第8話 俺の番(つがい)と、生意気な白い毛玉
ガルシア・ヴァルグリムは、生まれてこの方三十年、己の『感情』という不確かなものを、これっぽっちも信用していなかった。
怒りは、剣の軌道を単調にする。
過剰な殺気は、狡猾な魔獣に対して隙を生む。
焦りは、自分の背中を預ける部下たちを無駄に死なせる。
だからこそ、戦場に立つ者に必要なのは、常に氷のように冷徹であることだ。
王国最北端、常に死と隣り合わせの極寒の防衛線で、凶悪な魔獣の群れを相手取る『黒狼騎士団』の総団長として、感情は真っ先に切り捨てるべき余計な臓器に等しかった。
実際、それで今まで困ったことは一度もない。
敵を屠る時に、一瞬の躊躇も要らない。
荒くれ者の部下たちを率いる時に、迷いや同情は指揮の邪魔だ。
王都の貴族たちとの腐りきった社交や腹の探り合いも、強者の威圧感と必要最低限の氷の仮面だけを作っていれば、誰もガルシアに口出しなどできなかった。
女に全く興味がなかったわけではない。獣人としての本能は人並みにある。
だが、絶え間ない戦いと領地経営の中で、特定の誰かに心を割き、弱みを作る余裕も価値も、これまで一切見いだせなかった。
――そんな、血も涙もない【狂犬】と恐れられてきた男が。
「……今日も行くのか、団長」
黒狼騎士団の隊舎。執務室の分厚い扉に寄りかかった副団長レオンの、心底呆れ果てたような声に、ガルシアは無言で分厚い漆黒の外套の留め具を直した。
「返事くらいしてくれよ。隊舎の連中、もうとっくに気づいてるぞ。“団長、最近やたらと身だしなみを気にして、南区の薬局へ通い詰めてる”って。今日の午後の訓練、どうすんだよ」
「……南区の治安維持と見回りだ」
「毎日?」
「辺境の治安確認は、領主として極めて重要な責務だ」
「一介の薬局の中まで、しかも数時間も入り浸って確認する必要あるか?」
そこでガルシアは、書類の束から顔を上げ、ゆっくりとレオンを睨みつけた。
歴戦の騎士ですら震え上がる灰銀の瞳に射抜かれたところで、幼馴染みでもあるレオンはもう慣れたものだ。狐耳をぴくりとも動かさず、むしろ面白がるようにニヤニヤしている。
「はいはい、分かった分かった。熱心な見回りな。ついでに、自分のポケットマネーから王都の商会に発注した高級肉やら、エルフの森の珍しい果物やらを、毎日大量に貢いでいくのも『領主の業務の一環』ってことでいいんだな?」
「……黙れ」
「図星か」
「レオン。その舌を引き抜くぞ」
低く、地鳴りのように唸りながら言い捨てても、レオンは肩を揺らして笑うだけだった。
忌々しいことに、こいつは鋭い。そして、正しい。
ガルシア自身、ここ数日の自分の行動が、冷静な騎士団長のそれとはかけ離れた、全くまともではない状態だという自覚はあった。
あの雷の変異種から受けた致命傷が癒えて、最初に頭に浮かんだのは、次の討伐作戦の立案でも、部下の再配置でもなかった。
ただ、あの小さな、ひどく温かい薬局のことだけだった。
赤々と燃える暖炉の火。
清潔な薬草と、甘い果実の匂い。
そして――死の淵にあった自分を、決して諦めることなく必死に覗き込んでいた、透き通るようなアメジストの瞳。
あの嵐の夜。
本気で「死ぬかもしれない」と思ったのは、十代の初陣以来、久しぶりのことだった。
変異種が死に際に放った雷の一撃は、ガルシアの強靭な肉体を容易く裂き、深く入っていた。敵を両断した感触はあったが、同時にこちらの内臓まで抉られ、猛毒が全身を駆け巡るのが分かった。
大量の血が流れ、視界がぐらぐらと揺れ、雪と泥と魔獣の瘴気の匂いが混じる中で、意識が完全に途切れかけた。
そこからの記憶は、酷く曖昧だ。
レオンの背に担がれて揺れる感覚。必死に叫ぶ声。扉が乱暴に開く音。そして、凍てつく身体を包み込んだ、温かな光。
そこで、あり得ない匂いがしたのだ。
戦場の果て、死の淵で嗅ぐはずのない、柔らかくて、優しくて、どこかひどく懐かしいような『甘い匂い』。
極上の蜂蜜か、春の陽だまりで煮詰めた果実か。
そんな天国のようなものが、血と鉄と泥の臭いに塗れた自分の口元へ差し出されるなど、走馬灯が見せている夢でもなければ説明がつかない。
だが、奇跡のように痛みが引き、薄く重い瞼を開けた時。
最初に見えたのは、夢幻の天使などではなく、一人の小さな人間の娘――ニーナだった。
血の気のない白い頬。必死に結ばれた小さな唇。長い睫毛の奥で揺れる、アメジストの瞳。
ガルシアという巨大な獣から無意識に漏れ出る死の気配と殺気に、本能で恐れているはずなのに。それでも彼女は絶対に逃げず、目を逸らさず、ガルシアの命をこの世に繋ぎ止めようと、震える手で薬瓶を握りしめていた。
その瞬間だった。
理性や論理などという薄っぺらいものではない。
ガルシアの魂の奥底に眠る、純粋な『狼としての獣の本能』が、強烈な雷に打たれたように告げたのだ。
――見つけた。
俺の、たった一人の『番』だ、と。
あまりにも、馬鹿げている。
ガルシアは獣人の中でも極めて血の濃い【狼】の一族だが、一目惚れだの、運命の番だのというロマンチックなものは、吟遊詩人が語るお伽話の中だけのファンタジーだと思っていた。
一部の獣人にはそういう直感があるのかもしれないが、冷徹な自分には一生無縁なものだと切り捨てていたのだ。
だが、あの時は違った。
あのアメジストの瞳を見た瞬間、彼女の優しい手に触れられた瞬間、胸の奥で、岩のように固かった何かが完全に決壊し、形を変えた。
この女を、俺が守る。
あの小さな手を、二度と王都の連中のように誰にも傷つけさせない。
あの甘い匂いを、泣き顔を、花がほころぶような笑い声を、他の誰でもない、俺が一番近くで独占したい。
それがどれほど唐突で、どれほど身勝手な獣の衝動であっても。
本能は一切の躊躇なく、ニーナを“俺のもの”だと定めてしまった。
……もちろん、そんな恐ろしい執着を、そのまま口に出して彼女にぶつけるほど、ガルシアも愚かではない。
目覚めた直後の自分は、ただの血まみれで不審な患者で、ニーナは命の恩人というだけの関係だった。
そのひ弱な人間の娘に向かって、血塗れの巨漢が「お前は今日から俺の番だ」などと吠えれば、恐怖で泣き叫ばれて終わる。下手をすれば、出入り禁止になって王都へ逃げ帰ってしまうかもしれない。
だからガルシアは、三十年の人生で培った理性を総動員した。
怖がらせない。
不用意に殺気や圧を出しすぎない。
いきなり距離を詰めて、逃げ場をなくさない。
まずは患者として、そして領主として、最大限の『礼』を尽くして警戒を解く。
……その結果が、「毎日、無表情で高級肉や果物を抱えて薬局へ通い詰める(餌付け)」という行動になったのだから、恋愛経験値ゼロの自分でも、我ながらどうかしているとは思う。
「で? 今日は何の口実で、何持ってくんだよ」
隊舎の倉庫前で、レオンが腕を組んだまま呆れ顔で尋ねる。
「……王都から取り寄せた、最高級の干し果実と、木の実の蜂蜜漬けだ」
「昨日、ワイバーンの肉だったよな」
「そうだ」
「一昨日はエルフの蜂蜜」
「そうだ。何か問題があるか」
「明日は?」
「……考えている。何か彼女の腹に溜まり、健康に良いものはないか」
レオンがとうとう、腹を抱えて吹き出した。
「はははっ! 団長、それ完全に『餌付け』じゃねえか! 野生の小動物を手懐けるやり方だぞ!」
「彼女の食事は、俺が管理する必要がある。大事なことだ」
「いや、そこは否定しないんだな!?」
否定する理由がない。
ニーナは細い。あまりにも細すぎるのだ。
王都でどれほど過酷な労働を強いられてきたのか知らないが、薬草袋を抱えて裏庭から戻ってきた時も、足元が少しふらついていた。仕事に没頭すると、自分の食事など平気で忘れてしまう性質なのも観察で分かった。
この極寒の地で、あんな無頓着な生活を一人で続ければ、いずれ確実に身体を壊す。
だから、俺が美味いものを食わせる。
俺の権力と財力で、世界中の美味いものを集めて、あの細い身体を健康にする。
それだけのことだ。
……まあ、それだけで済まない、ドロドロとした熱い独占欲が胸の内に渦巻いていることも、自覚しているが。
「まあ、いいけどさ」
ひとしきり笑った後、レオンは真面目な顔になって肩をすくめた。
「ただ、あんまり急ぎすぎるなよ。ニーナはああ見えて芯が強いけど、あんたみたいなバカでかい獣人の、ストレートすぎる重い感情には慣れてないんだからな」
「分かっている。慎重に進めているつもりだ」
「分かってるやつはな、昨日みたいに、真正面から“君の綺麗な手に傷がついたら、俺が耐えられない”なんて、劇の主人公みたいな台詞を真顔でぶっ放さないんだよ」
ガルシアは、ピタリと黙った。
昨日のストーブでの出来事を思い出し、わずかに眉間に皺が寄り、耳の先が熱くなるのを感じる。
火の粉が跳ねた瞬間、理性が働くよりも先に、獣の身体が勝手に動いていた。
あの白く細い指先に、赤い火傷の痕ひとつ残ることが耐え難くて、気づけば強引に彼女の手を取って庇っていた。そして、あまりにも近くで彼女の震える瞳を見つめてしまい……胸の奥で抑え込んでいた熱が、そのまま口から漏れ出てしまったのだ。
後悔はしていない。
だが、ニーナが耳まで真っ赤にして、茹でダコのように完全にフリーズしてしまった顔を思い出すと、少しだけ自分の余裕のなさに喉が詰まる。
怖がらせたかもしれない。引かれたかもしれない。
だが、あの時彼女は手を振り払わなかった。嫌がっているだけではなかった気もする。
……そう、自分の都合よく思いたいだけかもしれないが。
「で、結局どうなんだよ」
レオンが、狐の目を細めて悪い顔で覗き込んでくる。
「何がだ」
「『番』だろ?」
その一言で、その場の空気が一瞬にして張り詰めた。
ガルシアは無言で、鋭い灰銀の瞳でレオンを見た。
だが副団長は笑わなかった。からかい半分ではあっても、目だけは真剣に主君を案じている。
「嵐の夜、あんたが最初に目が覚めた時から、絶対におかしいと思ってた。ニーナの匂いを嗅いだ瞬間のあんたの顔、俺はずっと横で見てたんだぞ。あれはもう、『絶対に見つけた。誰にも渡さない』って確信してる、飢えた狼の顔だった」
「……そう見えたか」
「見える見える。腐れ縁で長い付き合いだからな」
レオンは狐耳をぴくりと揺らす。
「俺もたぶん、その線(番)だと思う。あんたほど分かりやすく執着してるのは、三十年生きてきて初めて見たしな」
自分が分かりやすいなど、冷徹な騎士団長としては不本意極まりない。
だが、隠す気もないので否定もしない。
「……彼女は、人間だ」
ガルシアは、自分に言い聞かせるように低く言った。
「しかも王都で、俺たちには想像もつかないような、ろくでもない扱いを受けてきたばかりだ。俺たちのような荒くれ者とは違う。今はようやく、あの店で自分の落ち着ける居場所を手に入れたところだろう」
「うん」
「そこへ、獣人の『番』だの何だのと、俺の重苦しい感情を一方的に押しつければ、彼女は必ず混乱して、逃げる」
「うん」
「だから、絶対に急がない。少しずつ、俺という存在に慣らしていく」
「急がないって言ってるやつが、毎日一番乗りで店に通い詰めてるんだよなあ」
「……レオン。午後の便所掃除を追加してほしいか?」
「はいはい、口チャックします」
ひらひらと手を振るレオンに、それ以上何を言っても無駄だと判断する。
こいつは全部わかった上で、俺の不器用な恋(?)を面白がって観察しているのだ。
ただ、ガルシアには今、一つだけ、どうしても見過ごせない、最高に気に入らないことがあった。
「……レオン。あの白い犬は何だ」
「シロのことか?」
「あれは、普通の犬じゃない」
きっぱりと言い切ると、レオンがスッと目を細めた。
「団長も、やっぱり気づいてたか」
「最初からだ」
当然だ。
極北の魔獣の頂点を知る自分が見逃すはずがない。
初めて薬局へ運び込まれた夜から、あの白い毛玉の存在感は明らかにおかしかった。
見た目はただの愛らしい子犬だ。だが、漂う魔力の質と気配が、根本から違う。小さな身体に似合わぬ、空間を歪めるほどの圧倒的な威圧感。獣としての『格』が、異様なまでに高いのだ。
何より、一番気に入らないのは。
あいつがいつも、当然のような顔をして『ニーナの膝の上』を独占していることだった。
調合中も、接客中も、食事中も、眠る時でさえあの足元だと聞く。
俺が近づけば、当然のようにニーナに抱き上げられ、当然のように顎を撫でられ、当然のようにあの柔らかい胸元へ顔を埋める。
そこは、本来。
――俺の(番の)場所だ。
そんな幼稚な考えが浮かぶたび、ガルシアは自分でも驚くほど、ドス黒い嫉妬で苛立っていた。
「団長、今、顔がすげぇ怖い。魔王みたいだぞ」
「元からだ」
「いや、今のはいつもと種類が違う。ただの白い犬っころに、完全に嫉妬してる大人の男の顔だぞ」
「違う」
「違わないって。いくらなんでも、毛玉相手に本気になるなよ。大人げない」
レオンが呆れたように笑う。
だが、ガルシアは本気も本気、大真面目だった。
本気になる。なるに決まっているだろうが。
あの白い毛玉は、どういうわけか、ニーナの『保護欲』と『母性』という最大の武器を、完璧に掌握しているのだ。あれが「きゅう」と一声甘えた声を出せば、彼女はすぐに抱き上げる。顎を撫でる。頬をゆるめる。名前を呼ぶ声まで、砂糖菓子のように甘くなる。
そんな不公平なチートを、俺が平然と見過ごしていられるほど、寛容な男であるはずがない。
「まあ、あいつもあいつで、団長のことを完全に『ママを奪う敵』認定してるっぽいしなあ」
レオンが面白そうに言う。
「ニーナが見えないところで、一回くらいやり合ってるんじゃないか?」
「……二回だ」
「二回も本気でやり合ってんのかよ!」
ガルシアは舌打ちをして、無言で歩き出した。
そのまま思い出すのは、一昨日の夕暮れのことだ。
ニーナが裏庭で、かまくらの雪を払っている間。シロが薬局の軒下で、一人で丸くなっていた。彼女の視界から完全に外れた瞬間、ガルシアは何気ない足取りを装って、そちらへ近づいた。
シロは眠っているように見えたが、ガルシアが三歩手前まで来た瞬間、パチリと片目を開けた。
銀の瞳。
それは、愛らしい子犬の目ではない。冷え切った、研ぎ澄まされた刃のような、捕食者の光だった。
「……お前」
ガルシアが、騎士団長としての覇気を込めて低く言う。
「正体を隠して人間に媚びて、何が目的だ。何者だ」
子犬が答えるはずもない。
だが、シロはゆっくりと立ち上がると、ふわふわの尻尾を揺らしながら、鼻で「フッ」と笑うように息を鳴らした。
明らかに、知能の高い魔物として、ガルシアを馬鹿にしていた。
「……グルルルッ」
「随分と、俺にだけ感じの悪い犬だな」
途端、周囲の空気が一変した。
目の前の小さな身体から、あり得ないほど冷たい、絶対零度の圧がドバッと漏れ出したのだ。
雪も風もないはずの軒下で、ガルシアの足元の地面が、ピキピキと音を立てて白く凍りついていく。子犬の姿のままなのに、その小さな輪郭の背後に、月を喰らうような『巨大な銀狼』の幻影が見えた気がした。
――神獣級。いや、伝説の『フェンリル』そのものか。
ガルシアの口元が、戦士としての高揚でつり上がる。
面白い。国を一つ滅ぼせるほどの化け物が、牙を隠して、あの無自覚な薬師の腕の中で「きゅう~」と甘えているのか。
「……だが、お前が何者であろうと関係ない。そこ(ニーナの隣)は、俺の場所だ」
つい、宣戦布告のような本音が出た。
するとシロは、心底見下したような、ゴミを見るような目をした。
そしてくるりと踵を返し、勝ち誇った態度で薬局の中へ小走りで戻っていった。数秒後には、何も知らないニーナの足元に飛びつき、「こいつにいじめられた~」とでも言うように甘え、抱き上げられていたのだから、神獣のくせにタチが悪いにもほどがある。
もう一度、力ずくで問いただそうとした時には、背後で一部始終を見ていたレオンが、肩を震わせて爆笑していた。
「ひーっ! 団長、最高権力者のくせに、犬のマウントに完全に負けてる!」
「……次あいつが吠えたら、毛皮にして絨毯にする」
「やめろ、ニーナに一生口きいてもらえなくなって泣くのはあんただろ」
それを言われると、ぐうの音も出ない。
実際、あの白い毛玉をどうこうするつもりはない。
ニーナが家族のように可愛がっている以上、傷ひとつつけられないことは、理性では理解している。
だが、本能は別だ。あいつが彼女の膝で喉を鳴らすたび、胸の奥の狼が「俺も撫でろ」と……いや、「俺の女に触るな」と唸るのだ。
薬局へ向かう雪道すがら、ガルシアは無意識のうちに歩幅を速めていた。
早く、会いたい。
顔が見たい。声が聞きたい。
その事実を認めるのはひどく癪だが、否定しても仕方がない。
薬局の扉を開け、暖炉の匂いと、彼女の甘い匂いが混じった空気を肺いっぱいに吸い込み、ニーナの無事な顔を見るまで、どうにも心が落ち着かないのだ。
やがて、南区の通りが見えてくる。
雪に覆われた石畳。煙突から立つ白煙。小さな店々。その一角に、見慣れた、世界で一番愛おしい煉瓦造りの薬局がある。
すりガラスの窓の向こうに、影が見えた。
ニーナだ。
彼女は、高い棚の前で背伸びをしながら、一生懸命に瓶を取ろうとしている。
そしてその足元では、案の定、あの憎き白い毛玉が、彼女を独占するように見上げていた。
ガルシアは扉の外で一瞬立ち止まり、深く、冷たい空気を息を吐く。
落ち着け、俺。
威圧するな。殺気を消せ。
まずは普通に、ジェントルマンのように挨拶をする。
先日のスープの礼を言う。
高級な干し果実を渡す。
それから、できれば少しでも長く、天気にでもかこつけて話す。
頭では完璧にシミュレーションできている。
だが、扉を開けた瞬間。
鈴の音に気づいたニーナが、ぱっと顔を上げてこちらを見た。
「あ、ガルシア様。いらっしゃいませ!」
花が咲くような笑顔と、その弾んだ嬉しそうな声音を聞いただけで。
胸の奥の獣が「俺の番だ!」と歓喜の咆哮を上げ、シミュレーションなど一瞬で吹き飛んでしまうのだから、どうしようもない。
同時に、足元のシロが、ガルシアの気配に気づいて露骨に嫌そうな顔をした。
「……グルルルルッ」
ガルシアも負けじと、灰銀の目を細め、獣の殺気を微量に乗せて睨み返す。
今日もまた、俺と神獣の、静かで大人げない縄張り争いが始まる。
ニーナに見えないところで。
レオンに「バカだなぁ」と呆れられながら。
それでも、少しずつ、少しずつ。
この温かな彼女の隣に、誰にも譲れない『俺の居場所』を作るために。
――たとえ最大のライバルが、生意気で魔力チートな白い毛玉だとしても。




