンの周りを囲むように落ちた。
歌は聞こえなくなり、私達は重大な危機を脱した。
「あ、義姉上?」
リエルが耳から手を離し、不安そうに私とリーアンを見比べた。
「心配いらないわ。炎に囲まれている部分をちょっと封じただけだから」
リーアンは炎に囲まれてもしばらくは歌い続けていたが、炎が狭まって来ているのに気付くと歌をやめて私を見上げた。
「義姉上!兄上を焼き殺すつもりですか?」
慌てるリエルを後目に、溜め息をついて立ち上がった辰希が片足で炎の一部を踏んだ。炎は実に呆気なく消え去った。
「珠希、身内に術を使うのはやめた方がいいよ。いくらリーアンの歌がひどいからって、他にも止める方法はいくらでもあるんだからね」
辰希は不敵に微笑んだ。
「二人とも‥‥俺を何だと思ってるんだ?」
リーアンが私達の会話に割り込んで来た。収拾がつかなくなりかけた頃、リエルが声を発した。
「皆さんやめて下さい。今回一番反省すべきなのは兄上ですよ」
私達は三人とも口を閉じたが、リーアンはすぐに言い返した。
「この双子は旅の始まりから俺をひどい目に遭わせて来たんだぞ?この乱暴な双子こそ何とかしてくれ!」
リエルは大きく息をついた。
「今までのことは知りませんよ。それにか弱い子供でもないんだから、自分で何とかして下さい。兄上は兄弟の中で一番冷静で頭脳派だって聞いてたのに、何だかがっかりです」
悄然とするリエルを見て、リーアンは慌てた様子で言った。
「この二人がいると調子が狂うんだ。でも、まあ‥‥いきなり歌い出したりして悪かった。今まで下手だって言われ続けてたんだけど、声が良くなってつい歌いたくなったんだ」
リエルは顔を上げるとにっこりと笑った。
「これからは歌うときは、防音完備の部屋で一人でお願いしますね」
リーアンは顔をしかめたが、渋々といった感じで頷いた。
辰希が小声で私に言った。
「珠希もリエルみたいにすれば可愛いんだよ」
私は辰希を睨み付けた。
「食事を続けましょう」
リエルが明るい声で言い、私達は再び草の上に座った。
ここはノイアの森を取り囲む広大な草原のどこかだ。
朝五時にリエルに叩き起こされた私達は、身支度が整うなり出発した。リエルは朝食用の弁当と数日分の保存食を用意していて、全員で分けて荷物に入れた。
リエルの案内で迷うことなく森を抜け、すぐに振り返ると森はもうずっと後方になっていた。
リエルの説明によると、森の周辺には強力な術がかけられていて外から近付く者を阻む。また私達のように中から出れば、術のかかったエリアの外側まで一瞬にして移動するらしい。
リエルはもう自分も部外者になってしまったと、悲しげに話していた。
草原をしばらく進むと、舗装されていない凹凸の激しい道に出た。この道を進むとローカル線の駅があり、何度も乗り換えれば目的の蛇真教の神殿跡近くに辿り着けるのだという。
その道を約二時間歩いたところで、また草原に入りこうして朝食を広げている。
リエルが一人で作ったという弁当はとても豪華だった。
サンドイッチ、ハムやソーセージにサラダ、私がさっきこの草原に捧げたきゅうりのスモークサーモン巻きもあった。
弁当を平らげて一息つく私達に、リエルが容赦のない言葉を発した。
「ここから約十五キロのところに駅があります。列車は午後一時に発車するので、のんびりとはしていられません。出発しましょう」
時刻は午前八時過ぎ。平坦な道であれば問題なく辿り着ける距離だが、荒れたこの道ならぎりぎりかも知れない。
私達は大急ぎで荷物を纏め、草原を縫うように曲がりくねる道を歩き始めた。
「珠希、少し荷物を出せ。持ってやるから」
おぼつかない足取りでどうしても遅れがちになる私を見かねたのかリーアンが言った。
「みんな持ってるんだもの、大丈夫」
私の強がりをリーアンは鼻で笑い飛ばした。
「遅れるとみんなの足を引っ張るんだ。いいから渡せ」
リーアンは私のリュックを無理矢理外すと、勝手に中身を移し始めた。
「義姉上、僕達は先に行ってますから、後から兄上と追い付いて来て下さい」
少し先から手を振りながら言うリエルに、私は手を振り返した。
リーアンは私の持っていた重いものを自分のリュックに入れると、軽くなったリュックを返してくれた。
「珠希は一応女なんだ。俺達より体力がなくて当たり前だ。無理はしなくていい」
私はぼそりと言った。
「ありがとう、それとさっきはごめん」
リーアンは笑顔を見せた。
「さっきのことなら気にしてない‥‥でも、そうだな、詫びの印でももらおうか」
リーアンは私の目の前に立つと、右手をそっと私の頬に添えた。そのまま少し身を屈め、顔を近付ける。何をされるか分かっても、私は微動だに出来なかった。
私が恥ずかしくて目を閉じると、唇に柔らかな感触を感じた。それはとても優しい口付けで、体から力が抜けそうになった。
リーアンがそっと唇を離すと、私は火照った顔を隠したくて顔を背けた。
リーアンが私の耳に口を寄せて言う。
「珠希はほんとに可愛いな。そんな顔、他の男には見せるなよ」
私はますますどうしていいか分からなくなった。このまま安っぽい恋愛映画のように、リーアンの胸に飛び込めばいいのかも知れない。でもそんな大胆なことが出来るなら、最初から苦労はしないのだ。
リーアンは俯いて困惑している私の手を掴むと言った。
「ほら、行くぞ。足元に気を付けろよ」
私は言われた通り、足元だけを見て歩いた。恥ずかしくてリーアンの顔を見られない。
「ちょっと、気になることがあるんだけど」
リーアンが唐突に言った。私は反射的に顔を上げてリーアンを見た。
「リエルだけど‥‥十六にしては子供っぽくないか?」
リーアンは私を見て、真剣な顔で訊いた。
「小さいときから大人に囲まれて育って、可愛がられてたんじゃないの?」
リーアンは前方に向き直ると軽く首を振った。
「大人に囲まれてたなら早熟のはずだ。しかも周りにいたのは優しい養育係ではなく、教師役も務めただろう厳しい神官達だ。どうも腑に落ちない」
私は笑って言った。
「そんな、深く考えることはないって」
リーアンは溜め息とともに肩を落とした。
「相談相手を間違えた」
私は少し頭に来たが、爆発しないように堪えた。
それからしばらくはリーアンに手を引かれるまま、何も話さずに歩いた。がたがたの道も二人で手を繋いで歩けば心強かった。私が躓いて転びそうになると、リーアンはさりげなく支えてくれる。かなり早足で歩いたが、もう不安は感じなかった。
約一時間経った頃、私達はようやく辰希とリエルに追い付いた。軽く息を弾ませている私を見て、リエルは五分間の休憩を宣言した。
「いくら辺鄙な場所だからって、どうして車が一台も通らないのかな?」
辰希の当然の質問にリエルは答えた。
「この道とほぼ平行する形で、七キロほど先に整備された道路があるんです。物好きでもなければ、車はそちらを通りますから」
七キロも離れているなら徒歩だと遠回りになるし、この付近からその道路に抜ける道もなさそうだった。
休憩が終わりリーアンとしっかり手を繋いで歩いていると、リエルが側に来て言った。
「お二人は仲がいいんですね。僕、安心しました」
リーアンはじろりとリエルを見て言った。
「子供が生意気なことを言うな」
リエルはリーアンの視線など気にする風もなく言った。
「僕と兄上はたった二歳しか変わらないんですよ。僕も義姉上みたいな人と結婚したいです」
イトラ教の神官は、規律を守る限り結婚も子供を持つことも許されている。
「珠希、どうする?俺達は式は挙げたけど、まだ実質上の夫婦じゃない。今なら取り消して、リエルを選ぶことも出来るぞ」
私はショックのあまり立ち止まった。涙が自然に溢れ出し、どんどん頬を流れ落ちる。
「兄上‥‥冗談で言っていいことと悪いことがありますよ」
リエルの声には、今まで聞いたことのない冷ややかな響きがあった。
涙でぼやけた視界の中、リーアンは握っていた私の手を引き寄せ、そのまま私を胸に抱き締めた。
「珠希、ごめん。今のは完全に俺が悪かった」
打ちひしがれたようなリーアンの声に、私は彼の偽りのない言葉だと確信した。でもそう簡単に涙は引いてはくれない。
「義姉上、簡単に許してはダメですよ。さあ、僕と一緒に行きましょう」
リーアンが体を離したので服の袖で涙を拭いて見ると、リエルが私に手を差し出してくれていた。心に染み入るような優しい笑顔に、つい手を取ってしまいたくなる。でも私は言った。
「ありがとうリエル。でも私はリーアンと一緒に行く」
リエルは予想外だったのかやや目を見開いたが、すぐに表情を戻して頷いた。
リーアンは清潔なハンカチで私の涙をきれいに拭き取ると、手をぎゅっと握って歩き始めた。
私の歩く速さはどうしても遅くなってしまった。リーアンの放った言葉を思い出す度、何度も涙が流れた。リーアンが急に立ち止まると、辰希とリエルに言った。
「先に行っててくれ。俺は珠希と話す」
二人はすぐには従わず顔を見合わせていたが、少しして辰希が言った。
「これ以上珠希を泣かせたら、この仕事が終わったら二人で大和に帰るからね」
リーアンが頷くのを見て、辰希は渋るリエルを促して歩き始めた。
二人の姿が見えなくなると、リーアンはシャツの胸のポケットから古い革の手帳を取り出した。手帳を開くと、間に何枚もの写真が挟んであった。
リーアンはその写真をすべて私の手に乗せた。
私は一枚一枚確認すると写真をリーアンに返した。
「これ何?ストーカー?」
写真に写っていたのはすべて私だった。子供の頃から最近のものまであった。
「何言ってるんだ?最初に珠希のことを聞いたのが、八歳のときだった。そのとき父上がこの写真を俺にくれた」
リーアンは一番古い写真を私に見せながら言った。
「俺は写真を見て、どうしても珠希に会いたいと思った。変に思うかも知れないけど、写真を見て一目惚れしたんだ。その‥‥すごく可愛かったから」
リーアンは少し大きくなった私の写真を見せて話を続けた。
「父上は俺のために珠希と会えるように、火野家と何度も交渉してくれた。でも頑なに断られ続け、写真だけが送られて来た」
リーアンは写真を大切そうに揃えると、また手帳に挟み胸ポケットに戻した。
「俺はずっと不安だった。こんなに会いたいのに、珠希は俺のことが嫌いなのかなって‥‥。何回手紙を書いても返事が来なかったし」
私は驚いてリーアンを見た。
「手紙なんて知らないわよ。それに私がリーアンのことを聞いたのは十五の時だったし、写真も見せてもらえなかったから結婚式の日まで顔を知らなかったのよ」
リーアンはがっくりと肩を落とした。
「俺はいつも写真を同封して手紙を送ってたのに」
私は何と言っていいか分からなかった。
リーアンは切なそうに私を見た。
「今までずっと不安だったんだ。珠希は嫌々俺と結婚したんじゃないかって」
私は首を振った。うまく言葉に出来ないのなら、無理にしない方がいいと思った。
リーアンは美しく微笑んだ。
「不安だからさっきみたいなことを言ってしまったんだ。でも珠希の涙を見て不安が消えた。さっきは傷付けてしまってほんとにごめん」
リーアンは深く頭を下げた。
「もういいから」
私は胸が詰まってそれだけ言った。
リーアンは顔を上げるとしっかりと私の手を掴んだ。
「列車に乗れなかったら、あの二人に何言われるか分からない。ちょっと無茶するけど我慢してくれ」
私を掴んでいない方の手を上げると、リーアンは大きく腕を振った。すると私達の周りを強風が包み、体が浮き上がった。
「目を閉じてしっかり俺に掴まっててくれ」
浮いた体は不安定にぐらつき安定しない。私はリーアンの体にしっかりとしがみついた。
直後めちゃくちゃに振り回されているような感覚がした。ジェットコースターの回転をいつまでも続けているような感じだ。目を閉じていても目が回り、私の意識は闇に沈んでいった。リーアンの腕はしっかりと私の体に回されていた。