第7話 不器用公爵の餌付けと、副団長の呆れ顔
嵐の夜に瀕死のガルシアが薬局に担ぎ込まれ、そして黒狼騎士団の面々に「奇跡の甘い薬」の存在が知れ渡ってからというもの。
ニーナの辺境での日常は、当初思い描いていた『のんびり静かなスローライフ』とは真逆の、ますます騒がしくも活気に満ちたものになっていた。
黒狼騎士団の屈強な獣人騎士たちは、相変わらず「剣の素振りで肩が痛い」「雪道で転んで膝を擦りむいた」「最近なんだか胃の調子が」などと、些細な理由(の半分はただの口実)をつけては薬局へ日参してくる。
そして、ニーナが苦味ゼロの甘い薬を処方するたびに、「うおおお! 女神様!」「救国の天使!」「ニーナ先生に一生ついていきます!」と大げさすぎる歓声を上げては、彼女を赤面させ、慌てさせていた。
けれど、そんな賑やかな騎士たちよりも一番厄介――もとい、一番存在感が大きく、ニーナの心臓に悪い影響を与えているのは、やはり黒狼騎士団の総団長であり、この領地のトップである『狂犬公爵』ガルシア・ヴァルグリムその人だった。
なにしろ。
この最高権力者にして最強の獣人は、あの夜から毎日、本当に毎日、欠かさず薬局へやって来るのだ。
「……また来た」
カラン、と重々しく扉の鈴が鳴った瞬間、調剤台の前にいたニーナは、薬草をすり潰す手を止めて思わずそう呟いてしまった。
昼下がりの薬局。
分厚いガラス窓の外では、音もなく真っ白な雪が静かに降りしきり、温かい店内には、ニーナが煮出している薬湯の、柑橘とハーブのやわらかな香りが満ちている。
そんな穏やかで平和な空間に、漆黒の重厚な外套をまとった大男がぬっと入ってくるだけで、場の空気はどうしたって一変する。
小さな薬局の天井が少し低く見えるほどの長身。致命傷が完全に癒えた今では、歩くたびに鋼のような筋肉が連動する、一切の隙のない完璧な体躯。
冷気をまとった灰銀の瞳は、ただ黙って立っているだけで、本能に『逆らってはいけない絶対的な強者』だと警鐘を鳴らさせるほどの重い圧がある。
だが、問題なのは彼の威圧感ではない。その両手に抱えられている『物』だった。
「ニーナ。食え」
ドスゥンッ。
と、カウンターが軋むほどの音を立てて置かれたのは、ニーナの顔よりも遥かに大きな、分厚い油紙に包まれた巨大な肉の塊だった。
ニーナは目をぱちぱちと瞬かせる。
「……これは」
「霜降りの飛竜の肉だ。一番美味い部位を持ってきた」
「見れば(そして聞けば)分かります。飛竜って、討伐難易度Aランクの魔獣じゃないですか」
油紙の端から覗く、ルビーのように美しい赤身と、芸術的なまでに細かく入った真っ白な霜降り具合がものすごい。
王都にいた頃でも、こんな見事な高級肉は、宮廷の王族専用の厨房に運び込まれるのを遠目から見たことがあるだけだ。
「え、あ、あの……こんな高級なお肉、いくらなんでも受け取れませんよ!」
「礼だ。遠慮はいらん」
「でも、この前も王都から取り寄せたみたいな、すっごく甘くて大きな果物を木箱ごといただきましたよね!?」
「あれは前回の礼だ」
「じゃあ今回は何の礼ですか!?」
「今日の礼だ」
「今日はまだ、私何もしてませんけど!?」
思わずカウンターから身を乗り出して言い返すと、ガルシアはほんの少しだけ、形の良い眉を寄せた。
「……来た」
「え? 来ただけでお礼が発生するんですか?」
「お前に、会えた」
「意味が分かりません!!」
ニーナがきっぱりと断言したのに、ガルシアは自分が論理の飛躍をしている自覚が全くないのか、気分を害した様子もなく、ただ当然のようにカウンターの前に立ち尽くし、真っ直ぐにニーナを見下ろしている。
ここ数日の毎日の訪問で、ニーナにもはっきりと分かったことがある。
この人は、不器用だ。
ものすごく、致命的なまでに、不器用だ。
言葉は極端に少ないし、表情は常に仏頂面で乏しいし、目つきは魔王のように怖い。
そのくせ、何かと強引な理由をつけて薬局へやってきては、今日のような最高級の飛竜の肉や、南方から魔法で鮮度を保って運ばせた大粒の果物、一樽金貨数枚は下らない最高品質の蜂蜜、極寒の地ではあり得ないような美しい花々の束などを、ドンッ、ドンッと無表情のまま置いていくのだ。
最初は全部「命を救ってくれた治療の礼だ」と言い張っていたが、さすがにそれが毎日続くと、口実としても苦しい。
ニーナが巨大な肉塊を前に困惑していると、足元から地響きのような低い唸り声がした。
「……グルルルルルッ……!!」
シロである。
真っ白なもふもふの子犬(神獣フェンリル)は、今日も今日とてニーナの足元を定位置として陣取っていたが、ガルシアが扉を開けて入ってきた瞬間から、露骨に不機嫌な顔になっていた。
今も、ふわふわの背の毛を逆立て、小さな牙を剥き出しにして、カウンターの向こうの巨漢を「俺の縄張りに来るな」とばかりに鋭く睨み上げている。
「こら、シロ、だめよ」
「……グルッ!」
「公爵様に向かって唸らないの。いい子でしょ?」
ニーナがしゃがみ込み、ふさふさの顎の下を撫でてやると、シロは「ママが言うなら仕方ない」とばかりに一応口を閉じた。
だが、銀色の瞳の視線だけは、ガルシアに向けて『その無駄にデカい肉を置いて、さっさと俺のママの前から消えろ』と雄弁に語っていた。
ガルシアもガルシアで、そんな神獣の殺気を涼しい顔で受け流し、シロを見下ろしてぼそりと言う。
「……相変わらず、俺にだけ牙を剥く、感じの悪い白い毛玉だな。お前も肉が食いたいのか?」
「グルルルルッ!!(誰がお前なんぞの肉を食うか!)」
「はいはい、二人とも喧嘩しないで仲良くしてください!」
もはや毎日の挨拶(やり取り)になりつつある、一人と一匹の静かなバチバチとした光景に、ニーナは半ば諦めの境地でため息をついた。
その時、店の扉がもう一度、今度は軽快な音を立てて開いた。
「お邪魔しまーす。……って、うわ」
気の抜けた声とともに入ってきたのは、もちろん狐獣人のレオンだ。
赤茶色の狐耳をパタパタと揺らしながら、彼は店内の異様なプレッシャーの交差をひと目見るなり、心底呆れたように目を細めた。
「ああ、やっぱり来てたよ、うちの総団長様」
「何ですか、その“やっぱり”は」
ニーナが尋ねると、レオンはカウンターの上に鎮座する巨大な飛竜の霜降り肉を見て、やれやれと肩をすくめた。
「今日はワイバーンか。昨日は南方産の高級果物、一昨日はエルフの森の蜂蜜、その前は百年物の干し肉だったっけ?」
「全部覚えなくていいです! プレッシャーになるから!」
「だって、俺の給料半年分くらいの貢ぎ物を毎日持ってくるから、面白くて」
全然隠す気のないニヤニヤ笑いを浮かべるレオンを、ニーナはじとっと睨みつける。
一方のガルシアは、部下であるレオンのからかいなど、路傍の石ころのように完全に無視していた。
「副団長。午後の訓練と書類仕事はどうした」
「俺の分は全部終わらせてきましたよ。団長が仕事の合間に、ニーナに会いたくてこそこそ抜け出してるの、隊舎の連中の間でももう有名な噂になってますからね。俺がカバーしないと」
「こそこそなどしていない」
「真正面から堂々と職務放棄して抜け出してるのが、なお悪いんですよ」
レオンにぴしゃりと言い返されても、ガルシアは「フン」と鼻を鳴らしただけで、眉ひとつ動かさない。
その強靭すぎるメンタルと図太さに、ニーナは思わず変な感心をしてしまった。
「……あの、公爵様。本当に、こんな高級品、いただけませんよ? 私、一人暮らしですし」
改めて、重たい肉包みをガルシアの方へ押し返そうとすると。
ガルシアの大きくて無骨な手が、肉包みごと、ニーナの小さな手をそっと、しかし絶対に押し負けない力で押し戻した。
「受け取れ。……お前は、細すぎる」
「はい?」
「腕も、腰も、折れそうなほど細い。もっとたくさん食え」
「えっ」
あまりにも真顔で、大真面目な声で言われて、ニーナはカァッと顔を赤くして固まった。
女性に向かって「細い」だの「腰が」だの、デリカシーがないのか、それとも天然なのか。
「この前、お前が一人で重い薬草袋を持って裏庭から戻ってきた時も、足元がふらついていた」
ガルシアはニーナの羞恥などお構いなしに、淡々と続ける。
「調合に夢中になって、食事を忘れることもあるのだろう。お前からはいつも、十分な栄養を摂っていない気配がする。このグラキエスの寒冷地で生き抜くには、基礎体力が要る。美味い肉を大量に食えば、少しは血肉になり、ましになるはずだ」
「み、見てたんですか? 私がふらついたところ」
「見えた」
どうやら来店時だけでなく、店の外から薬局の様子まで、相当な頻度で観察(あるいは護衛)されていたらしい。
ストーカー一歩手前で怖いような気もするが、その不器用な理由が『自分への純粋な心配』から来ているのが透けて見えて、ニーナは返す言葉に困ってしまった。
そこへ、空気を読まない(あえて読まない)レオンが、狐耳をピコピコさせながら口を挟む。
「要するに、団長としては“俺の愛するニーナには、もっと美味いものを腹いっぱい食べて、健康でいてほしい”ってことだよな?」
「……レオン。貴様、余計な意訳と通訳をするな。斬るぞ」
「いや、団長の言葉が不器用すぎて分かりづらすぎるんですよ!」
狐耳を揺らしてケラケラと笑うレオンに、ガルシアの灰銀の視線が少しだけ鋭く、険しくなる。
けれどニーナは、その騒がしいやり取りを聞いて、ようやく胸の奥のつかえが下り、ふっと微笑んだ。
「……それなら、このお肉、ありがたくいただきます。心配してくださって、ありがとうございます」
ニーナがそう言って柔らかく笑うと、ガルシアの険しかった灰銀の瞳が、わずかに、本当にわずかにだが、春の雪解けのように柔らいだ。
表情筋は相変わらず微動だにしないが、確かに、ほっと安堵したような優しい色が宿ったのを、ニーナは見逃さなかった。
「その代わり、こんなにたくさん一人では食べきれませんから、今日のお昼はこのお肉で特製のスープにします。よかったら公爵様も、レオンさんも、少し食べていってください」
「いいのか?」
「はい。お礼にお礼を返すのも変な話ですけど、私の手料理でよければ」
「変じゃない、全然変じゃない!」
レオンがすかさず、しっぽを振りながら大きく頷く。
「団長、よかったな! 毎日通い詰めた甲斐があったぜ。ついに餌付け成功だ!」
「私を野生動物みたいに、餌付けって言わないでください!」
「いや、これだけ高級食材貢いでおいて、それ以上にぴったりな言葉が思いつかないんだけど」
思わず反論したものの、カウンターの上の凄まじい霜降り肉と、これまでの貢ぎ物の数々を思い出すと、完全に否定しきれないのが悔しかった。
結局、その日の午後は、薬局の看板を一時的に「準備中」にして、半ば休憩のような時間になった。
ニーナは受け取った飛竜の肉を贅沢に厚く切り、厨房の大鍋で、たっぷりの根菜と薬草と一緒に煮込みスープを作った。辺境の刺すような寒さには、身体の芯から温まる汁物が何よりの御馳走だ。
玉ねぎを飴色になるまで炒め、香草を入れてコトコト煮込めば、店いっぱいに、よだれが出そうなくらい暴力的に食欲をそそる香りが広がっていく。
「わぁ……すげぇいい匂い……。腹鳴ってきた」
「ニーナ、薬作るだけじゃなくて、料理もめちゃくちゃ上手いんだな」
レオンが鼻をひくひくさせながら、素直に感心した声を漏らす。
ガルシアは腕を組んだまま何も言わなかったが、その視線は煮える鍋に真っ直ぐ固定され、獣人特有の鋭い嗅覚で、静かに香りを堪能しているようだった。
そして、シロも。
白い子犬は暖炉の前にちょこんと座ったまま、じぃぃぃっと大鍋を凝視している。小さな黒い鼻先がひくひくと高速で動き、期待に満ちたしっぽが床を「パタパタパタッ!」と叩いていた。
「シロの分は、お肉を小さく切って、味を薄くして別に作るから、ちょっと待っててね」
「きゅう!!」
返事だけは、騎士団の誰よりも元気で素直だった。
簡単な昼食のはずが、三人と一匹でストーブを囲むと、なんだか妙に賑やかで温かい食卓になった。
レオンは「うまい! なんだこれ最高!」と狐耳を立てて連発し、ガルシアは無言ながらも恐ろしいスピードでスープを平らげ、無言で何度かおかわりを要求した。シロはシロで、専用の小皿に顔を突っ込んで「はむはむっ」と夢中で肉を頬張っている。
そんな、美味しそうに食べてくれる彼らの様子を見ているだけで、ニーナの頬は自然と嬉しさに緩んだ。
「……なんだか、すごく変な感じです」
「ん? 何が?」
焼きたてのパンをスープに浸しながら、レオンが首を傾げる。
「こんなふうに、誰かと一緒のテーブルで、のんびりとお昼を食べるのが、です。王都の宮廷にいた頃は、お昼休憩なんてあってないようなものでしたから。いつも薄暗い作業台の隅っこで、冷え切った固いパンを五分で急いで水で流し込むか……忙しい時は、食べ損ねるのが当たり前だったので」
言ってから、少しだけ気まずくなる。
せっかくの美味しい食事の席で、つい昔のブラックな職場の愚痴をこぼしてしまった。
けれど、レオンは冗談めかすことなく、食べていた手を止めて狐耳をピンと立てた。
「……食べ損ねる? 飯をか?」
「はい。師長からの急ぎの仕事が立て込むと、たまにですけど」
「たまに、じゃないだろう」
地獄の底から響くような、絶対零度の低く落ちた声に、ニーナはハッとして顔を上げた。
ガルシアだ。
スープを飲む手を止めた彼の、鋭利な灰銀の瞳が、怒りを押し殺すように真っ直ぐニーナを見据えている。
「お前は、自分自身を後回しにしすぎる癖がある」
「そ、そんなこと……」
「ある」
有無を言わさぬ、強い口調で断言されてしまった。
「この数日見ていたが、騎士団の怪我人が来れば、お前は嫌な顔一つせず、自分の休憩を削って最後の一人まで丁寧に診る。薬の仕込みも、俺たちが帰った後、夜遅くまでたった一人でやっているのだろう。雪の中でも平気で森へ薬草採りに行く。……他人の痛みには敏感なくせに、自分の食事と休息に関しては、あまりにも雑で無頓着だ」
「……あ、あの、ずっと、見られてる……?」
「ああ、見える。お前のことなら、嫌でもな」
またその「見える」という返答だ。
レオンがたまらず、横で吹き出した。
「ぶっ……! 団長、最近その“見える”で、自分の過保護なストーカー気質を全部押し通そうとしてるよな?」
「事実だ」
「事実だけどさぁ。もう少し言い方ってものがあるだろ」
呆れたように笑いながらも、レオンの目には、不器用すぎる上官の恋(?)を面白がるような、どこか微笑ましげな色があった。
ニーナは、ガルシアのあまりにも真っ直ぐで重たい眼差しに、何となく居心地が悪くなって顔を赤らめ、誤魔化すように立ち上がって、鍋を木べらでかき混ぜるふりをした。
その時。
パチッ!! と、暖炉の中で乾燥した薪が、思いのほか大きく爆ぜた。
小さな、けれど熱を持った赤い火の粉が一つ、思いがけず勢いよく跳ねて、ニーナの顔の近くへ飛んできた。
「あっ――」
ニーナが「熱い」と身を引く、その一瞬より遥かに速く。
獣人特有の凄まじい反射神経で動いた大きな手が、ニーナの細い手首をぐいっと引き寄せ、もう片方の手で彼女の頬を庇うように包み込んだ。
「――危ない」
低い、大人の男の声が、すぐ耳元で響く。
気づけばガルシアが椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、ニーナを背後から包み込むようにして、彼女の手を自分の大きく分厚い掌の中にすっぽりと収めていた。
骨ばって無骨で、剣ダコだらけの荒々しい手なのに、ニーナに触れる力加減は、ガラス細工でも扱うように不思議なくらい優しい。
熱を持った火の粉が肌に届く前に、自分の身体を盾にして引き寄せてくれたのだと、ニーナは数拍遅れて理解した。
「け、怪我は……公爵様、火の粉が……!」
自分を庇った彼の手を心配して言いかけたニーナより先に、ガルシアが彼女の指先を、何か大切な宝物を検分するように真剣に見つめた。
「怪我はないか?」
振り返ったニーナのすぐ目の前に、灰銀の瞳がある。
普段は冷徹で鋭いはずの眼差しが、今だけはひどく焦ったように真剣で、そして……甘く熱を帯びて、やわらかい。
そして彼は、まるでため息をこぼすように、低く、切なげに囁いた。
「……お前の、この魔法を生み出す綺麗で優しい手に、少しでも傷がついたら……俺が、耐えられない」
「――ッッ」
ボンッ!! と。
ニーナの頭の中で、何かが沸騰して爆発し、思考が完全に停止した。
て、手。
きれい。
耐えられない。
頭の中で、その甘すぎる単語だけがぐるぐるとリフレインする。
顔がカァァッと熱い。たぶん、耳の先から首筋まで真っ赤に茹で上がっているはずだ。
至近距離のせいで、ガルシアの広い胸板から伝わる体温と、外套に残った冷たい冬の匂い、そして微かに香る男らしい薬草の匂いまでが、ニーナの五感を強制的に支配してくる。
「え、あ、そ、その……大丈夫、です……」
喉がひゅっと鳴って、まともな声にならない。
ガルシアは、そんなニーナの限界を超えた様子にようやく気づいたのか、わずかにハッと目を見開いた。
だが、ニーナの手を放す気配はない。
むしろ、大きな親指でそっと、ニーナの小さな指先を愛おしむように撫で、火傷一つないことを完全に確認してから、名残惜しそうに、ようやくゆっくりと手を離した。
「……無事で、よかった」
その、安堵に満ちた低音の一言が、追い打ちみたいにニーナの心臓へドスンと落ちる。
ニーナは、顔から火を吹きそうなまま、その場でカチコチに固まるしかなかった。
……沈黙。
気まずい。
いや、気まずいというより、自分の心臓の鼓動がうるさすぎて、周囲の音が何も聞こえない。
そんな、砂糖を煮詰めたような甘ったるい空気をぶち壊したのは、もちろんレオンだった。
彼はいつの間にか、スープの皿を持ったままニーナたちの背後へ回り込み、ガルシアに向かってぐっと親指を立てていた。
「よっ! 団長。今のはなかなか、百点満点の口説き文句だったぜ! 俺でも惚れるね!」
「……レオン」
「はいはい、無粋な副団長は黙って飯食ってますよーだ」
口ではそう言いながら、全然黙る顔ではない。
面白くてたまらないというように、狐耳が楽しげにピコピコと揺れまくっている。
「レ、レオンさんは黙ってスープ飲んでてください!!」
「えー、でも今の団長のイケメンムーブは、部下として応援したくなるだろ?」
「何を応援するんですか!」
「何をって、そりゃあ――」
「言わなくていいです!! もう!!」
ニーナが真っ赤な顔で必死に遮ると、レオンは肩を揺らして「はははっ!」と笑い転げた。
一方で、ガルシアはレオンを「後で殺す」とばかりに一瞥したあと、気まずそうに、ほんの少しだけ視線を逸らした。
……なんと、あの氷のように冷酷な狂犬公爵の、耳の先がわずかに赤い。
(まさかこの人、自分で言っておいて、照れているの……!?)
その信じられない大発見が、またニーナの心臓に強烈な追い打ちをかけた。
「……グルルルルルルッ!!!」
今度は足元から、明確に、怒り心頭の激しい唸り声が響いた。
見ると、シロがふくらんだしっぽを怒りでぶわんと逆立て、ニーナとガルシアの間に無理やり割って入ろうとしている。短い前足でニーナのスカートをちょいちょいと強く引っ張り、「そのデカい男から今すぐ離れろ!」とでも言いたげだ。
「シロ、ごめんね、今ちょっと待って」
「……グルッ!!」
「怒らないの。待ってってば」
ニーナがシロを抱き上げると、シロは「俺のママに手を出したな」とばかりにガルシアを睨みつけ、不服そうにぷいっと顔を背けた。
だが、ニーナの腕の中に収まった途端、ちゃっかりと彼女の柔らかい胸元に顔を埋め、すりすりと甘える。
その「俺の場所だ」と見せつけるようなシロの様子を見て、ガルシアの灰銀の目が、さらに険しく細められた。
「……お前、そこを随分と気に入っているようだな」
「きゅう!」
シロは「当然だけど? お前には絶対譲らないからな」みたいなドヤ顔で鳴き返した。
レオンがとうとう、腹を抱えて声を上げて笑い出した。
「ははははっ! ひーっ、もうだめだ、面白すぎる! 最強の狂犬公爵様と、ただの白い犬が、一人の女の膝の上を巡って完全に本気で張り合ってるじゃないか!」
「犬と張り合ってなんかいません!」
「張り合っていない」
ニーナとガルシアの否定の言葉が、ぴったりと同じタイミングで重なった。
それがあまりにも夫婦のように息ぴったりで、レオンはますます「ひぃっ」と涙を流して笑い転げる。
ニーナはこれ以上ないほど顔を赤くしたまま、「もう知らない!」と鍋を力任せに混ぜ直すしかなかった。
けれど、その胸の奥には、困惑や羞恥だけではない、確かな『温かさ』が残っていた。
誰かが自分の荒れた手を見て、そんなふうに本気で心配してくれるなんて。
小さな火の粉から、あんなに真剣な、痛みを恐れるような顔をして庇ってくれるなんて。
王都の冷たい宮廷にいた頃には、一度も、誰からもされたことのない扱いだった。
錬金術師長にとって、ニーナの薬を作る手は、ただの『便利な道具』でしかなかった。
もっと早く動かせ、もっと量をこなせ、失敗するな。
そう理不尽に求められるばかりで、一人の人間の手として、大事にされたことなんて一度もなかったのだ。
だからこそ、なおさら。
「……変なの」
ポツリと零した声は、鍋の煮える音にかき消されるくらい、自分にしか聞こえないほど小さかった。
こんなに不器用で、怖い顔をしていて、言葉も圧倒的に足りない人なのに。
彼がくれるその短い一言や、無骨な仕草のほうが、王都の貴族たちが口にするどんな甘く飾られた台詞よりも、ずっと深く、強く、心に焼き付いてしまうなんて。
窓の外では、雪が静かに、世界を白く染めながら降り続いていた。
薬局の中では、暖炉の火がぱちぱちと穏やかに燃え、美味しいスープの香りと、大切な人たちの笑い声が満ちている。
穏やかで、温かくて、少しだけくすぐったい。
ニーナの辺境での毎日は、気づけばもう、ひとりぼっちの寂しいものではなくなっていた。




