第9話 庭でレア薬草を育てる子犬(神獣)
その朝、ニーナは薬局の奥にある大きな薬棚の前で、腕を組んでうんうんと唸っていた。
「……足りない。どう考えても足りないわね」
使い込まれた調合ノートを片手に、天井まで届く棚の上段から下段、作業台の引き出しの奥、果ては裏口にある乾燥室の麻袋の中まで徹底的にひっくり返して確認したが、結果は変わらなかった。
足りないものは、足りないのだ。
ここ数日、ニーナの薬局は予想を遥かに超えて大繁盛していた。
黒狼騎士団の面々が「女神の薬局」と呼んでこぞって通い始めたことで、定番の回復ポーションや、冷えからくる関節の痛み止め、過酷な訓練による疲労回復薬の在庫は、文字通り飛ぶように売れて目に見えて減っている。
彼らが大量に買っていくおかげで、ニーナの薄っぺらかった貯金袋はズッシリと重くなり、生活は完全に安定した。もちろんそれは嬉しい悲鳴なのだが、材料の消費スピードが当初の見込みを完全に超えていた。
「冬眠花のつぼみ、霜樹の樹液、雪白苔……この辺りの初級~中級素材は、この前森で採ってきた分でまだ何とかなる。でも、『氷雪華』がもうほとんど底をつきかけてる……」
ニーナは、棚の片隅にあった最後の小さなガラス瓶を朝の光に透かして、深いため息をついた。
瓶の中には、青白い霜をまとったような美しい花弁が、ほんの数枚だけ残っている。
氷雪華。
極寒の魔境にのみ自生する、非常に希少な高位の薬草だ。淡く発光する青白い花弁を持ち、強烈な冷えによる神経痛や重度の凍傷の後遺症、さらには魔力枯渇による回路の乱れを一瞬で整えるという、極めて強力な効果を持つ。怪我が絶えないこの辺境の土地では、文字通り命綱として特に需要が高い。
さらに、ニーナが独自に開発した「魔力毒を抜いて甘くする工程」において、この氷雪華の澄んだ魔力を触媒として組み合わせると、ポーションの口当たりが信じられないほどまろやかになるのだ。そのため、最近のニーナの調合には欠かせない万能素材となっていた。
ただし、致命的な欠点がある。採取が極端に難しいのだ。
真冬の猛吹雪の中でも咲くが、大地の魔力脈が安定した「特定の極寒の聖域」にしか生えず、群生地も極端に限られる。深く険しい森の最深部まで行けば見つかるかもしれないが、大雪に閉ざされ、狂暴な魔獣がうろつくこの時期に、ニーナが一人で採りに行くのは自殺行為に近い。
「うーん……困ったな」
ニーナは腕を組み、作業台の前で考え込んだ。
少量なら、他の水属性の薬草で代用してなんとかごまかせる。
でも、絶対に品質は落ちる。魔力毒を完全に中和しきれず、少しだけ苦味が残るかもしれない。
命懸けで辺境を護ってくれている黒狼騎士団の皆には、できれば妥協せず、今のままの最高の薬を出したいのだ。
痛くなくて、飲みやすくて、一瞬で笑顔になれる、本当に効く甘い薬を。
「あともう少し、両手いっぱい分くらいでいいから、新鮮な氷雪華があればなぁ……」
ぽろりと漏らしたその言葉は、誰に聞かせるでもない、ただの独り言のつもりだった。
だが。
「きゅう!!」
足元から、やけに元気のいい、自信に満ちた返事が返ってきた。
見下ろすと、真っ白なもふもふの子犬――シロが、ぴんと耳を立ててこちらを見上げていた。ふわふわの短い尻尾が、プロペラのようにぶんぶんと千切れそうなほど揺れている。
その銀色の瞳は、まるで「ママの頼みなら、俺に任せろ!」とでも言いたげな、妙に頼もしい顔つきだった。
「ふふ、シロはやけにやる気満々ね。お手伝いしてくれるの?」
「きゅんっ!」
「ありがとう。でもね、レア薬草は『ここ掘れワンワン』で地面から勝手に生えてきたりしないのよ」
そう言ってしゃがみ込み、シロの桜色の鼻先をツンと撫でてやると、シロは一瞬だけ「えへへ」とうっとりした顔になった。
だが、次の瞬間、なぜかキリッと真面目な顔(戦士の顔)に戻り、くるりと向きを変えて裏口の方へトタタタッと走り出した。
「えっ、シロ? どこ行くの?」
ぱたぱたと短い足で駆け、自分の背丈より高い裏口の扉を、器用にドンッと前足で押す。
ニーナが慌てて追いかけて扉を開けると、シロは待ってましたとばかりに、一面雪に覆われた裏庭へと飛び出していった。
薬局の裏庭は、ニーナが簡単な柵を立てて手入れしている、こぢんまりとした空き地だ。
春になったら土を耕して家庭菜園や簡単な薬草を植えようと思っていた場所だが、今は数十センチの厚い雪に覆われ、完全な白銀の平地になっている。
その雪原のど真ん中まで走っていったシロは、くるりと振り返ってニーナを見た。
そして。
右の前足を高く上げ、雪面に向かって、ぽんっ、と軽く叩きつけた。
「……え?」
その瞬間だった。
ゴォォォォォォッッ!!!
庭の空気が、爆発したように激変した。
空から雪が舞い落ちるのではない。突然、裏庭の空間そのものが、局地的な猛吹雪に呑み込まれたのだ。
風など全く吹いていないはずなのに、凄まじい密度の『青白い魔力の粒子』が竜巻のように渦を巻き、ダイヤモンドダストとなってきらきらとシロの周囲を激しく巡る。
シロの足元を中心に、雪面がプラズマのように青白く発光し、巨大で複雑な『氷の魔法陣』の紋様が一気に放射状に広がっていく。
「な、なにこれ……!? 魔力暴走!?」
ニーナが圧倒的な魔力の奔流に目を丸くし、風圧を手で防いでいる間にも、発光する雪面のあちこちから、ポコッ、ポコポコッ! と、淡い緑色の小さな芽が顔を出した。
その芽は、常識を無視した異常なスピードでみるみる伸び、分厚い葉を広げ、氷のように硬い蕾をつける。
次の瞬間、魔法陣の光が弾けると共に、それらが一斉にパッと開花した。
「うそ……」
ニーナは、息を呑んで立ち尽くした。
猛吹雪が晴れた後の、小さな裏庭。
そこには、一面に、幻想的な青白い花が風に揺れていた。
薄氷を丁寧に削って作ったみたいに、透き通った六角形の花弁。
中心には淡く神秘的な銀の光を宿し、指で触れれば溶けて消えてしまいそうなほど繊細な輪郭。
間違いない。
「氷雪華……!」
しかも、薬草辞典に載っているような「数本見つかれば御の字」というレベルではない。
小さな裏庭の端から端まで、数百本は下らないであろう氷雪華が、足の踏み場もないほど密集して群生し、満開に咲き誇っているのだ。
王都の強欲な薬草商が見たら、泡を吹いて卒倒する量だ。
いや、辺境ルーンフェルドのベテラン薬師でも、この光景を見れば自分の目を疑って眼球をこすりまくるだろう。
採取困難な超レア薬草が、今、ニーナの家の裏庭で、雑草のような密度で大豊作になっているのだから。
「シロ……あなた、一体何をしたの……?」
震える声で尋ねると、張本人である白い毛玉は、氷雪華のど真ん中の雪の上で、フンスッ! と得意げにふんぞり返って胸を張っていた。
艶やかな純白の毛並みが周囲の雪と花に溶け合い、まるで『冬という季節そのもの』が、小さな子犬の形を取ってそこに顕現しているかのようだった。
「きゅう!!(俺に不可能はない! 褒めろ!)」
「きゅう、じゃないのよ!」
思わず鋭く突っ込んだものの、目の前の光景がファンタジーすぎて、ニーナの優秀な錬金術師としての頭脳が完全に追いつかない。
魔法?
いや、それにしたって規模がおかしすぎる。
植物の成長を促す園芸魔法や、土壌を改良する生活魔法の範囲では到底ない。植物の種すら無い雪原から、魔力だけでレア薬草を強制的に錬成・顕現させるなど、神の御業だ。
ここまで底なしの濃密な魔力を、こんな生後数ヶ月にしか見えない幼い子犬が?
しかも、ニーナが「氷雪華がほしいなぁ」と何気なく呟いた、その直後に?
「……ええと、もしかして、シロって……普通の子犬じゃない……?」
「きゅうぅーん!」
今さらすぎる、百周くらい遅れた問いだったが、シロはなぜか「やっと俺の凄さに気づいたか」と誇らしげに鳴いた。
これを肯定と受け取っていいのだろうか。
いや、よくない気がする。普通じゃないなら何なのだ。
ニーナがパニックになりかけておろおろしていると、裏口の向こうから、心底呆れ果てたような声が聞こえた。
「だから、“普通の子犬じゃない”どころの話じゃないって、何度も言おうとしたんだがな」
「え? レオンさん?」
振り返ると、そこにはちょうど薬局を訪ねてきたらしい狐獣人のレオンが立っていた。
狐耳をピクピクさせながら、満開の氷雪華で埋め尽くされた庭を見渡し、その金色の目を限界まで半眼にしている。どうやら、店に入ってきた直後から、一部始終を見ていたらしい。
「……あーあ。やっぱり、こういうデカいことやらかしてバレたか」
「やっぱりって、何ですかこれ!? 私の庭に、氷雪華が、いっぱい……!」
「ああ、見れば分かる。最高品質の氷雪華が三百本ってとこか。市場に出せば城が建つな」
「そうじゃなくて! シロが、ポンッて前足鳴らしたら、吹雪が起きて、ブワァーッて!」
ニーナが身振り手振りでパニック気味に詰め寄ると、レオンは「はいはい」と肩をすくめ、とんでもないことをさらりと言ってのけた。
「そいつ、伝説の神獣『フェンリル』だよ」
「……はい?」
「だから、おとぎ話に出てくる氷の神獣、フェンリル。怒らせたらブリザードで国一つを永遠の冬に沈めて滅ぼせるって言われてる、あの超危険生物」
「…………はい?」
意味が分からない。
いや、一語一語の単語は分かる。
フェンリル。神獣。伝説。国一つ滅ぼせる。超危険生物。
その物騒な単語を並べた時点で、どう考えても、毎晩ニーナのベッドの足元で「きゅう」と鳴いて丸くなっている、あの小さな白いもふもふの毛玉と一致しない。
だが、レオンはいつものようにおどけた冗談を言っている顔ではなかった。
むしろ「えっ、一緒に暮らしてて、マジで今まで気づいてなかったのか?」と言いたげな、純粋な驚きの表情でニーナとシロを交互に見ている。
「え、でも、だって……この子、真っ白でふわふわで、足も短くて、夜は私の足元で湯たんぽみたいに丸くなって寝てて……」
「うん。神獣も寝る時は丸くなるんじゃないか?」
「ご飯の時はお肉を欲しがって尻尾振るし、お腹いっぱいになると、仰向けになってへそ天で爆睡してて……」
「うん。……フェンリルのへそ天、ちょっと見てみたい気もするけど」
「誰か来るとちょっと嫉妬深くて唸るけど、撫でるとすぐ喉鳴らす、すっごく可愛い子犬で……」
「うん。……お嬢ちゃん、そのポンコツな認識のまま今日まで生きてこられたの、逆に奇跡というか、すごいな」
レオンが、本気で感心した(呆れた)みたいに言う。
ニーナは、庭の真ん中で「どうだ」と胸を張るシロと、自分の記憶の中のシロを、何度も何度も脳内で照らし合わせた。
森でトラバサミにかかって、痛みに震えていた小さな身体。
罠を外してやった時、弾丸のように胸に飛び込んできた温もり。
顎の下をくしゅくしゅと撫でると、一瞬でとろける顔。
お腹がいっぱいで、幸せそうに眠るスースーという寝息。
……うん。
やっぱり、どう考えてもただの『最高に可愛い子犬(家族)』である。
「でも、シロはシロですよ?」
きっぱりと、最終的な結論としてそう言うと、レオンがぽかんと口を開けた。
「……は?」
「フェンリルだとしても、神獣だとしても、この子は私の大事なシロです」
ニーナはそう言って、ズカズカと雪の庭へ降りると、得意げにしている白いもふもふを、ひょいっと無造作に抱き上げた。
シロは当然のようにニーナの腕の中にすっぽりと収まり、しっぽをぱたぱたと振って顔を舐めようとする。
どこからどう見ても、飼い主に甘えたがりのただの白い子犬――いや、神獣らしいが――にしか見えない。
「すごいわね、シロ! 氷雪華をこんなにいっぱい咲かせられるなんて!」
「きゅうぅ!」
「えらいえらい。私のピンチを救ってくれるなんて、天才ね」
冷たい額をこつんと合わせて思い切り褒めてやると、シロはうれしそうに「ゴロゴロ」と喉を鳴らした。
その顔があまりに得意満面で可愛らしくて、ニーナは思わずぎゅぅぅっと強く抱きしめ、もふもふの毛並みに頬ずりをした。
一方、レオンは本気で自分の目を疑うような顔をして、頭を抱えていた。
「いや、ちょっと待て。おかしいだろ。今の衝撃の告白、普通ならもっとパニックになって大騒ぎするとこじゃないのか!? “国を滅ぼせる災害級の魔物が、昨日まで私のベッドで寝てました!”だぞ!?」
「でも、私にとっては森で助けた大事な家族ですし。それに、こんなにふわふわで温かいんですよ?」
「肝が据わりすぎだろ……王都でどんな修羅場くぐってきたんだよ、あんた……」
狐耳がぺたりと寝て、レオンは深くため息をついた。
どうやらレオンとしては、もっとこう、ニーナが青ざめて「ひぃっ!」と腰を抜かしたり、シロを怖がって突き放したりする、ドラマチックな反応を予想(心配)していたらしい。
けれどニーナには、どうしてもシロを恐ろしい魔物だとは思えなかった。
たしかに、今目の前で起きたことは、常識の範疇を完全に超えている。
冬の庭いっぱいにレア薬草を一瞬で生やすなんて、普通の魔獣でも、宮廷の筆頭魔法使いでも絶対に不可能な神業だ。シロがとんでもない存在だということは、もう否定しようがない事実だ。
でも。
「シロが、私を傷つけるわけありません。絶対に」
ぽつりと、確信を持ってそう言うと、シロはニーナの腕の中で、ぴたりと動きを止めた。
それから、銀色の瞳を少しだけ潤ませて、そっとニーナの胸元に顔を深くうずめる。
いつもみたいな「俺の場所だ」というマウントをとるような甘え方ではなく、どこか『受け入れてもらえたこと』に照れているような、安堵したような仕草に見えた。
「きゅぅ……ん」
「ふふ。そうでしょう? あなたは私の可愛いシロだもの」
その、完全に種族の壁を越えた親子の絆のようなやり取りを見たレオンが、しばらく無言になったあと、呆れを通り越して盛大なため息をついた。
「……なるほどなぁ」
「何がですか?」
「そりゃ、誇り高き伝説の神獣も、骨抜きにされてただの犬っころになるわけだ。あんたのその無自覚な包容力、一種の洗脳魔法だろ」
「洗脳魔法!?」
意味が分からず抗議の声を上げると、レオンは苦笑して手をひらひらと振った。
「こっちの話。まあ、よかったよ。あんたが神獣だろうが何だろうが変に怖がって騒がないなら、シロにとっても、俺たちにとってもそれが一番平和だ」
「騒ぐも何も、シロはシロですから。家族を怖がる人なんていません」
「うん、その台詞を、殺気を放つフェンリル本人の前で平然と言えるのが、あんたの一番恐ろしいところだよ」
言われても、ニーナには全くピンとこない。
こうして抱っこしていると、シロはふわふわで、極上の湯たんぽみたいに温かくて、どうしても“すごく可愛い良い子”という感想が先に来てしまうのだから。
その時、表の方から扉の鈴が、重々しくカランと鳴った。
続いて、薬局の中まで響き渡る、聞き慣れた低い声。
「ニーナ。いるか」
「あ、ガルシア様?」
その声を聞いた瞬間、レオンがニヤッと極悪な笑みを浮かべた。
「おっ、ちょうどいいところに本命の旦那が来たな」
「旦那!? ちょうどいいって何がですか!」
「いやあ、団長の反応が楽しみだなって思って」
不穏なことを言いながら、レオンは先にスタスタと店内へ戻っていく。
ニーナもシロを抱いたまま、不思議に思いつつ裏口から室内に入ると、そこにはいつものように黒い外套姿の巨大なガルシアが立っていた。
彼はニーナの無事な顔を見て、いつものように険しい表情をわずかにやわらげ――その直後、ニーナの背後の開け放たれた裏口から見える『庭の光景』を見て、完全に石化した。
「……何だ、あれは」
灰銀の瞳が、限界まで細められる。
無理もない。
彼が昨日見た時までは、ただの雪しか積もっていなかった裏庭が、今では国宝級の青白い『氷雪華の満開の花畑』に成り果てているのだから。
「ええと、実はですね、シロがポンッてしたら――」
「シロが魔法で一瞬で咲かせたんだよ」
レオンが、ニーナの言葉を遮って先回りして答えた。
「ついでに、そいつが伝説のフェンリルだって話も、たった今ニーナに全部バラしたところだ」
ピシリッ、と。
薬局内の空気が、凍りつくように張り詰めた。
ガルシアの鋭い視線が、ゆっくりと、ニーナの腕の中のシロへ向いた。
シロも負けじと、銀色の瞳で真っ向からガルシアを睨み返す。
ニーナの腕の中にすっぽりと収まったままなのに、なぜか「どうだ、俺の力を見たか」とでも言わんばかりに、妙に偉そうな態度だ。
「……やはり、そうか」
数十秒の睨み合いの後、ガルシアは深く息を吐き、低く呟いた。
「ただの魔力の高い犬ではないと思っていた。神代の化け物だったか」
「だから、最初から俺は犬じゃないって言ってるだろ」
レオンが肩をすくめる。
だが、ガルシアはその言葉を無視したまま、大股でニーナに歩み寄り、彼女の肩を大きな両手でガシッと掴んで問いただした。
「ニーナ。……怖くはないのか」
「え?」
「そいつは神獣だ。機嫌を損ねて力を誤れば、このルーンフェルドの街ひとつなど、容易く氷漬けにして消し飛ぶ存在だぞ。お前のような細い人間など、一瞬で食い殺される」
大真面目な、切実な声音だった。
純粋にニーナの身の安全を案じて、心底心配しているのだと分かる。
けれどニーナは、ガルシアの目を真っ直ぐに見つめ返し、全く迷うことなく首を横に振った。
「怖くありません」
そう力強く答えると、ガルシアの灰銀の瞳が、驚きに少しだけ揺れた。
「この子は、私が怪我をした時、一番に守ってくれる優しい子です。寂しい夜は足元で寄り添って温めてくれるし、私が忙しい時は文句も言わずに待っててくれるし……私が『氷雪華が足りなくて困ったな』って言ったら、こんなふうに、私のために一生懸命に咲かせてくれるんです」
ニーナは、ガルシアの手の下で、シロの真っ白な頭を慈しむように撫でながら、ふっと柔らかく笑う。
「ちょっと、スケールが大きすぎてびっくりしましたけど。でも、力があるから怖いなんて思いません。やっぱりシロは、私の可愛い家族ですよ」
「きゅう!!(その通りだ! お前とは絆の深さが違うんだよ!)」
完全にガルシアを見下した、得意げな鳴き声。
レオンが「ぶっ!」と噴き出し、ガルシアは「……ッ」と頭痛を堪えるように額を押さえた。
「……お前という女は、本当に、俺の想像を軽く超えてくるな……」
「え? なんですか?」
「いや、何でもない。お前がそれでいいなら、俺が口出しすることではない」
『何でもなくはなさそう』な顔で深くため息をついたが、それ以上は言わないらしい。
ニーナの真っ直ぐな言葉に、ガルシアも「この女を神獣の脅威から引き離すのは無理だ」と悟ったのだろう。
その代わり、ガルシアは裏庭の莫大な価値を持つ氷雪華の花畑を一瞥してから、領主としての顔に戻り、きっぱりと言った。
「氷雪華の採取と、適切な温度での保管なら、騎士団の兵を出して手伝わせる。これだけの規格外の量、ニーナ一人では絶対に数日で処理しきれずに枯らす」
「えっ、いいんですか? そんな、騎士団の皆さんを私の私用に使うなんて……」
「当然だ。氷雪華は貴重すぎる。こんな無防備な庭に放置していれば、魔獣を呼び寄せるか、王都の欲深い商人に嗅ぎつけられて盗まれるか、どちらかだ。お前の安全のためにも、俺が管理に介入する」
なるほど、それはたしかにそうだ。
これだけの超レア薬草が庭に群生していると知られたら、間違いなく大騒ぎになるし、強盗に入られる危険もある。ニーナはようやく少しだけ現実味を取り戻して、うんうんと頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えます。本当に助かります」
「俺も手伝うよ」
レオンが狐耳を揺らしてニカッと笑う。
「ついでに、“神獣が薬草畑を一瞬で作りました”なんてとんでもない噂が街に広がらないよう、団員たちには徹底的に口止めもしとく。まあ、“女神の奇跡”で押し通せるだろうけどな」
「そんな噂、絶対に広がったらだめですよ!? ただでさえ女神扱いされて困ってるのに……」
「遅かれ早かれ、団員の何人かはあの異常な回復力で薄々察しそうだけどな」
それは少し、いや、かなり困る。
けれど、ニーナの腕の中で、大仕事を終えたシロが満足そうにスースーと寝息を立てて丸くなっていくのを見ていると、危機感よりも愛しさが勝ってしまうのだから仕方ない。
「シロ、いっぱい頑張ってくれて、ありがとうね」
白い耳元でそっと囁くと、シロは眠りながらも甘えるように、ニーナの頬へ冷たい鼻先をすりすりと擦り寄せた。
その神獣と少女の平和すぎる様子を見ながら、レオンがぼそっと呆れたように呟く。
「……伝説の神獣フェンリルに向かって、犬扱いして“ありがとうね”って言える人間、この世界に何人いるんだろうな……」
「少なくとも、たった一人はいるだろう」
ガルシアが、ニーナから目を離さずに低く、甘く返す。
「俺の目の前に、な」
ニーナは、ガルシアのその言葉の奥にある熱い意味を深く考える前に、恥ずかしさをごまかすように、庭いっぱいの氷雪華へ視線を向けた。
きらきらとダイヤモンドダストを反射して光る、青白い花々。
厳しい雪の国に咲いた、小さな奇跡。
そして、その奇跡を「ママのためなら」と当然の顔で起こしてしまった、白いもふもふ。
王都を追放されて辿り着いた、辺境での暮らしは。
思っていた以上に穏やかで、思っていた以上に賑やかで、そしてどうしようもなく、温かい不思議と愛に満ちていた。
ニーナはまだ知らない。
彼女の生み出す「特級エリクサー」と、この「神獣の力」が、やがて王都の人間たちの耳に入り、大きな対立と波乱にまで繋がっていくことを。
けれど今はただ、腕の中の温もりと、隣に立ってくれる彼らの存在が愛おしい。
「よしっ! 今夜はシロのご褒美に、ガルシア様からいただいたあの高級なお肉、いつもより分厚く切って焼きましょうか!」
「きゅう!!」
その言葉に、寝ていたはずのシロの目がカッと輝いた。
「現金……じゃなくて、現金じゃないけど、食欲に忠実で分かりやすいなぁ」
レオンが腹を抱えて笑い、
「……俺も、ここで食う。俺の持ってきた肉だしな」
と、ガルシアが有無を言わせぬ真顔で言った。
「ふふっ、もちろんです! ガルシア様とレオンさんも、普通にご招待しますよ!」
ニーナが満面の笑みでそう返すと、ガルシアの険しい灰銀の瞳が、これ以上ないほど優しく、微かにやわらいだ。
冬の透き通るような陽射しの中、薬局の裏庭には無数の氷雪華が揺れている。
その光景は、これから訪れる波乱をまだ何も知らないまま、ただひたすらに、宝石のように美しかった。




