第4話 嵐の夜、狐獣人の副団長が血だらけの【狂犬公爵】を運んできました
深い森で、トラバサミにかかっていた真っ白な神獣(本人はただの犬だと思っている)のシロを拾ってから、数日が過ぎた。
ニーナの辺境の薬局――まだ正式な看板は出していないが、彼女の中ではもう立派に「私だけの無敵のお城」だった――には、少しずつだが確実に、温かい生活の匂いが満ちてきていた。
日当たりのいい窓辺には、先日森で採ってきたばかりの氷舌草や霜花の根が、麻紐で丁寧に結ばれて乾燥の工程に入っている。
磨き上げた木製の陳列棚には、ニーナが夜な夜な楽しげに調合した、宝石のように美しい色とりどりのポーション瓶が並び、カウンターの隅には、いつでも温かいお茶が飲めるようにと、小さな鉄瓶がちんちんと湯気を立てていた。
奥の広々とした調剤台もすっかり手に馴染み、朝起きて暖炉に火をくべ、足元にまとわりつくシロに「おはよう」と声をかけるのが、ニーナにとってかけがえのない、そして当たり前の日常になりつつあった。
「はい、シロ。朝ごはんのあとの、お水で薄めた甘いミルクよ」
「きゅう!」
白い子犬――シロは、相変わらず犯罪的なまでに愛らしかった。
朝はニーナが起きる前から足元で丸くなり、彼女が薬草の仕分けを始めれば、短い前脚をちょこんと膝にかけて、銀色の瞳でじっと見上げてくる。ニーナが庭先に薪を取りに出れば、雪に埋もれそうになりながらも一生懸命についてくるのだ。
そのくせ、時々こちらの言葉を完全に理解しているような、犬らしからぬ賢い反応を見せるので、ニーナは首を傾げることもしばしばだった。
「あなた、本当に賢いわよねえ。人間の言葉、分かってるみたい」
しゃがみ込んでふわふわの顎の下をくしゅくしゅと撫でてやると、シロは「当たり前だ」とでも言うように胸を張り、うっとりと目を細めて喉を鳴らした。
このルーンフェルドの街での暮らしは、王都に比べれば不便で寒かったが、人々の心は穏やかで温かかった。
店の清掃や整備をしていたニーナに、ご近所の人々が「若いのに感心だねえ」「薬師さんかい?」と、少しずつ様子を見に立ち寄るようになっていたのだ。
風邪気味で咳が止まらないという子どもに、苦味を完全に消した甘いシロップ状の喉薬を出してやると、翌日には母親が「あんなに薬嫌いの子が、もっと飲みたいと泣いて大変だった。しかも一晩で熱も下がった!」と、山盛りの野菜を持ってお礼に来てくれた。
雪かきで腰を痛めたおじいさんに、患部に塗るとじんわり温かくなる湿布用の軟膏を試してもらうと、「魔法みたいに痛みが消えた!」と大層喜ばれた。
王都で「宮廷の恥」と罵られたニーナの甘くて優しい薬は、この辺境の地で確実に、人々の笑顔と「ありがとう」を生み出していた。少しずつではあるが、「街の薬師さん」としての確かな手応えと喜びを、ニーナは噛み締めていた。
けれどその日。
朝から空模様だけは、どうにも不穏だった。
窓の外はまだ昼前だというのに、夜のように薄暗い。空の色は重苦しい鉛色に沈み、風の音もヒューヒューと不気味な唸りを上げ、屋根や分厚い防壁を叩く音が次第に荒々しくなっていった。
「大きな嵐、来るのかな……」
ニーナはすり鉢で薬草をすり潰す手を止め、不安げに窓の外を見た。
遠くに見える針葉樹の森が、強風で大きくしなり、千切れそうなほど揺れている。やがて、大粒の雪混じりの冷たい雨が、横殴りに窓ガラスに吹きつけ始めた。
こんな日に外を出歩く物好きはいないだろう。今日は早めに雨戸を閉めて店じまいをし、暖炉の火を強くして、シロと一緒に温かいシチューでも煮込もう。
そう思って、作りかけだった最後のポーション瓶のコルク栓をきゅっと閉めた時だった。
――ゴロゴロゴロ……ッ!!
腹の底に響くような、重く低い雷鳴が遠くで唸った。
足元にいたシロが、ぴくりと白い耳を立てる。
「大丈夫よ、シロ。雷なんて怖くないから――」
ニーナが屈み込んで撫でようとした、その言葉が終わるより早く。
今度は、空が真っ二つに裂けるような凄まじい稲光が、窓の外を真昼のように白く染め上げた。
直後、大地を揺るがす轟音。
ドバァンッ!!
すぐ近くの避雷針に雷が落ちたような爆音に、ニーナは思わず「ひゃっ!」と短い悲鳴を上げて肩をすくめた。
「グルルルルル……ッ!!」
しかし、シロの反応は違った。
雷に怯えるどころか、全身の純白の毛を逆立て、入り口の頑丈な木扉をキッと睨みつけながら、普段の「きゅう」という愛らしい鳴き声からは想像もつかない、地を這うような獣の低い唸り声を上げたのだ。
「え……? シロ……?」
その、異常な警戒態勢の直後だった。
バンッッ!!!
強固な鍵をかけていたはずの薬局の重い扉が、蹴り破られるような凄まじい勢いで開け放たれた。
「――誰か!! 薬師はいないか!!!」
雷鳴すらかき消すような、血を吐くような悲痛な怒声。
それと共に、嵐の凍てつく冷気と、強烈な血と泥の匂いが、一気に店内へなだれ込んできた。
ニーナは反射的に「ひっ」と息を呑み、カウンターの向こう側へ身を引いた。
シロがニーナを庇うように前に出て、さらに低く「グルルル」と威嚇の声を上げる。
吹き込む雨風の中、入り口に立っていたのは、ずぶ濡れの男だった。
いや、正確には“二人”いる。
一人は、赤茶色の髪を雨と泥でぐしゃぐしゃに濡らした長身の青年だった。
鋭く吊り上がった金の瞳に、頭の頂点にはぴんと立った獣の三角耳。腰からは、雨に濡れて細くなっているが、本来ならふさりとしているであろう狐の尾がのぞいている。間違いなく、獣人だ。
そしてもう一人――その狐獣人の青年が、自らの肩を貸して必死に担ぎ込んでいる大男の姿を見て、ニーナはあまりの光景に息を止めた。
「……っ!!」
大きい。
とにかく、圧倒されるほどに巨大な男だった。
雨に濡れた漆黒の髪が額に張りつき、精悍で彫りの深い顔立ちは、完全に血の気を失って蒼白になっている。それでも、固く閉じられた瞼の下に潜む気配は、死に瀕しているとは信じがたいほど獰猛で、傷だらけの長躯には、鋼を束ねたような規格外の筋肉がついていた。
身にまとっている重厚な漆黒の外套は、巨大な爪で引き裂かれたようにズタズタになり、その下の軍装も、胸元から腹にかけて大きく破れている。
そこから見えたのは、直視できないほど深く抉れた、致命的な裂傷だった。
ドクン、ドクンと脈打つたびに、尋常ではない量の鮮血が溢れ出し、薬局の床にどす黒い水たまりを作っていく。
「っ、ひどい……!」
思わず駆け出しそうになってから、ニーナの足がピタリと止まる。
見知らぬ男たちだ。
しかも、どう見てもただの町民や行商人ではない。
彼らから立ちのぼる、濃密な血と雨と、剥き出しの暴力の匂い。
特に、気を失って担がれている大男からは、押し黙っていても周囲の空気を重く圧迫するような、凄まじい存在感と殺気が無意識に漏れ出ている。
関わってはいけない。王都の路地裏なら、絶対に見なかったことにして逃げるべき相手だ。
だが、狐獣人の青年は、ニーナの怯えとためらいを察したのか、床に膝をつき、ほとんど泣き叫ぶような声を上げた。
「頼む、あんた薬師だろ!? 助けてくれ! 金ならいくらでも払う! 俺の命と引き換えでもいい! だから、どうか……こいつを死なせないでくれ!!」
その、なりふり構わぬ切迫した声音に、ニーナの中で『何か』がカチリと音を立てて切り替わった。
怖いとか、怪しいとか、自分が巻き込まれるかもしれないとか。
そういう保身の感情が、一瞬にして頭の隅へと押しやられる。
目の前で、血を流して死にかけている人がいる。
そして自分は、薬師だ。
「そこ、寝台へ! ……いえ、待って、あの体格じゃベッドが壊れるし処置しきれない。奥の作業台のほうが広くて明るいから、こっちに運んでください!」
「わ、分かった!!」
ニーナの力強い声に、狐獣人の青年はハッとして大男を抱え直し、指示通り奥の頑丈な石造りの調剤台へと運んだ。
ドサリ、と重い音を立てて大男が横たわる。
「シロ、邪魔にならないように部屋の隅で待機! いい子だから!」
「……クゥン」
ニーナの真剣な声色に、シロは不満げながらも威嚇をやめ、指示通り部屋の隅へと退いた。
ニーナは即座に大男の濡れた外套と軍装のボタンを引きちぎるように外し、傷の深刻さを確認した。
「……ひどい」
胸から脇腹にかけて、三本の巨大な爪痕が肉を深く抉り取っている。
普通の魔獣の爪ではない。傷口の周囲がドス黒く変色し、微弱な紫色の放電を繰り返している。強力な魔力毒を伴う、変異種の一撃だ。
普通の治療では絶対に間に合わない。
王都で支給されていた安物の回復薬では、表面の傷を塞ぐ前に魔力毒に負けてショック死する。失血も限界を超えており、このままでは数分の命だろう。
「何があったんですか!? この傷、ただの魔獣じゃない!」
「北の山岳地帯の防衛線で、スタンピード(魔獣の大群)に遭遇したんだ。こいつが最前線に立って群れを全部一人で斬り伏せたが……最後に、影に潜んでいた雷属性の変異種が自爆特攻を仕掛けてきやがった……っ」
狐獣人の青年は言葉を切り、悔しさと己の無力さにギリッと強く歯を食いしばった。
「本城まで戻す時間は絶対になかった。吹雪の中で明かりが見えたから、門を強行突破して飛び込んだんだ。ここが薬屋だとは、半分賭けだった……っ」
賭け。
それでも、彼らはこの小さな光にすがるしかなかったのだ。
ニーナは傷口と変色具合を一瞬で見極め、頭の中で必要な処置を猛スピードで組み立てる。
強力な止血、失われた血液の補填、猛毒の中和、そして破壊された内臓と筋繊維の超速修復。
自分が普段作っている「ちょっといいポーション」では追いつかない。
なら――。
ニーナの視線が、鍵のかかった棚の一番奥の箱へ向く。
箱を開けると、そこには一本の豪奢なクリスタル瓶が鎮座していた。
中に入っている黄金色の液体が、ランプの光を受けて、まるで星屑を溶かしたようにとろりと揺れた。
ニーナが王都の宮廷工房で、ありとあらゆる上質な素材を自腹で買い込み、休日のすべてを注ぎ込んで完成させた『最高傑作』。
苦味や雑味(魔力毒)を分子レベルで完全に消し去り、その空いた余白に、治癒力を極限まで高める光の魔力を限界まで圧縮して詰め込んだ特製ポーション。
原価も手間も尋常ではなく、ニーナ自身も「すごいの作っちゃったけど、もったいなくて使えない」と、まだ売り物にすらしていなかった秘蔵の一本だ。
だが、これを惜しむような命の危機など、今をおいて他にない。
「これを使います」
ニーナが黄金の瓶を手に取ると、狐獣人がその凄まじい魔力の波動を感じ取って目を見開いた。
「おい、それは……! とんでもない魔力が見えるぞ……」
「一番効きます。たぶん」
「たぶん!?」
「でも、これ以上に確実に効くものは、王都を探しても今はありません! いいから顎を支えて!」
有無を言わさぬ迫力で言い切りながら、ニーナは親指でコルク栓を弾き飛ばした。
ぽんっ、という音と共に、ふわりと、この血生臭い空間を塗り替えるような、極上の甘い香りが広がった。
最高級の黄金蜂蜜に、春の花々の蜜を溶かし込んだような、柔らかく、どこまでも温かな匂い。
こんな緊迫した凄惨な状況には、どう考えても似つかわしくない、お菓子のような香りだった。
「……は? なんだこの甘い匂いは……」
狐獣人がポカンとするが、ニーナは構わず叫ぶ。
「口を開けさせてください!」
狐獣人が慌てて大男の強靭な顎に手をかけ、少しだけ口を開かせる。
ニーナは瓶の口を大男の血の気のない唇へ当て、慎重に、しかし素早く黄金の液体を流し込んだ。喉が反射で嚥下できるよう、首の角度を調整しながら、一滴もこぼさないように。
「お願い……飲んで……! 死なないで!」
ごくり。
金色の液体が、大男の喉を通る。
一滴、二滴、三滴。
瓶の半分ほどを流し込んだ、次の瞬間だった。
カッ……!!
大男の致命傷だった傷口が、強烈な黄金色の光を放った。
「……え?」
ニーナが息を止める。
見開かれた狐獣人の目の前で、信じられない光景が繰り広げられていた。
雷の毒でドス黒く壊死しかけていた肉が、ジュワァァァッという音と共に瞬時に浄化され、目に見えるほどの凄まじい速さで肉芽が盛り上がり、傷口を塞ぎ始めたのだ。
噴水のように溢れていた出血がピタリと止まり、抉れていた内臓が編み直されるように修復され、切断された筋繊維が強靭に結びつき、赤黒かった裂傷がみるみるうちに薄いピンク色の新しい皮膚へと変わっていく。
「おい……嘘だろ……」
狐獣人が、腰を抜かしたようにへたり込み、呆然と呟いた。
わずか十数秒。
それだけで、大男の命を奪うはずだった致死の重傷は、薄い白い傷跡を残すだけになり、完全に塞がってしまった。
死にかけて浅くなっていた男の呼吸も、深く、力強い、本来の安定したものへと戻っていく。蒼白だった顔にも、確かな血の気が戻っていた。
「助かった……?」
狐獣人が、夢でも見ているかのように震える声で呟く。
ニーナも、手にした空の瓶を見つめながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
「た、たぶん……完全に峠は越えました。毒も抜けてます」
「峠どころの話じゃない!! 今の傷、内臓も肋骨も完全に砕けてたんだぞ!? 神殿の最高位聖女の『奇跡』だって、こんな一瞬で治るわけがない!!」
「え、ええと……材料がよかったのかな……? 効いてくれてよかったです……」
正直、ニーナ自身も、自分の作った薬がここまでデタラメな即効性と再生力を持っているとは思っていなかった。
最高品質を目指して、魔力毒を限界まで抜いた結果とはいえ、これはもう“薬”というより“奇跡”の領域だ。
だが、今は自身のスキルの検証よりも、患者の容体が最優先だ。
ニーナは急いで追加の浄化の魔法をかけ、濡れたタオルで血の跡を丁寧に拭い取る。失血で身体はまだ冷えきっているので、奥からありったけの毛布を引っ張り出してきて、大男の上から何枚もかけた。
「とにかく、一晩は絶対安静で温めます。あなたもずぶ濡れで寒いでしょ? そこのタオル使ってください。暖炉の前に椅子を出しますから」
「あ、ああ……すまない、本当に……」
狐獣人は未だに信じられないという顔で、大男の寝息を確認していた。
その時だった。
部屋の隅で大人しくしていたシロが、いつの間にか調剤台のすぐ近くまで忍び寄ってきていたのだ。
純白の毛を総毛立たせ、鋭い銀色の瞳で、眠る大男をじっと睨み下ろしている。その表情は、可愛い子犬のそれではなく、完全に「自分の縄張りに侵入してきた、無視できない巨大な脅威」に対する絶対的な警戒と敵意だった。
「シロ、だめよ。危ないから下がって」
「……グルルルルッ……!!」
「シロ? どうしたの?」
いつもなら「きゅう」と鳴いてニーナの足元にすり寄るのに、今日は一歩も動かない。
どころか、喉の奥から空気を震わせるような恐ろしい唸り声を上げている。
狐獣人が、その異常な殺気にぎょっとして尻餅をついたまま後ずさった。
「な、なんだこの犬……!? ただの魔獣じゃない、とんでもないプレッシャーだぞ……ッ!」
「え? 森で拾ったただの怪我した犬です。たぶん」
「たぶんって何だ!!」
その、騒がしいやり取りの最中だった。
ピクッ、と。
調剤台の上に横たわっていた大男の太い指が、動いた。
ニーナも狐獣人も、息をのんで硬直する。
次いで、重たい漆黒の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
現れたのは、鋭く冷酷な、灰銀の瞳だった。
極寒の嵐の夜空をそのまま凝縮したような、底知れず冷たく、凶暴で、命を刈り取ることに一切の躊躇がない捕食者の目。
その目が焦点を結ぶなり、男は周囲の状況を瞬時に判断し、反射的に跳ね起きようとした。
「動かないでください!」
ニーナは無意識に前に出て、男の分厚い胸板を両手でバンッと押さえつけた。
「外傷は塞がってますけど、血が足りてません! 絶対安静です!」
男の鋭い視線が、自分を押さえつける小さなニーナを射抜いた。
ドクンッ、と。
あまりの威圧感と殺気に、ニーナの心臓が恐怖でひゅっと縮み上がる。
怖い。
本能が、逃げろと警鐘を鳴らす。とっさにそう思うほど、その目には理性を持った獣の、圧倒的な暴力の気配があった。
しかしニーナは、錬金術師としての矜持で、その視線から絶対に目を逸らさなかった。
数十秒の、永遠にも思える無言の睨み合い。
やがて、男はニーナの瞳の中に「怯え」よりも「患者を救おうとする強い意志」を見出したのか、ふっ、と微かに殺気を引っ込めた。
そして、酷く掠れた低い声で口を開いた。
「……ここは、どこだ」
「ルーンフェルドの南区にある、私の薬局です。あなた、死ぬ一歩手前の重傷だったんですよ」
男は怪訝そうに眉を寄せ、己の傷跡に触れ、それから記憶を探るように目を細めた。
その横で狐獣人が、今にも泣きそうな顔で安堵の息を吐き、身を乗り出す。
「団長!! よかった……気がついたか!」
「……レオンか。随分と、みっともない顔をしているな」
「うるせえ! 誰のせいだと思ってんだ! 心臓止まるかと思ったぞ!」
どうやら彼の名はレオンというらしい。
そして彼が“団長”と呼ぶということは、この大男は相応の地位と武力を持つ、騎士団のトップなのだろう。
男――団長は、レオンの軽口を鼻で笑い飛ばし、再び少しぼんやりした様子のまま、ニーナをじっと見つめた。
それから、ふっと形の良い鼻先を動かす。
「……ひどく、甘い匂いがするな」
「え?」
「お前からか? それとも……俺が飲まされた薬の匂いか」
低く掠れた、大人の色気のある声で問われ、ニーナは空の瓶を持ったままビクッと固まった。
「あ、ええと、その……私が作った特製ポーションです。患者さんが飲みやすいように、苦味を消して蜂蜜と花の蜜の味で調整してあって……」
王都で、クロードに幾度となく「ふざけた薬だ」「宮廷の恥だ」と瓶を割られ、罵られた記憶が、反射的に脳裏をよぎる。
また「こんなお菓子みたいな薬を飲ませたのか」と怒鳴られる。
思わず身構えてぎゅっと目を瞑ったニーナだったが、男は怒るどころか、わずかに灰銀の目を見開き、信じられないものを見るような顔をした。
「蜂蜜……味? これが、魔法薬だと?」
「は、はい。ご不快でしたら申し訳ありません……」
すると、横からレオンが、狐の耳をピコピコと動かしながら、恐る恐るニーナの手元の瓶を指差した。
「なあ、お嬢ちゃん。その……その薬、少しだけ、残ってるか?」
「え? 数滴なら瓶の底にありますけど……?」
「俺にも、ひと舐めさせてくれ!!」
「えっ!?」
必死すぎる、切実な声だった。
ニーナは戸惑いながらも、瓶の口にほんの少しだけ残っていた黄金の液体を、小皿にトントンと垂らして差し出した。
レオンは皿を受け取ると、ごくりと喉を鳴らし、それを舌先で恐る恐る、ぺろりと舐めた。
次の瞬間。
「――ッッッ!!?」
レオンの頭の上の狐耳が、ピンッッ!! と天を突く勢いで直立した。
さらに腰の尾が、ボンッ! と膨れ上がり、ブルブルと震え始める。
「に、苦くない……!!」
「え?」
「痛くない! 舌が痺れない! 泥の味もしないし、胃袋が焼けるような悪臭もない! 何これ、えっ、嘘だろ!? 薬って、こんな美味しくていいのか!?」
大の男が、目に見えてガクガクと震えていた。
感極まったように、金の瞳にポロポロと大粒の涙まで浮かべている。
「うま……っ、うますぎる……! これなら、もう薬を飲むたびに気絶しなくて済む……ッ!」
「そ、そんなに……?」
ニーナはポカンとするしかなかった。
王都では「恥」と言われた味だ。
それをこの狐獣人の青年は、まるで神の救い、奇跡の雫でも味わったかのような顔で男泣きしているのだ。
(そういえば、昔読んだ文献で……獣人は嗅覚と味覚が人間の数倍鋭いから、わずかな魔力毒でも劇薬のように感じてしまうって……)
ニーナがふと腑に落ちた顔をしていると、調剤台の上の団長も、己の口の中に残る甘美な後味を感じながら、じっとニーナを見つめていた。
鋭い目つきのままなのに、その視線の奥に宿る色が、先ほどとは明確に違う。
敵に対する警戒ではなく、もっと別の――驚愕と、深い関心と、ほのかな熱を帯びた色だ。
「……お前が、俺を助けたのか」
改めて真っ直ぐに問われて、ニーナはこくりと頷いた。
「は、はい。応急処置をしただけです。でも、助かって本当によかった……」
その純粋な言葉に、男はしばし沈黙した。
やがて、ゆっくりと身体の力を抜き、再び寝台へ身を預ける。
「……恩に着る。俺の命は、お前のものだ」
短い、しかし途方もなく重い一言だった。
その声音には、決して違えることのない強固な誓いが込められていた。
レオンも勢いよく土下座の勢いで頭を下げる。
「本当に助かった! 礼は必ずする。金でも、この街の土地でも、欲しい品でも、何でも言ってくれ!」
「い、いえ! そんな大げさな……私は薬師としての仕事をしただけですから。今はとにかく休んでください」
そう謙遜して答えつつも、ニーナの胸は早鐘のようにどきどきしていた。
なんなのだろう、この人たち。
ただの荒くれ者の傭兵などでは絶対にない。
しかもこの団長と呼ばれた大男からは、怪我をして寝ている今でさえ、凄まじい覇気と権力がにじみ出ている。
まるで、群れを統べる孤高の狼だ。
その時、足元でずっと低く唸っていたシロが、我慢の限界とばかりにひょいとベッドの端へ前脚をかけた。
ニーナが止める間もなく、ふんすっ、ふんすっ、と大男の顔の近くで匂いを嗅ぐ。
「シロ! だめよ、失礼でしょ!」
ニーナが叱ろうとしたが、団長はなぜかシロを見て、面白そうに眉をひそめただけだった。
そして、ぼそりと呟く。
「……随分と、生意気で魔力の高い白い毛玉だな。俺に喧嘩を売っているのか?」
「グルルルルッ!!(お前こそ、俺のママに色目を使うな!)」
「ちょ、ちょっと二人とも! 怪我人と犬で睨み合わないで!」
思わず間に割って入ってそう言うと、レオンが「ぶふっ!」と盛大に吹き出した。
「はははっ……! あー、腹痛ぇ! 団長に向かって『犬と仲良くしろ』なんて説教する女、初めて見たぞ!」
「え?」
「お嬢ちゃん、この人が誰だか、本当に知らないんだな?」
狐耳を揺らして笑い転げながら、レオンはどこか愉快そうに言う。
そして立ち上がり、居住まいを正して、誇らしげに告げた。
「この方は、北方辺境を護る『黒狼騎士団』の総団長。そして、このグラキエス領を統べる領主――ガルシア・ヴァルグリム公爵閣下だ」
「……へ」
ニーナの思考が、完全にフリーズした。
黒狼騎士団。
この辺境で最強と名高い騎士団の名だ。道中の馬車の中で、商人のおじさんが恐ろしげに語っていたのを覚えている。魔獣討伐の最前線に立ち、王国北方を血塗れになって守り続ける精鋭中の精鋭。
その団長は、冷酷無慈悲で敵に一切の容赦をしないことから【狂犬公爵】と恐れられている――王都にまでそんな噂が届いていたはずだ。
そして今、目の前で自分の作った甘い薬を飲んで寝ている男が。
「き、狂犬、公爵……様……!?」
思わず、一番言ってはいけない異名を口に出してしまった。
しまった、とニーナの顔が引きつり、血の気が引く。
だがガルシアは怒り狂うでもなく、ただ鋭い半眼でレオンをジロリと睨みつけた。
「レオン。貴様、無駄に怖がらせるような余計な異名まで言うな」
「いや、でも一番有名だし、自己紹介としては分かりやすいかと」
「黙れ。明日から一ヶ月、便所掃除だ」
低い声で無慈悲に切り捨てられ、レオンは「ええーっ!?」と狐耳をしおれさせた。
ニーナはますます混乱した。
目の前の男はたしかに怖い。規格外に強いし、殺意の圧がある。今にも誰かを噛み殺せそうな鋭い目つきもしている。
けれど、王都で弱い者いじめをして理不尽に威張り散らしていたクロードとは、決定的に何かが違う。
暴力の気配があるのに、不思議と“こちらを不当に踏みにじるためのもの”ではないという、奇妙な安心感があった。
「……と、とにかく! 今夜は絶対安静です!」
混乱を力技でごまかすように、ニーナは腰に手を当ててきっぱりと言い放った。
「公爵様でも団長様でも、狂犬でも、私の薬局ではただの『患者さん』には変わりありません! 勝手に動いたら傷が開きますから、大人しく寝ていてください!」
一国の公爵に対する不敬スレスレのその言葉に、レオンが「ひっ」と息を呑んだ。
ガルシアは一瞬だけ目を瞬いて呆気にとられたあと――なぜか、ほんの少しだけ、口角を柔らかく緩めた。
「……分かった、俺の小さな主治医殿。お前の命令に従おう」
その、ひどく甘く優しい表情はほんの一瞬で消えたが、確かに笑ったように見えて、ニーナはまた心臓が大きく跳ねるのを感じた。
外の嵐の音はなおも激しく、容赦なく窓を叩き続けている。
けれど小さな薬局の中には、赤々と燃える暖炉の火と、湿った毛布の匂いと、ほんのり甘い蜂蜜の香りが満ちていた。
こうして、ニーナの穏やかな辺境スローライフに、最強の黒狼騎士団と【狂犬公爵】ガルシアが、文字通り嵐のように転がり込んできたのだった。
それが、彼女の人生とこの国の運命を大きく変えていく、長くて熱い夜の始まりだとは、まだ誰も知る由もなかった。




