第6話 騎士団の熱狂と、シロの威嚇
嵐が去り、レオンとガルシアが城へと帰還した翌朝。
ニーナはまだ半分夢見心地のまま、朝日に照らされた薬棚の前で腕を組んでいた。
「……公爵様、『また来る。必ずな』って、本当に言ってたわよね」
窓から差し込む清々しい冬の朝日を受けて、棚に並んだ色とりどりの薬瓶がきらきらと光を反射している。
昨夜のうちに、もしもの時のためにと、風邪薬や回復補助ポーションを徹夜に近い勢いで多めに仕込んでおいた。だが正直なところ、どれくらい用意しておけばいいのか、見当もつかなかった。
“痛くない薬がある”
“苦くない”
“しかも、信じられないほどちゃんと効く”
お調子者で口の軽いレオンのことだ。あの感動の男泣きっぷりからして、城に帰った途端、絶対に黙っていられないだろう。
そう思ってはいた。
数人くらいは、恐る恐る試しに来るかもしれない。
思っては、いたのだが。
――カランカランッ!
控えめに、しかし少し焦ったように扉のベルが鳴ったのは、ニーナが「開店」の木札を外に掛けようとした、まさにその瞬間だった。
「は、はい! いらっしゃいま――」
笑顔で扉を開け、顔を上げたニーナは、そのまま口をぽかんと開けて言葉を失った。
入り口の木枠を完全に塞ぐように立っていたのは、見上げるほど巨大な、身長二メートルは優に超えるであろう『熊獣人』だったからだ。
分厚い軍用の毛皮外套の下からでも、丸太のような腕と逞しい胸板が隆起しているのが分かる。頭には丸い熊の耳がちょこんと乗っているが、顔つきには歴戦の猛者特有の凄みが刻まれている。
その片腕には血のにじんだ包帯が巻かれており、いかにも『本物の戦士』という風貌だった。
……なのに、なぜか彼は、小さな薬局の入り口で、乙女のようにモジモジと身体を揺らしてそわそわしていた。
「あ、あの……! すんません! ここに、その……『全く苦くない、魔法みたいに甘い薬』があるって、レオン副団長から聞いて……夜通し走ってきたんですけど……」
腹の底から響くような、地鳴りのような低い声だった。
けれどその口調は、厳つい見た目に反して、恐ろしく遠慮がちで切実だった。
「え、ええと……はい、私が作っているお薬なら、どれも甘くしてありますけど……」
ニーナが戸惑いながら答えた瞬間、熊獣人の丸い目がかっと極限まで見開かれた。
「ほ、本当に!? 全部甘いんですか!?」
「ひゃっ」
「し、失礼! 俺の声がデカいせいで、お嬢さんを脅かすつもりはなかったんだ! どうか嫌わないでくれ!」
巨体を縮こまらせ、慌てて両手で口を覆う仕草が妙に律儀で可愛らしく、ニーナはぱちぱちと瞬きをした。
どうやら、この熊さんが記念すべき『お客さん第一号』らしい。
「ふふ、大丈夫ですよ。お怪我、見せてもらってもいいですか?」
「あ、ああ……。昨日の山岳哨戒で、氷狼の爪に浅くやられただけなんだが……城の治療班の薬が、どうしても、その……臭いだけで胃液が込み上げてきて、無理で……。いや、大の大人が情けない話だが、あの泥色の薬瓶を見るだけで、ちょっと動悸がな……」
歴戦の兵士の顔が、最後の方はどんどん小声になり、情けなく俯いてしまった。
そっと包帯を外してもらうと、太い前腕に三本の鋭い爪痕が赤黒く走っていた。彼らにとっては浅手かもしれないが、普通の人間なら骨まで達する深さだ。放っておけば化膿し、魔力毒で発熱するだろう。
「痛かったですね。では、まず洗浄魔法をかけてから、こちらを飲んでください」
ニーナは棚から薄い琥珀色の『微細回復ポーション』を取り出し、小さなコップに移し替えて熊獣人へ差し出した。
ふわりと漂うのは、極上の蜂蜜と、甘酸っぱい林檎の果汁を混ぜたような、柔らかく食欲をそそる香り。
熊獣人はコップを両手で包み込むように受け取ると、まるで自分の命運を見定めるような、あるいは神の裁きを待つような悲壮な顔で、じっと中の液体を見つめた。
「……本当に、本当に苦くないんだな? 泥の味はしないな?」
「はい。お約束します」
「鼻にツンとくる、カビた草の臭いもない?」
「たぶん」
「“たぶん”か……いや、信じる! レオン副団長が、泣いて喜んでたんだから!」
ごくり、と。
太い喉仏が上下に動く。
そして彼は意を決したように息を止め、ポーションを一気に喉の奥へ流し込んだ。
ごくっ。
次の瞬間。
「…………」
熊獣人は、雷に打たれたように完全に硬直した。
「だ、大丈夫ですか? やっぱりお口に合いませんでしたか?」
ニーナが不安になって声をかけると、熊獣人はプルプルと震える手で己の口元を押さえた。
「……あ、甘い」
「はい」
「うまい……。なんだこれ、林檎の果汁か……?」
「はい、飲みやすいように果実のシロップで割っています」
「しかも……傷が、熱くない。チリチリしない。……塞がってる……」
熊獣人の低い声が、わなわなと震えている。
彼の腕の傷は、淡い光を帯びてみるみるうちに綺麗に塞がっていた。
そして彼は、傷が完治した喜びを見るより先に、両腕を天高く突き上げ、天井を仰いで咆哮した。
「うおおおおおおお!! 女神様だ――――!! ルーンフェルドに、本物の薬の女神様が降臨なされたぞォォォ!!」
「ええっ!?」
鼓膜が破れそうなほどの大音声に、ニーナは文字通り「ビクゥッ!」と飛び上がった。
しかも、その歓喜の咆哮は、薬局の外にまで丸聞こえだったらしい。
次の瞬間、静かだったはずの店の外から、地響きのような「どっ!!」という凄まじいざわめきと歓声が押し寄せた。
「おい、今の叫び声、第一部隊のグラム副隊長だぞ!?」
「マジか! あの薬嫌いで有名なグラムさんが泣いて喜んでる!!」
「本当に苦くないんだ! レオン副団長の言うことは本当だったんだ!」
「うおおおお! 俺も飲む! 俺の胃痛を治してくれええ!」
「押すな! 順番だろ! 俺の尻尾踏むな、この馬鹿犬!」
「……え?」
薬局の床が、何十人もの足音でドシドシと揺れている。
恐る恐る、入り口の木枠から外を覗いたニーナは、そこで完全に石像のように固まった。
小さな薬局の前に、道の先まで続く、凄まじい長蛇の列ができていた。
狼獣人、狐獣人、豹獣人、犬獣人、熊獣人、さらには見上げるほど大柄な牛獣人までいる。
皆そろって、黒狼騎士団の証である黒い軍装や、分厚い防寒着に身を包み、腰には物騒な剣や斧を下げている。いかにも血の気の多そうな筋骨隆々の男たちが、百人近くずらりと列をなしている光景は、もはや戦争の出陣前のような大迫力だ。
薬局の小さな入り口が、彼らの放つ熱気と圧で今にも壊れそうに見える。
その列の先頭で、見覚えのある赤茶の狐耳がぴこりと揺れた。
「やあ、おはよう、ニーナ先生」
「レ、レオンさん!?」
狐獣人の副団長レオンは、悪びれもせず、どこから持ってきたのか「最後尾」と書かれたプラカードを片手に持って爽やかに笑っていた。
「ちょっと、城で薬の噂が広まってな」
「ちょっとじゃありませんよね!? 何ですかこの人数! 暴動ですか!?」
「暴動じゃない。ただの『黒狼騎士団、奇跡の薬お試しツアー(第一陣)』だ。ちなみに第二陣も城で待機してる」
「第二陣までいるの!?」
ニーナはクラッと眩暈がして、壁に手をついた。
レオンの背後では、屈強な大柄の騎士たちが、しっぽをぶんぶんと振り回しながら、そわそわと順番を待っている。中には、痛む腕や腹を押さえながら、明らかに緊張と期待で目を輝かせている者もいて、あの巨体で子どもみたいに足踏みしている姿は妙に可笑しかった。
しかも全員、目が『救済』を求めるように真剣だ。
「お、朝から押し寄せてごめんな。でも皆、もう王都から送られてくるあの激マズ薬には、心身ともに限界だったんだよ」
レオンが苦笑混じりに言う。
「苦くなくて、一瞬で傷が治る女神の薬の噂なんて流したら、そりゃこうなるだろ?」
「レオンさんが流したんですね……」
「拡声魔法を使って、城の中庭でな」
きっぱりと、ドヤ顔で認められて、ニーナは完全に脱力した。
だが、ここで「帰ってください」と追い返すわけにはいかない。
彼らは皆、辺境を護るために魔獣と戦い、怪我や不調を抱えてここへ来ているのだ。何より、この目の前の『痛くない薬』に対する期待に満ちた切実な顔を見てしまったら、薬師としての良心が「放っておけない」と叫んでいた。
「……分かりました。順番に、全員診ます。横入りと喧嘩は禁止です!」
ニーナが覚悟を決めてそう宣言すると、列のあちこちから、地鳴りのような歓喜のどよめきが上がった。
「うおぉぉっ、聖女様……!!」
「本当に全員診てくれるのか……! 天使か!」
「薬の女神様バンザイ!!」
「拝んどけ! とりあえずあの綺麗な金髪拝んどけ!」
「だから、私はただの薬師で、女神でも聖女でもありません!」
思わず大声で否定したが、熱狂する獣人たちの耳には全く届いていなかった。
結局その日、ニーナの小さな薬局は、朝から戦場のようなてんてこ舞いになった。
最初のグラム副隊長(熊獣人)に始まり、次から次へと屈強な騎士たちが入ってくる。
雪中行軍の無理が祟って関節を痛めた者、剣の訓練で深い切り傷を作った者、魔獣の瘴気で胃腸が弱っている者、慢性的な疲労と睡眠不足を訴える者。中には「どこも悪くないけど、本当に苦くないか確かめたくて」と本音丸出しでやってきた者までいた。
「はい、これは筋肉痛と関節炎用の特製塗り薬です。少しすーっとしますけど、刺激は強くありませんよ」
「うお……お花畑みたいな、すげぇいい匂い……。しかも塗った瞬間、痛みが消えた!」
「こちらは胃腸を整える飲み薬。苦味は抜いてあるので、温かいお湯に溶かして紅茶みたいに飲んでください」
「えっ、これ薬湯なのに、柑橘系の爽やかな香りがする……! 美味い……おかわりしていいですか!?」
「お薬ですから、おかわりはだめです! 怪我の治療が終わったら、今日は無理せず安静にしてくださいね」
「はいっ!! 仰る通りにします!!」
普段は上官の命令にも文句を言う荒くれ者たちが、なぜかニーナの前では皆、しっぽをピンと立てて異様に素直な返事をした。
そして、彼らが甘いポーションをひと口飲むたびに、店内のどこかで大歓声が上がるのだ。
「うおお! 本当に苦くない……!」
「喉が焼けない! 泥の味がしない!」
「なんでだ、俺は死んで天国に来たのか!?」
「うますぎて逆に怖い! ジュースかこれ!?」
「美味い……おふくろのシチューより好きかもしれん……」
「お前、それ絶対に奥さんに言うなよ。殺されるぞ」
ニーナは、猛スピードでポーションを量り分けながら、何度も目を白黒させた。
これまで王都の宮廷では「薬が美味しいなんて狂っている」「伝統への冒涜だ」と頭ごなしに否定され続けてきたのに、ここでは完全に逆だ。
誰もかれもが目を輝かせ、まるで幼い頃の夢の宝物を手にしたみたいな顔をして、涙ぐんで喜んでくれる。
ある大柄な狼獣人など、ピーチ味の回復薬を飲み終わったあと、感極まってニーナの手を両手でガシリと握りしめ、膝をついた。
「ニーナ先生……! 俺、一生先生についていきます! 命に代えてもお護りします!」
「そ、そこまでの忠誠心は求めてませんから! 手を離して!」
「じゃあ、怪我してなくても、月に二回来てお茶飲んでいってもいいですか!」
「ちゃんと必要な時だけ来てください!」
すかさずニーナがツッコミを入れると、店内にドッと温かい笑いが広がる。
ぴりついていた騎士たちの空気がふわりと和み、ニーナもようやく肩の力を抜いて笑うことができた。
ただ、その和気あいあいとした賑やかさが、死ぬほど面白くなかった存在が、ただ一匹だけいた。
「……グルルルルルルッ……!!」
カウンターの上、ニーナのすぐ真横の特等席で、真っ白な毛玉――シロが、地鳴りのような低い喉を鳴らしていたのだ。
今日は朝からずっとニーナの腕の中か膝の上を独占していたシロだが、自分の縄張りである店内に、むさ苦しい――もとい、屈強な獣人の男たちが次から次へと詰めかけてきたせいで、朝から明らかに機嫌が最悪だった。
特に、ニーナが騎士たちの怪我を診るために顔を近づけたり、彼らがニーナの手に触れたりするたび、シロの白い耳がピクピクと怒りに震える。
少しでもニーナに近づきすぎた者には、「シャァッ!」と鋭い牙を見せ、神獣特有の『絶対零度の殺気』を微量に放って威嚇する始末だ。
「お、おい……あの白い犬、俺のことすげぇ睨んでないか?」
「俺、何も悪いことしてないぞ? ただ薬をもらっただけだぞ?」
「いや待て、あの犬と目が合った瞬間、背筋が凍るような寒気が……」
「ただの、犬……だよな? なんで俺、本能が『逃げろ』ってアラート鳴らしてんだ……?」
歴戦の筋骨隆々の獣人騎士たちが、ちんまりとした白い子犬相手に、なぜか冷や汗を流して妙に腰が引けている。
ニーナは慌ててシロを抱き上げ、頬ずりをした。
「こら、シロ、だめよ。皆さんは大切な患者さんなんだから」
「……グルル」
「唸らないの。いい子でしょ?」
ふわふわの白い毛玉は、ニーナの腕の中で、あからさまにムスッとした不機嫌な顔をしている。
その銀色の瞳は、明らかに「なんでこんなにいっぱい男が来るんだ」「俺のママに気安く触るな」とでも言いたげだ。
その様子をカウンターの端で見ていたレオンが、肩を揺らして吹き出した。
「ははっ。やっぱりその犬、普通じゃないな。完全に嫉妬して、男たちを牽制してるだろ」
「嫉妬? シロがですか?」
「だってあんた、朝からずっと、こいつ以外の他の男たちの身体に触って、優しく微笑みかけてるじゃないか」
「チ、チガウ! 治療です! 変な言い方しないでください!」
「でも、こいつには『治療』か『浮気』かの区別なんてつかないんじゃないか?」
言われてみれば、今日のシロはやたらと自己主張が激しく、甘えたがっていた気がする。
足元にまとわりつき、隙あらば膝に飛び乗り、ニーナがちょっと薬草を取りに席を外すだけで「きゅうぅ~ん」と悲しげに鳴く。いつも以上にぴったりと密着して離れようとしないのは、他の獣人たちへの『牽制』という理由なのだろうか。
「もう、シロったら。やきもち焼きさんね」
くすりと笑って、ニーナはシロのふわふわの顎の下を、指先でそっと、念入りにくしゅくしゅと撫でた。
すると。
「……きゅぅぅ……ん」
さっきまで「グルルル!」と獰猛に威嚇していた白い子犬が、一瞬でスライムのようにとろけた。
ピンと張っていた身体からすべての力が抜け、鋭かった銀色の目がうるうると三日月型に細まり、喉の奥から「ゴロゴロ」と甘えきった声が漏れる。さらに耳の裏を撫でてやると、後ろ足までふにゃりと崩れ、ニーナの胸の中で完全に無力化された毛玉と化した。
「ふふ、あったかい。かわいい」
「おい見ろ、あの犬、落差がすごすぎるぞ」
「さっきまで、魔王みたいに怖かったのに……」
「顎の下が弱点か……メモしておこう」
「いや、ニーナ先生のゴッドハンドが特別なんだろ」
「なるほど、愛の力か」
「勝手に納得してメモしないでください!」
なぜか騎士たちの間で「白い悪魔の攻略法」みたいな真剣な会議になりかけ、ニーナは慌てて止めた。
けれど、シロ本人は周囲の視線などどうでもいいらしい。
ニーナの温かい手に顎をぐりぐりと押しつけ、「俺が一番愛されてるんだぞ」と見せつけるように、これみよがしに喉を鳴らしている。
そのあざとくも無防備な姿に、先ほどまで謎のプレッシャーに怯えていた騎士たちも、一斉に毒気を抜かれて頬を緩めた。
「……なんか、腹立つけど可愛いな」
「あざとさが反則級だろ」
「うちの第一隊舎にも、あんなもふもふが一匹ほしいな」
「お前のむさ苦しい顔には絶対に懐かないと思うぞ」
午前がまるまる終わる頃には、ニーナの薬局は完全に“黒狼騎士団のオアシス(御用達)”の空気になっていた。
ニーナは息をつく暇もないほど目の回る忙しさだったが、不思議と、宮廷にいた頃のような「心が削られる疲労感」は全くなかった。
むしろ、目の前で自分の作った薬を飲んだ人たちの顔が、苦痛から解放されてパッと明るい笑顔になっていくのを見るたびに、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
「こんな優しい薬、生まれて初めてだ」
「治療の時間が怖くないって、すごいことだな……」
「うちの弟も体が弱いから、今度これを飲ませてやりたい」
「これなら、怪我して泣いてる子どもも笑顔になるだろうな」
何気ない、心からのその言葉一つ一つが、ニーナには何よりの報酬であり、宝物みたいだった。
王都では、「無駄なことだ」と否定されてばかりだった工夫。
でも、それがここでは、誰かの確かな『救い』になっている。
苦しまずに、安心して飲める薬を作りたいと願ってきた自分のやり方が、間違っていなかった。ちゃんと、届いている。
それがただ、心の底から嬉しかった。
昼過ぎ。
第二陣までの長かった列がひとまず途切れ、最後の患者を見送ったニーナは、カウンターに突っ伏して大きく息をついた。
「つ、疲れたぁ……。腕がパンパン……」
「お疲れ、ニーナ大明神」
いつの間にか厨房に入り込んでいたレオンが、どこからともなく、温かいハーブティーの入ったマグカップを差し出してきた。
「凄まじい大繁盛だったな。うちの団員たち、もう完全にあんたの狂信者だぞ」
「だから、信者にはしないでください……ただの薬屋です」
「でも実際、あいつらにとっちゃ救世主みたいなもんだしな」
からかうようでいて、そのレオンの声音には、部下たちを苦痛から救ってくれたことへの本気の感謝が滲んでいた。
ニーナは温かいマグカップを受け取り、ほんの少しだけ困ったように、でも嬉しそうに笑う。
「私はただ、飲みやすくて、痛くないお薬を作りたかっただけなんですけどね。大げさですよ」
「それが一番難しかったんだよ、今までこの世界の誰にもな」
レオンは、静かになった店内を感慨深げに見回した。
空になったいくつもの薬瓶、すっかり減ってしまった在庫の棚、そして、名残惜しそうに、何度も振り返りながら帰っていく騎士たちの大きな背中。
「ニーナ。黒狼騎士団は、たぶんこれから、もっとあんたの世話になる」
「えっ」
「だって、皆もう知っちまったからな。あの激マズの泥水みたいな普通の薬には、絶対に誰も戻れないだろ」
その有無を言わせぬ断言に、ニーナは思わず苦笑した。
確かに、今日の彼らの熱狂的な反応を見た後では、そうかもしれない。
追放されて辿り着いた、小さな辺境の薬局。まさか自分が、この国最強の騎士団の命綱として、こんなふうに深く関わることになるなんて、数日前までは想像もしていなかった。
その時。
店の外の通りが、ふっ、と不自然なほど静まり返った。
帰路についてざわついていた騎士たちの声が、水を打ったようにぴたりと止まり、代わりに「サァッ……」と波が引くように、一斉に道をあける気配が広がる。
ニーナが不思議に思って顔を上げると、薬局のすりガラスの扉の向こうに、ひときわ巨大な黒い影が差した。
――カラン。
ゆっくりと、重々しく鈴が鳴る。
扉を開けて現れたのは、漆黒の極厚の外套を纏った、長身の大男。
冷気をまとった灰銀の瞳、精悍で彫りの深い顔立ち。昨夜、死線を彷徨っていた傷病人とは到底思えない、周囲の空気を支配するような圧倒的な威圧感と覇気。
「……ガルシア、様」
店内の空気が、一瞬でピンと張り詰めたものに変わった。
外にいた騎士たちが一斉に直立不動で敬礼し、店内にいたレオンが「おや、噂をすれば本命のお出ましだ」とニヤリと片眉を上げる。
そんな緊張感の中で、ニーナの腕の中にいたシロだけが、己の最大のライバルの登場に、むすっとした顔でガルシアを見上げていた。
「……グルルルルッ」
「こら、シロ。また威嚇してる」
ニーナが慌ててシロの口を押さえると、ガルシアは腕を組み、シロを一瞥して、低く地を這うような声で呟いた。
「……相変わらず、生意気で目障りな白い毛玉だな。そこは俺の指定席だ、早くどけ」
「グルルルルッ!!(ここは俺のママの膝の上だ! お前が帰れ!)」
バチバチバチッ!!
またしても、一人と一匹の間で、目に見えない強烈な魔力の火花が散る。
どうやら、ニーナが夢見た『のんびり静かなスローライフ』は、まだまだ程遠く。
この辺境の小さな薬局は、明日からも最高に騒がしく、そして温かい嵐に巻き込まれ続けることになりそうだった。




