第3話 怪我をした白い子犬(?)のお客様
最果ての地、ルーンフェルドでの朝は、驚くほど静かで、どこまでも清らかだった。
王都の宮廷工房にいた頃の朝は、まだ空が白む前から絶望と共に始まっていた。せわしない人々の足音、上役たちのヒステリックな怒声、どこかで重い荷車が軋む音、そして「ニーナ! あれはどうなった!」とドアを乱暴に叩かれる音。万年寝不足で眠りの浅いニーナは、そのたびに心臓を跳ねさせ、びくりと肩を震わせて目を覚ましたものだ。
けれど、この街の朝はまったく違う。
すきま風を防ぐために分厚くした窓ガラスの向こうに広がるのは、降り積もった雪にすべての音を吸い込まれた、静寂で青白い世界だ。
遠くで街の防壁を見回る騎士たちの鐘が一つ、冴え渡る空気に澄んだ音を響かせる。家々の煙突から上る白い煙が、東の空から差し込む淡い朝日に染まり、薄紅色の帯を作っている。時折、通りを歩く早起きの街人の足音が、きゅっ、きゅっと新雪を踏みしめる音を立てるだけで、それ以外はしんと穏やかだった。
「……んん……よく、寝たぁ……」
ニーナは真新しい寝台の上で、ふかふかの毛布にくるまりながら、ぽわんと気の抜けた声で呟いた。
昨夜はまだ荷解きも終わっておらず、トランクや木箱に囲まれたまま眠ったというのに、自分でも驚くほどぐっすりと深く眠れた。
誰にも急かされず、夜中に急患の薬を作れと叩き起こされることもなく、ただ自分でくべた暖炉の火がぱち、ぱちと小さく爆ぜる音を子守唄にして眠れる。
たったそれだけの、人間として当たり前のことが、こんなにも幸せだったなんて。
のそりと起き上がり、窓を開けると、氷のように冷たい空気が容赦なく頬を撫でた。
「ひゃっ!」と一瞬首をすくめたが、空は高く晴れ渡り、昨夜積もった雪が陽光を反射してきらきらとダイヤモンドのように輝いている。
「今日は絶好の、薬草採り日和かも!」
この数日で、店舗兼住居の中はだいぶ薬局らしく整ってきた。
生活魔法を駆使して長年の汚れを落とし、カウンターをピカピカに磨き上げ、拾ってきた木材で壁に簡単な商品棚を作り、奥の作業台には愛用の調合釜を鎮座させた。住居部分も最低限の生活必需品を揃え、人間らしい暮らしができるようになっている。
まだ外に看板は出していないが、開店準備はすこぶる順調だ。
ただ、今のニーナには肝心の『材料』が決定的に不足していた。
王都から持ち込んだ乾燥薬草や精製済みの魔鉱液はあるものの、それはあくまで応急処置用だ。この地で継続的に、しかも安価で薬局を営むなら、この土地に自生する薬草の生態を把握し、自分の足で採取しなければならない。
気候が違えば採れる素材も違うし、過酷な寒冷地を生き抜く植物には、王都の温室育ちの薬草にはない、強靭で特異な効能を持つものが多いはずなのだ。
昨日、家を紹介してくれた雑貨屋の店主に聞いたところ、街の北門を抜けた裏手にある深い森には、冬場でも初級から中級の薬草がそこそこ自生しているらしい。魔獣の生息域でもあるため深く立ち入るのは危険だが、浅い場所なら街の者も薪拾いに入るとのことだった。
「よし、行こう。私のお店の商品第一号を見つけに!」
ニーナは手早く身支度を整え、市場で買った一番厚手のウールのコートに袖を通し、もこもこの毛糸の帽子と手袋を身につけた。背中には採取用の大きな籠を背負い、腰のベルトには小型のナイフ、簡易なすり鉢、清潔な包帯、そして念のために自作の『甘い微細ポーション』を数本入れたポーチを下げる。
王都でも、休日のたびに一人で郊外へ薬草採取に出かけていたニーナにとって、これはお決まりの外出装備だった。
玄関の重い扉を開け、外に出ると、足元の雪がきゅっと心地よい音を鳴らした。
街の北門で顔見知りになった門番に挨拶をし、木柵沿いの道をしばらく歩けば、すぐに鬱蒼とした針葉樹の森が広がっていた。
天を突くような巨木たちが立ち並び、枝先には白い雪がこんもりと積もっている。時折、風が吹くたびにぱさりと雪片が落ち、ダイヤモンドダストのようにきらきらと舞う。空気は肌を刺すほど冷たいが、どこまでも澄んでいて、深呼吸すると鼻の奥がつんとするくらい清浄な魔力に満ちていた。
「わあ……綺麗。空気が、美味しい」
思わず足を止め、森の入り口で大きく息を吸い込む。
森は静かだった。
しかし、ただの無音ではない。風が梢を揺らすかすかな音、名も知らぬ小鳥の羽ばたき、どこかで雪が落ちる気配。そんな小さな生命の音だけが、白と緑の世界の輪郭を優しく縁取っている。
ニーナは雪を掻き分けながら進み、ふと巨木の根元にしゃがみ込んだ。
そこには、雪の合間からひっそりと顔をのぞかせる、青みがかった肉厚の葉があった。
「これ、もしかして『氷舌草』……? こんな群生してるの!?」
目を輝かせて葉に触れる。
氷舌草は、強い冷却効果と消炎作用を持ち、高熱や喉の激しい痛みを一瞬で和らげる貴重な薬草だ。王都では、魔力を失ってカラカラに乾燥した粗悪品ですら銀貨数枚で取引される高価な素材だったが、ここでは足元に雑草のように生えている。
「すごい……葉の厚みも魔力濃度も、王都で見ていたものと全然違う。これにハチミツと甘草を合わせたら、子どもでも美味しく舐められる『喉の痛み止めシロップ』が作れるわ!」
ニーナの頭の中で、瞬時に新しい薬のレシピが組み上がっていく。
他にも、切り傷の治りを早める『霜花の根』や、魔力回復に効く『雪白苔』、滋養強壮に優れた『冬眠花のつぼみ』など、寒冷地ならではの良質な素材が、雪を掘り返すたびに次々と見つかった。
「すごい、すごい! この森……錬金術師にとって宝箱みたい!」
冷たさも忘れ、籠に次々と薬草を入れながら、ニーナの頬は自然と緩みっぱなしだった。
これまでの宮廷での薬作りは、上司から与えられた劣悪な材料で、決められた古い処方を機械のように量産することばかりだった。もちろん、こっそり毒抜きをして飲みやすくする工夫はしてきたけれど、こうして自然の素材そのものを見て、土地の魔力を感じて、誰のためでもなく自分の意思で薬を組み立てるのは本当に久しぶりだった。
楽しい。錬金術って、こんなにワクワクするものだったんだ。
心からそう思えた。
夢中で薬草を探して雪を掘り返しているうちに、いつの間にかニーナは森の少し奥へと足を踏み入れていたらしい。振り返ると、街の石壁や屋根はすでに木々に隠れ、周囲には見渡す限りの白と深い緑の世界だけが広がっていた。
「いけない、調子に乗りすぎちゃった。そろそろ戻らないと……」
籠はずっしりと重くなっている。ニーナが立ち上がり、足についた雪を払おうとした、その時だった。
「……きゅうん」
風の音に混じって、か細い鳴き声が聞こえた。
ニーナはぴたりと動きを止める。
「……今の、何?」
耳を澄ます。
すると、風下の方角から、また微かに聞こえた。
「きゅ……ぅ……、ぐるぅ……っ」
弱々しく、痛みに震えるような声。しかしその奥底には、決して屈しない獣特有の警戒心が混じっている。
小さな動物だろうか。それも、相当弱っている。
ニーナは籠を背負い直し、音のするほうへ慎重に歩き出した。雪に足を取られながら太い木立を抜け、身の丈ほどもある巨大な岩陰を回り込む。
すると、その先の吹き溜まりの雪の中に、真っ白な毛玉のような塊がうずくまっているのが見えた。
「……っ!」
思わず息を呑む。
それは、真っ白な子犬だった。
新雪と見紛うほど純白で、月の光を紡いだように美しい毛並み。ピンと立ったふわふわの耳。ころんとした丸い身体。
けれど、その痛々しい姿にニーナの顔は青ざめた。子犬の右の前脚が、赤錆びた無骨な鉄の塊――密猟者が仕掛けたであろう、凶悪な獣避けの罠に深く挟まれていたのだ。
周囲の純白の雪には、痛々しい赤黒い血がべっとりと滲み広がっている。子犬は激痛に震え、荒い息を吐きながら、自らの脚を噛みちぎってでも逃れようと必死に身をよじっていた。
「だ、大丈夫!? 今助けるからね!」
ニーナは籠を放り出し、慌てて駆け寄って雪の上に膝をついた。
「グルルルルルルッ……!!」
ニーナが近づいた瞬間、子犬はびくっと身体を強張らせ、牙を剥いて低く唸った。
その小さな身体から放たれたのは、本来ならば屈強な騎士ですら恐怖で腰を抜かし、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるほどの圧倒的な『威圧感』だった。彼こそは、森の頂点に立つ神獣フェンリルの幼生。傷ついてなお、不用意に近づく者を氷漬けにするほどの濃密な冷気を纏っていた。
……しかし。
宮廷で致死量の魔力毒を毎日素手で中和し続け、異常なまでの魔力耐性を(無自覚に)身につけていたニーナにとって、その神獣の威圧感は「ちょっと冷たい風が吹いたかな?」程度のものだった。
「こら、暴れたら傷が広がるでしょ。怖くないよ、大丈夫だからね」
「……えっ?」という顔で目を丸くするフェンリルの子犬を他所に、ニーナは微塵も怯むことなく、その小さな頭を優しく撫でた。
青みがかった美しい銀色の瞳が、驚きと戸惑い、そして痛みの涙で潤みながらニーナを見上げる。その目があまりにも幼くて、必死で生きようとしていて、ニーナの胸はぎゅっと締め付けられた。
「怖いよね。痛いよね。こんな酷い罠を仕掛けるなんて……でも、もう大丈夫よ」
母のように優しい声で言い聞かせながら、ニーナはそっと毛糸の手袋を外した。素手のほうが、罠の構造と傷の深さを正確に把握できるからだ。
冷気を放っていた子犬は、ニーナの温かく柔らかい手が触れた瞬間、なぜかスッと全身の力を抜いた。不思議と、この人間の手からは一切の悪意も、欲も感じなかったからだ。
ニーナは素手で罠の構造を確認する。
かなり古いが、魔石を組み込んだ特殊な罠らしく、ばねの力は異常なほど強い。無理に引っ張れば、細い脚の骨が完全に砕けてしまうだろう。
「少し動くけど、我慢してね」
子犬は怯えたように「きぅぅ」と鼻を鳴らしたが、もう噛みつこうとはしなかった。ただじっと、救いを求めるようにニーナを見上げている。
ニーナは腰のポーチから、一本の小さなガラス瓶を取り出した。
中身は、朝焼けのように淡い桃色をした液体――ニーナ特製の『甘い微細回復ポーション』だ。即効性こそ上級ポーションに劣るが、傷口への刺激(魔力痛)が一切なく、塗布にも服用にも使えるよう極限まで毒素を抜いて調整してある。小動物や体力のない子ども向けに、味は甘くて美味しい『ピーチ味』に仕上げていた。
「まずはこれね。ちょっと冷たいよ」
瓶のコルク栓を抜くと、ふわりと完熟した桃の甘い香りが雪の森に広がった。
嗅覚が人間の何万倍も鋭い神獣の子犬は、魔法薬特有の「泥と苦虫が腐ったような激臭」を覚悟して目をギュッと瞑っていたが、予想外の甘い匂いに、ぴくりと鼻先を動かした。
「偉いわ。いい匂いでしょう?」
ニーナはまず、罠に食い込んだ傷口の周りに、ポーションを数滴たらした。
ジュワッ、という音と共に淡いピンク色の光が弾け、肉が裂けて出血していた部分の血がピタリと止まる。通常、魔法薬を傷口にかけると焼けるような激痛が走るものだが、毒素を完全に抜かれたニーナの薬は、ただひたすらに優しく、患部をひんやりと包み込んだ。
「きゅ……?」
痛みがスッと引いたことに驚き、子犬が目を瞬かせる。
痛みが和らいで脚の筋肉が緩んだ隙を突き、ニーナはトラバサミの鉄の刃の両端に素手をかけた。
「……せーのっ!!」
火事場の馬鹿力と、微弱な身体強化魔法を指先に込め、ぐっと力任せに罠をこじ開ける。
冷えた鉄は硬く、ニーナの指先から血が滲んだが、なんとか数センチ開いた隙間から、子犬の脚をそっと滑り抜かせることができた。
ガァンッ!! とけたたましい音を立てて、空になった罠が閉じる。
「取れた……! よかったぁ……」
ニーナがほっと息を吐いた瞬間、緊張の糸が切れた子犬の身体がぐらりと横に傾いた。
激しい出血と寒さ、そして痛みによる疲労で、体力の限界だったのだろう。ニーナは慌ててその小さな身体を抱き上げた。雪の中にいた子犬の身体は、氷のように冷え切っていた。
「だめ、このままだと凍えちゃう!」
ニーナは躊躇うことなく自分のコートの前を開き、セーター越しの胸元に子犬を抱え込んだ。自分の体温で直接温めながら、残りのポーションを口元に持っていく。
「はい、お薬飲める? 美味しいから、きっと大丈夫よ」
子犬は最初こそ、「人間の作る薬なんて絶対に飲みたくない」というように顔を背けていたが、ニーナが指先に一滴つけて鼻先に塗ってやると、ぺろ、と舐めた。
その途端、銀色の瞳が「カッ!」と見開かれた。
「きゅ……!?」
なんだこれは。
苦くない。臭くない。それどころか、果実の甘露のように甘くて、とびきり美味しい!
獣の常識を覆すその味に、子犬はもう一度舐める。さらにもう一度。
やがて夢中になったように、両前脚でニーナの手をぎゅっと掴み、ぺろぺろ、ちゅぱちゅぱと、一心不乱に瓶の口からポーションを飲み始めた。
「ふふっ、ゆっくりでいいのよ。気に入ってくれてよかった」
勢いよく飲むその様子がたまらなく可愛くて、ニーナは自然と破顔した。
ポーションを飲み干してしばらくすると、子犬の脚に残っていた深い傷痕は、淡い光に包まれてみるみるうちに完全に塞がっていった。最後に薄いピンク色の皮膚が再生し、毛並みまで元通りになる。
歩けるか確認しようと地面へ下ろすと、子犬はおそるおそる右前脚をつき、それから雪の上をぴょんぴょん、タタタッと駆け回った。
「わあ、すごい! すっかり元通りね!」
ニーナは自分の作った薬の効き目に安堵し、胸を撫で下ろした。
子犬は数歩走った後、くるりと振り返り、そんな彼女を見上げたまま、じっと動かなくなった。
賢そうな銀色の瞳が、まるで「助けてくれてありがとう。もう痛くないよ」と伝えるように、細められる。
「さて、と。お家、どこなのかしら……お母さんとはぐれちゃったの?」
首輪はない。こんな森の奥にいるのだから、野生の動物なのだろう。けれど、その絹糸のように艶やかな毛並みと、知性を感じる瞳は、とてもただの野犬には見えなかった。
どうしたものかと困っていると、子犬は突然、勢いよくしっぽを振り始めた。
短くて丸いふわふわのしっぽが、ぶんっ、ぶんっ、ぶんっ! と、プロペラのように千切れそうなほどの高速で揺れる。
「えっ、なに?」
次の瞬間。
「きゅうぅぅーーっ!!」
白い弾丸と化した子犬が、雪を蹴立ててニーナに向かってロケットのように飛び込んできた。
「きゃあっ!?」
ニーナの胸元に、もふっ! と極上の柔らかい衝撃が走る。
そのまま子犬は彼女の腕の中にすっぽり収まり、接着剤でもついたかのようにぴたりと密着した。ふわふわの毛がニーナの顎や頬にすりすりと触れて、たまらなくくすぐったい。小さな鼻先がコートにぐりぐりと押しつけられ、全身で「大好き! 恩人!」と甘えるように擦り寄ってくる。
「ちょ、ちょっと、ふふっ、くすぐったい! なあにもう……」
あまりの勢いに雪の上に尻もちをつきながらも、ニーナは子犬をぎゅっと抱き留めた。
温かい。
ついさっきまで氷のように冷え切っていたのに、今は腕の中で、生命力に満ちた確かな体温が脈打っている。小さな心臓の鼓動も、元気よくとくとくと鳴っていた。
「助かってよかったわ、本当に」
子犬の背中を撫で下ろすと、極上のベルベットのような手触りにニーナ自身が癒される。子犬もうっとりとしたように目を細め、喉をごろごろと鳴らした。
その圧倒的な可愛さに、ニーナの頬はだらしなく緩みっぱなしだった。
ただ、問題が一つある。
「……あなた、どうしよう。置いて帰れないよね」
空はまだ明るいが、冬の森の夜は早い。
こんな小さな子犬(しかもさっきまで大怪我をしていた)を、魔獣の出る森へ置いて帰るなんて絶対に無理だ。
悩んでいると、子犬はまるで「何言ってるの? 一緒に帰るんでしょ?」とでも言うように、当然の顔でニーナの腕の中に収まったまま、絶対に動かないという強い意志を見せた。前脚でニーナの服をぎゅっと掴んでいる。
「……連れて帰られる気、まんまんね?」
「きゅぅん」
コテン、と完璧な角度で首を傾げられ、ニーナは一秒で敗北を悟った。
「……仕方ない。とりあえず、怪我人――じゃなくて、怪我犬は保護です。うん、私が責任を持って保護するだけだから」
誰に言い訳するでもなくそう呟き、ニーナは子犬をコートの内側にしっかり抱き直した。
見た目よりもずっと軽い。けれど、驚くほど毛並みが密で、極上の湯たんぽを抱いているみたいにぽかぽかと温かい。
街へ戻る道すがら、子犬は一度も暴れなかった。時々、ニーナの顔を見上げては嬉しそうに目を細め、また胸元に顔を埋める。そのたびにピンと立った白い耳がぴくぴく揺れて、ニーナの心臓にクリティカルヒットを与え続けた。
「あなた、お名前はどうしようかなあ」
雪道を踏みしめながら、ふと思いついて呟く。
すると子犬は、ぴくりと耳を立ててニーナを見上げた。
「真っ白で雪みたいだから……『シロ』、とか?」
その瞬間だった。
ぶんぶんぶんぶんっ!!
腕の中で、シロのしっぽの振りが一段と激しくなった。風圧を感じるレベルだ。
「えっ、気に入ってくれたの?」
「きゅうっ!」
「ふふ、分かりやすいわね。じゃあ、決定。今日からあなたはシロね」
そう言って冷たい鼻先にこつんと額を合わせると、シロは嬉しそうにニーナの鼻の頭をぺろりと舐めた。
薬草を抱え、シロを連れて薬局へ戻った頃には、外はすっかり薄暗くなっていた。
冷え切った部屋の暖炉に急いで火を入れ直し、ニーナはまず大鍋でお湯を沸かす。シロ用には、喉が渇いているだろうからと、ぬるめの白湯に少しだけ疲労回復の甘いシロップを混ぜたものを用意した。
「さあ、シロ。血と泥がついちゃってるから、身体を拭かせてね」
温かいお湯で濡らして固く絞った柔らかい布を用意し、シロの身体についた雪や血の跡を丁寧に拭いていく。
すると、濡れてペシャンコになっていた毛が乾くにつれて、とんでもない現象が起きた。
ボンッ!
「わぁっ!?」
拭き終わったシロの毛並みが、一気に数倍のボリュームに膨れ上がったのだ。
まさに『もふもふの暴力』。歩く高級綿あめである。
「なにこれ、もふっもふ……!」
シロを抱き上げると、手が毛の中にずぼっと沈み込む。
シロは大人しくされるがままになっていたが、ニーナが顎の下や耳の後ろをくしゅくしゅと念入りに撫でると、「きゅぅぅ……」ととろけたような声を出して、完全にニーナの膝の上にスライムのように液状化してへたり込んだ。
「可愛い……可愛すぎる……。これは犯罪級よ……」
思わずそのもふもふのお腹に顔を埋めて深呼吸すると、お日様と新雪を混ぜたような、とてもいい匂いがした。シロも当然のようにニーナの頬を舐め返し、二人は暖炉の前でしばらくもふもふの応酬を繰り広げた。
簡単な診察の結果、脚の傷は後遺症もなく完璧に治っていた。化膿の気配もなく、元気そのものだ。
「よし、偉かったね。痛いのにいっぱい頑張ったね」
思い切り褒めてやると、シロは誇らしげに胸を張り、尻尾で床をぱたぱたと叩いた。
その夜、ニーナの食卓は一人ではなく、一人と一匹になった。
市場で買っておいた安い鶏肉を柔らかく煮込み、シロ用のお皿に少し冷まして取り分ける。シロは小さな身体からは想像もつかないほどの勢いで「ハグハグハグッ!」と食べ、あっという間に皿をピカピカに舐め回した。
食後は満腹になったのか、ニーナの足元にぴたりとくっついて、丸くなって離れなかった。
「ふふっ、そんなにくっつかなくても、どこにも行かないわよ?」
「くぅん」
「……甘えん坊さんね」
くすりと笑いながら、ニーナは今日採ってきた薬草の仕分けと、明日の仕込みを少しだけ進める。
その間も、シロは足元で丸くなりながら、時折銀色の瞳を開けてはニーナを見上げていた。まるで「僕の恩人、どこにも行かないでね」と言いたげに。
夜も更け、仕込みを終えたニーナが寝台へ向かう。
すると、シロがトタタッと先回りして、当然のような顔でちょこんとベッドの足元のど真ん中へ飛び乗った。
「えっ」
ニーナは目をぱちぱちさせる。
「そこ、シロの場所って決めたの?」
シロは返事の代わりに、その場でくるくると三回回り、ぽすんっと丸くなった。
ふわふわのしっぽを鼻先に巻きつけて、もう絶対にどかないという顔で目を閉じている。
「……まあ、怪我人(犬)だものね。今日だけ特別よ?」
自分に言い聞かせるように呟き、ニーナは苦笑して寝台に潜り込んだ。
でも正直、すごく嬉しい。広くない部屋でも、一人きりではないと思うだけで、こんなにも心が満たされて温かくなるなんて。
毛布をかぶると、足元からほわっとした、まるで極上の魔法陣のような強力なぬくもりが伝わってくる。
暖炉の火は寝る前に落としたが、シロのおかげで冷え込みの厳しい辺境の夜でも、まったく寒さを感じなかった。
「シロ」
そっと呼ぶと、足元の白いもふもふがぴくりと耳を動かした。
「私を見つけてくれて、うちに来てくれて、ありがとう」
返事の代わりに、小さな鳴き声が一つ、闇の中に響いた。
「きゅう」
まるで「こちらこそ、ママ」とでも言うみたいで、ニーナはたまらなく愛おしくなり、微笑みながら目を閉じた。
こうして、辺境の薬局でのニーナとシロの、甘くて温かい共同生活は始まった。
森で拾った、怪我をした白い子犬。
やけに賢すぎる気もするし、毛並みも普通の犬よりずっと綺麗だけれど、今のニーナにとっては、ただ可愛くて、温かくて、誰よりも大切な初めての家族(同居人)だった。
ニーナはまだ知らない。
この小さくて愛らしい白いもふもふの毛玉が、ただの子犬などではないことを。
かつて大陸を氷河期に沈めかけたと王国史の裏で語り継がれる、伝説級の神獣『フェンリル』そのものであることを。
今はただ、穏やかで平和な寝息が部屋に響いている。
王都での長かった苦い日々を完全に忘れさせるように、足元から伝わる神獣のぬくもりは、どこまでも優しかった。




