哲学彼女
僕の彼女は哲学者だ。
知人に彼女の紹介をするとき、僕は決まってそう言うことにしている。
そうでもなければ、きっと彼女の、素っ頓狂で突拍子のない言動にはついていけないだろうから。言ったって、半分以上の人間が頭の上に大きなはてなマークを浮かべてしまうんだけどね。
その度に僕は彼女の言っていることの解説、通訳をしなければならない。でも、今日はその心配は全くない。なぜなら、今日は二人きりのデートだからだ。
「あ、おはよう。待った?」
僕たちの待ち合わせは、僕が彼女の家に行くところから始まる。そして、そこがデートスポットでもある。彼女の家は少しだけ広く、少しだけ薬のにおいがして、少しだけ白くて、少しだけ、悲しみの色が満ちていた。
「ふふふ、待った。待ったとも。一体何時間待たせるつもりだ?」
尊大にして横柄。それが彼女の口調だった。ずっと家に……病院にいるんだから、他の子のことなんてこれっぽっちも知らないからなんだと、僕は結論付けてるけど……絶対、そうじゃないような気がする。
「時間きっちりだと思うんだけど」
僕はそっけなく言う。ここで取り乱したりしちゃったらまたどこかに連れ出せとか言うにきまってるんだ。……彼女は外に出て歩いていいような体じゃないのにも関わらず、外に出たがる。彼女の家族や僕がどれだけ心配しているか、そんなことはお構いなしに言ってくるのだから、始末が悪い。
「時間きっちり、か。ふふ、キミはずいぶんと、私の扱いに慣れたな」
「そうかな?」
「ああ、そうだとも。キミの友人や私の『クラスメイト』が来たときの対応も、ずいぶんとよくなった。……普段からあのような話し方でも、何も問題はないような気がしてきたよ」
「……困るよ」
彼女は僕以外の同世代を嫌う。僕が友達を連れてきた時も、『クラスメイト』が来た時だってそうだ。わけのわからないことをわけのわからないうちにまくしたてて、『二度と来るもんか』と来客に思わせる。そんなことを長く続けた結果、彼女の周りにいる同年代は、僕一人。
「困るだろうな。だから私はしていない。……さて、今日もデートだ」
「うう……」
彼女とするデートとは、普通の高校生がやるような『デート』とは全く意味が違う。彼女の目的……というか、趣味は議論。答えなどでなくてもいい。結論なんて後回し。ただ一つの話題について『語り合う』。それが彼女の趣味であり、彼女が『哲学者』たるゆえんだ。
「昨日、少し面白いテレビを見た」
「何を見たの?」
辟易しながらも、僕は聞いた。僕たちのデートはいつも、こんな世間話から入る。楽しくおしゃべりをしているうちに、気がつけば議論をしている。毎回そんな風だから、僕も身構えずにデートできるんだろうけど……。
「これが面白くてな。『ホスピスの少女』というタイトルだ」
でも、今回ばかりは、楽しくおしゃべり、とはいかない雰囲気だった。
「……」
「重症患者で、末期の病気になっている少女がクローズアップされたテレビ番組でな、彼女の不幸と苦しみと悲しみがこちらに伝わってくるようだった」
「……その点で言えば、キミもクローズアップされる人間なんだろうけど」
言葉を選びながら、僕は言う。と、同時に疑問にも思う。
どうして? どうして今日はこんな話題から入ったの? いつもは、アニメとか、くだらないクイズ番組からなのに……。
「そうだな。だが、こんなにも元気で、今日も明日も明後日の生も信じて生きている少女など、誰が悲しむ? 誰が心を痛める? ……ふふふ、テレビなど所詮、他人の手で切り取られた『商品』だ。キミも気をつけろよ。商品に耽溺するあまり、いきなり現実に引き戻されるかもしれないぞ? なんでも、いきなりは辛いからな」
「……君は、いきなりじゃなかったから、辛くなかった?」
少し、踏み込みすぎたかな。内心冷や汗をかいたけど、彼女は気にしている風はなかった。
「そうだな。痛いし、苦しいが……キミという彼氏がいるからな。充分、人生を謳歌させてもらっているよ」
……キスも、その先もしたことないのに、よくそんなことが……。
言おうとして、やめる。何をバカな。キスはともかく、彼女がその先なんて、できるはずがない。
「そうなんだ。僕も、キミがいて充分楽しいよ」
「ふふふ…………キミは、本当に私の扱い方を心得ているな。嘘だとしても、うれしいよ」
「嘘なんかじゃ……」
嘘なんかじゃ、ない……よ。
「キスはできるだろう。けれど性交はどうだ? キミはしたいだろうし、できるだろうが、私は違う」
「……恋愛は、そういうことだけじゃないだろう?」
「そうだ。だけではない。が、なくていいというものでもない」
僕は膝にやった手をきゅっと握りしめた。
「なくてもいいんだよ。僕と君に限ってはね」
「……本当に、キミは優しいな。しかし……。キミとて、健康な男子だろう? 彼女という、身も心も捧げる覚悟の女がそばにいて、劣情を催さないわけがない」
「……それは」
「自分で処理をしているのか?」
「……」
女の子がなんてことを。僕がそう言おうと口を開こうとすると、彼女が手でそれを制した。
「……いいんだ。私の身体は役に立たないし、キミを気持ちよくさせることもできない。……なら、キミの中にいる私に頼むしかないだろう」
「……勘違いした上に変なこと言わないでよ。一体いつ、僕がそういうことをしたって言った?」
「……してないのか?」
「してない!」
彼女のことが好きすぎて、なんだか汚すみたいで、できなかったのだ。
「そうか。だが、うれしいことではない。つまり、私は……キミにその気を起こさせることすら、できないのだからな……」
あ、なんかすっごい落ち込んだ。
彼女は数回せき込むと、気を取り直すかのように胸を張った。
「デートを続けようか。『ホスピスの少女』のことだ」
「……そこまで戻るの?」
彼女はうなずいた。
「人の作った『商品』にとやかく言う趣味はないのだがな、さすがに今回は……な。別に、公表するわけでもなし、私が何らかの力を持っているわけでもなし、構わないだろう」
「テレビの悪口いうくらい、全然構わないよ」
彼女はそういうところは優しい。根は優しい、というやつだろう。悪口を言わない理由は、『私の悪口で傷つく人がいるかも知れないから』だそうだ。……本当に、優しいな。
「悪口など、言うつもりはない。そんなこと言ったら、天国へは行けないからな」
「……天国って?」
「天国は天国だ。言っていなかったか? 私は死後の世界を信じている。……いや、信じざるを得ないと言ったところか。よく考えてみろ。ここで終わる一生。どこにも行けない。何にもなれない。こんな人生で、私が生まれた意味はなんだ? こんなことを考えているうち、自然と『あの世』という結論に至ったよ。天国に行くために、私は生まれてきた、とな。
……そうでも思わなければ、やってられん」
最後の言葉が、酷く耳に残った。
「……と、まあ、私の死生観などどうでもいいのだ。重要なのは、デートだからな。私とキミとの限られた時間、精一杯、目一杯楽しまなければ。その番組はな、まるで、ホスピスを『死が決定した人間が行く、墓場のようなもの』としたいのか、とディレクターに小一時間問い詰めたくなるような内容だったわけだ」
「……え、違うの?」
僕の疑問に、彼女は流し目一つ僕にくれて、それだけだった。……それだけだった。
「ああ、違うさ。おかしいとは思わないか?」
「……何が?」
「その番組は、生まれながらに重病にかかった人間や、末期がんにかかった人間を重点的に取り上げ、あたかもホスピスが彼らの墓場であるかのように取り扱ったのだ。……まあ、それ自体はおかしくはない。可笑しいのはな、これからだ、キミ」
「?」
くくく、と嫌な笑いを彼女はした。こんな話題の最中に笑えるのなんて、当事者である彼女くらいだろう。
「その番組、基本的な趣旨が『病気になった人は死が決定していて可哀そう』だときたものだ。全く、可笑しくて転げ回りそうになった! ふはははは!」
僕には何が可笑しいのか全く理解できない。多分、この疑問は顔に出ていたのだと思う。そうでなければ、彼女は笑うのをやめて説明し始める、なんてことなかったはずだから。
「全く……。あの番組の視聴者はきっと『ああ、こんな病気にかかって可哀そうだなあ、ホスピスへ行くのってどんな感じなのかなぁ』なんて考えて、家族で泣きながら、自分が生きていることをかみしめるんだろうなぁ。くくく、本当、そうだとしたら笑える」
「なんで?」
「なんで? だと? くくく、やはりキミも『そちら側』か。わからないのか?
人は死ぬぞ」
僕の背筋に、冷たいものが流れた。だって、今までの柔和な雰囲気全部切り変えて、まるで、今まで重苦しい話をしていたみたいな雰囲気に……。
「人は死ぬ。それは絶対だ。そうだろう? だから、『死が決定して可哀そう』なんてこと、ありえないんだ。なぜなら、人類、いや、生物みな、生まれおちた瞬間に『死が決定している』のだから」
「……でも、それでも、やっぱり……」
「『可哀そう』か? くくく、その感情そのものが慢心、そして優越感の塊だ」
「……どうしてそう思うの?」
「ふふふ、あの番組を見て本来の人間がすることは、『恐れること』だ。あんな病気がある。あんな辛い目に遭う。あんな痛い治療をしなければならない。ならば、備えなければ。……それくらいの思考が、『本来の考え』だ。私の病気だって、私にとってはキミと同じぐらい当たり前に隣にいるものだが、他の者にとってはそうではないのだろう? 治療不能で、足首からもろくなっていって、最終的には心臓その他もろもろ重要な臓器が自重で潰れて、崩壊して、死に至る。原因不明、感染するのかどうかも不明。なぜならこの病気、私が初めて罹るのだからな」
僕はこの病室で普段着だ。けれど、僕の友達……だった人と、『クラスメイト』は宇宙服みたいな防護服を着てこの部屋にいた。……僕は空気感染することが分かっても『もう手遅れ』だから、服はいいらしい。代わりに、この病院から出られない。ここの先生たちだって、そうだ。
「にしても、今思えば、私たちの境遇は狂っているな」
「……」
「全てが私の病気を中心に回っている。……くくく、この年で女王様気分が味わえるのだ、悪くはないかもな」
「……」
強がりだということは、彼女の泣きそうな目を見ればすぐにわかった。
「……どうした。キミもだ。哀れな哀れな生ける贄。全ての不運はキミが私の幼馴染だったことだ」
「そんなことないよ。君は、僕の自慢の彼女だ。君を独り占めできるんだから、幸運だったとすら思うよ」
僕がそう言うと、彼女はまた可笑しそうに笑った。
「ふふふ……本当にキミは私の扱いを心得ている……。だからこそ、私はキミを彼氏にしたのかも知れないな」
「かもね」
きっと僕たちが恋した真相は、僕たち二人しか手近な異性がいなかった、とかだろうけど。
「ふふふ……そう言ってくれてうれしいよ。こふっ、こふっ……。薬の時間か? すまないが君、薬と水をとってきてくれるか?」
「あ、うん」
僕は言われるまま、彼女のそばにある薬と水差しをとった。
「……ふむ、そうだ、ここで一つ恋人らしいことをしてみよう」
「……なに?」
「口移しで飲ませてくれ」
「冗談」
「を言っているように、見えるか?」
彼女は座ったまま、僕を見据えた。
「私の命はもう残りわずかだ」
「そんなこと」
「自分の命だ。自分が一番よくわかる」
「そんなの、テレビの中だけ。あとあるとしたら、君の妄想だよ」
「違う。私の身体は、どんどんもろくなっていってる」
彼女は辛そうに僕の言葉を否定した。
「脚の感覚がもうない。昨日恐る恐る確認してみたら……ふふふ、足はもう完全にイっていた」
「……!」
彼女は自身の下半身を覆い隠すタオルケットの裾をつまんだ。
「……見るか? 人の物とは思えぬほど、醜いぞ?」
「……いや、いいよ」
「…………そうか」
僕が言うと、彼女はタオルケットから手を離した。
「これで私の運命はきまったな」
「え?」
「私は一人で死ぬことにするよ」
僕はどうして彼女がこんなことを言うのかわからなかった。
「ど、どうして!?」
「どうして? どうしてだって!? キミがそれを聞くのか?」
彼女は心底驚いているようだった。それでも、どうして僕が彼女の死に目に会えなくなってしまうのか、理解できない。
「わ、わからないよ。どうして?」
「キミは、私の足を見ないと言った。無様に潰れ、ひしゃげた足を」
「そ、そりゃ、誰だって……」
「そうさ。私だって見たくない。……だが、いずれ私は、この足のようになるのだ。今、私の上半身は外界における女子高生の平均とほとんど同じ体型だ。だが、この病気が私を死に至らしめるほど進行すれば、私はおそらく潰れたクッションのように平になって、そして血だまりに沈んでいくのだろう」
な、なんだよ、なんだよ。なんだよその死に方。
「そ、そんな死に方するはずが……」
「私だってつい昨日までそう思っていたさ。だが、潰れてひしゃげた足を目の当たりにしては、な」
「そんな。君が、……そんな」
「私だって、できれば綺麗に死にたかった。じゅぐじゅぐの肉塊になるのではなく、さながら眠れる森の美女のように、手を組んで、目を閉じて。しかし、私が死ぬ時は、組むべき手は脆く崩れ去り、閉じるべき眼は崩落しているのだ」
彼女は、すでに死を受け入れているらしい。たとえ自分が死ぬとわかっていても、恐れるような雰囲気は感じられなかった。
「決めた。私は一人寂しく逝くとするよ。君に死に顔は見せない」
「そんなっ!」
君の最後を、僕は看取れないというの? 確かに、僕は最初、ためらったよ。でも、今は違う! 今なら、今ならきっと……。
「……見るか?」
「……」
答えられなかった。……これが、最後だった。
「…………そう自分を責めるな。病気に罹っている本人が吐き気を催したほどなのだ、何の覚悟もなしに見れば、私のことを嫌いになるかもしれない」
「それだけはない!」
「言い切れるものか」
僕の必死の抗弁を、彼女はあっさりと切り捨てた。
「きっと嫌いになる。キミはきっと、崩れゆく私を嫌うだろう。この足を見れば、きっと、この部屋に二度と足を運ばなくなる。……そんなのは、嫌だ。死ぬこと以上に、怖い」
「……そんな……」
悲しいと思う傍らで、僕はうれしかった。死よりも、僕と別れることの方が怖い、って言ってくれてる。……うれしいんだけど、悲しい。複雑な気持ち。
「今日、少し医者に頼んで足を斬り落としてもらおうかと思っている」
「どうして?」
「見たくない。ただそれだけだ」
嫌悪感をあらわに、彼女は言った。自身の下半身を親の仇でも見るような目で睨み、呟く。
「こんなもの、もう必要ない。足は足として機能しなければ、ただの飾りだ。いや、ただの肉袋になった私の足は、もはやゴミだ」
「そんな言い方しなくても」
「キミにはわかるまい。……この感覚、キミにはわかるまい」
その目を僕に向けることはしなかったけど、視線はまだ、彼女の足に向いたままだった。僕もそれにつられて彼女の下半身を見る。タオルは山なりに膨れているけど、シルエットは特におかしなところはない。
「見るなッ!」
「ご、ごめん!」
じろじろ見ていたら、彼女にすごい形相で怒鳴られた。
「キミはバカか!? さっき見たくないと言ったばかりだろう! 血や肉がタオルの端から染み出してきて、それを目撃したらどうするつもりだったんだ!」
「ど、どうするつもりって……」
「……っく。すまない。少し、キミに当たってしまった……」
彼女は目を伏せて僕に謝った。
「……そんな、謝らないでよ」
「……いや、いい。もういい。今日は終わりだ」
「え?」
「今日のデートは終了だ。……」
彼女はそれきり黙ると、ベッドに備え付けられているナースコール……いや、ドクターコールを押した。
『どうかしましたか?』
女性の声が聞こえてくる。一生付き合うドクターなのだから、男性よりも女性の方がよいだろう、ということで彼女の専任ドクターになった女性だ。
「疲れた。それと、手術を頼みたい」
『……手術?』
「ああ。この醜くひしゃげ、使い物にならなくなった足を切り落としたいのだ。風船みたいにぷにぷにしているから、おそらくハサミでも斬り落とせるぞ」
『いえ、そう言うことを訊いているのではなく……どうしてです?』
「……精神衛生上だ。こんなもの、未来の自分を見ているようで吐き気がする。だから、とっとと切れ」
『しかし……』
「ああもう、うるさいな。お前は黙って私の言うことを聞いていればいいんだ。……それに、サンプルが欲しいのだろう? 廊下での会話が聞こえないと思っていたら大間違いだ」
『…………わかりました。すぐに、向かいます』
「ああ、頼むぞ」
ぞんざいにそう言うと、彼女はコールを切った。
「……さあ、帰れ」
「嫌だ」
「帰れ」
「嫌だ」
僕は引き下がらない。これじゃあまるで振られたみたいじゃないか。
「いいから、帰れ。私は『今日は』疲れたのだ。明日からまた、楽しもう」
「……」
「……な、頼むよ」
彼女はゆっくりと、それこそ震えてるみたいにゆっくりと僕に手を伸ばし、僕の頬を触った。
「……な?」
ドクターに対する態度と、僕に対する態度。天と地ほども違って、よほど僕が愛されているのだと実感できる。
「……わかった」
「ありがとう」
彼女は微笑むと、すぐに伸ばした手をひっこめた。
「何をしているの?」
「うん? かくに……いや、なんでも、なんでもないんだ。気にしないでくれ」
「そう?」
「ああ。そうだ。なんでもない。なんでもないから、早く帰ってくれ」
「……わかった」
僕はいぶかしげながらも彼女に別れを告げ、自分の部屋……なんでもそろってるけど、牢獄のような部屋に戻った。
「手術室の準備はできてる!? 急いで!」
帰る途中、あわただしく彼女の部屋に向かうドクターとすれ違った。
次の日、僕は約束通りに、彼女の部屋に来た。
「やあ、起きてる?」
僕は昨日のことはできるだけ忘れて、つとめて明るくあいさつした。
「……ああ、起きてるよ」
少し、違和感。彼女は首をこちらに向けるだけで、体を起こそうとしなかった。タオルケットも首までかけている。
「手術、どうだった?」
「大成功。醜い塊は、今頃ホルマリン瓶の中だろうよ」
彼女は微笑んで言った。昨日みたいな暗さは感じられないんだけど……。それでも、どこかに違和感。
「さあ、今日もデートをしよう。今日は、そうだな、……『生について』だ」
彼女らしからぬ話題の振り方に、僕はまた疑問を持った。どうしたんだろう、彼女。今日はちっともらしくない……。
「いいよ。まずは君の意見から聞かせてよ」
「ふふふ、首をかしげながらも、ちゃんと話は聞いてくれるのだな……。やはり、キミは最高だ」
「話して」
「……せっかちだな」
彼女は苦笑して、すぐに議題について語り始めた。
「私にとって、生きることとは動くことだ」
「……」
「自分で動いて物を食べる。自分で動いて目的地に行く。自分で動いて彼氏と付き合う。……全ては、自分で動かなければ始まらない」
「そうだね」
「……ならば、私はもう死んでしまったのかもしれない」
「……え?」
急な話の切り替えに、僕は戸惑う。
「……タオルを、どけてくれるか。……ただし、覚悟をして」
「覚悟……?」
僕は、さらに戸惑う。
「キミは、キミの彼女が『死んで』いても、愛する覚悟はあるか?」
「あるよ」
僕は即答する。即答することで、僕は覚悟を決める。もう言ったんだ。後には引けない。
「……なら、タオルをどけてくれ」
「……わかった」
僕は意を決して、彼女にかけられたタオルケットをどけた。
「……!! ……そんな……」
僕の視界が涙で歪んだ。彼女の顔が、まともに見れない。覚悟、していたはずなのに
「何を泣く。キミの両足がなくなったわけでも、両腕を失ったわけでもない。……それなのに、何故、泣く」
「言えるわけ……ないよ……!」
彼女の両足は、なくなっていた。両腕も、すでになかった。つまり、昨日のうちに病状が悪化して、両腕が崩れてしまったということ。……ということは、次は、次は……。
「そうか、キミは私が死ぬかもしれないと考えているわけだ。そして、私がいなくなってしまうことを思って、泣いている。……ふふふ、うれしいよ」
「どうして……!」
どうして、君は笑っていられるの? こんなにも、こんなにも苦しい想いをしているのに!
「やはり、君は最高だ。生涯で逢った唯一の彼氏。私はキミに想い抱いて朽ちていく。……ふふふ、今のは呪縛だぞ? わかっているか? キミは今、私が一生キミを想い続けたということを知らされたのだ。……ふふふ、忘れられるかな?」
彼女はうれしそうだった。僕に一生忘れられない楔を打ち込めたからだろうか。そして、彼女は同時に、悲しそうに笑っていた。一生が短いことを嘆いているのか。それとも……僕と別れるのが、悲しいのか。
「忘れるつもりなんて毛頭ない!」
僕は悲しくなって叫んだ。どうして、君はそんなこと言うの? 僕が君を失ったあと、すぐに誰かと恋をするとでも、思ったの?
「僕の想いも、君と一緒だ!」
「……一生、というわけか?」
「そうだ!」
「…………。そうか。………………ならば、共に逝こう」
「え?」
彼女は変わらない笑顔で、僕に囁いた。
「私はいずれ死ぬ。私が死んだと君が知った時、自刃してはくれないか? 一緒に逝こう。共に旅立ち、あの世で永久の幸せを築くのだ」
「……っ、あ……」
とても、魅力的な提案だった。もう、僕はこの病院から出られない。ここで一生を終える。……それなら、別に彼女と人生を共にしても、いいんじゃないだろうか?
「……じょ、冗談だ、全く。キミも、すぐに心中の誘いに乗るんじゃない」
彼女は怒った表情を作って僕を咎めた。
「ご、ごめん」
「……別に、謝る必要はない。うれしかったしな。これから言うのが、本当の頼みだ」
「……え?」
まだ、まだ何かあるの?
「watashi wo koroshitekure」
……え?
「どうした? 返事は?」
「……ご、ごめん、もう一度言って?」
「……ふむ、仕方ないな。あまりこういうことは言いたくないのだが……」
僕は、信じられなかった。信じられない思いのまま、彼女の言葉を聞いた。
「tanomuyo,watashi wo koroshitekurenaika?」
……そんな。嘘だ。嘘だ。
「……そんなこと、僕には……!」
「……もう、私は自殺ができないのだ。舌を噛むのは、ひどく苦しいと聞いたからな。苦しいのは、嫌だ」
「……僕が、苦しめて殺すとは、思わないの……?」
そう言うと彼女は、少し困った表情になってから、言った。
「キミはサドだったのか? それは困った。私程度では、おそらく一時間も持つまい。たいして愉しませてやれそうにないな」
まるで、僕さえよければ自分のことはどうでもいい、みたいな言い方だった。いや、この言い方ではまるで、僕のためならば、どんなことでもすると言っているような……。
「それとも君は……。私に恐怖を抱かせるために、嘘をついたのか?」
「……」
僕はうなずく以外にできなかった。このままだと、僕は彼女にナイフを握れと命じられかねない。彼女を殺す? 冗談じゃない!
「そうか。しかし、今の私にキミを失うこと……つまり、キミに嫌われること以上の苦しみ、悲しみ、痛みなど存在しないのだ。キミが嫌だと言うのなら、我慢する。人の形を保って死にたかったが、もう諦めることにするよ」
彼女は肩をすくめたようなしぐさを見せた。……腕はおろか肩もほとんどなくなっちゃってるから、それぐらいしかわからない。きっと、腕も崩れてしまったんだろう。今にして思えば、昨日彼女が手を僕に触れさせるのをためらった理由。それは、崩れるんじゃないか、という恐怖だったんだ。……正確に言うなら、僕の目の前で体が崩れて、僕に嫌われるかもしれない、という恐怖。
「……君さ」
「なんだ?」
「君は、僕が君の扱いを心得てる、とか巧い、とか言うけど……。君も、僕の扱いをよく心得ているよ」
彼女は僕と違って、にこりと笑ってこう言った。
「もちろん。キミは、私の物なのだからな」
「……そう」
僕は彼女に優しく微笑むと、見舞客が置いていった物だろう果物籠から、果物ナイフを取り出した。
「おや、やってくれるのか?」
「……うん」
君が、僕に嫌われるのが最大の恐怖であるように、僕も、君に嫌われるのが最大の恐怖なんだ。……だから、君の望みは叶えてあげる。人の形を保ったまま死ぬ。その願い、僕が。
「さよなら、すぐ逝くから、待っててね」
「ああ。神と禅問答でもして待っている」
「喧嘩も売らないとね」
僕はナイフを振り上げて、彼女に微笑む。
「なぜだ?」
「決まってるよ。よくも、こんな病気を作ったな、ってね」
「そうだったな。忘れていた。……地獄に落とされるかもな」
「構わないよ。君をめちゃくちゃにした奴に、一糸報いれるなら」
中々振り下ろせずにいると、彼女がやわらかい笑みを作った。僕に殺されることが、心底救いであるかのような……そんな笑みだった。
「……キミは優しいな」
「君を殺そうとしている僕が?」
「違う。キミは私を救おうとしているのだ。私は、肉塊になって死にたくない。人の形を保ったまま死にたい。そして、できることならば、キミの手で。そして、最高なのは、キミが後についてきてくれることだ」
「……全部、叶えてあげる」
「ほら、やっぱりキミは優しい」
「……君も、優しくてかわいくて、最高の彼女だよ」
「ありがとう。君も、最高の彼氏だ」
僕も、彼女も深く微笑んで。
僕は、手を振り下ろした。
初めて触れた彼女の身体は、ちゃんと、人間の体だった。