第15話 傲慢な錬金術師長の末路
神獣フェンリルと狂犬公爵の怒りに触れ、命からがら逃げ出したクロードが、顔面蒼白で王都へ逃げ帰った頃には。
王都の状況は、すでに彼のような小物の手に負える範疇を超え、取り返しのつかないところまで傾き始めていた。
北門の防衛塔には、魔獣の強襲を知らせる緊急の赤い狼煙が上がり、城壁沿いの通路を血塗れの伝令が駆けずり回っている。
医務棟では負傷兵の悲痛なうめき声と怒号が絶えず、配給棚に並ぶ濃緑色の『激マズポーション』を見ただけで、絶望して顔を背け、治療を拒否する騎士すら珍しくなくなっていた。
「次の交代班、まだ戻れないのか! 持ち場が穴だらけだぞ!」
「無理です! 傷の治りが追いついていません! 化膿して熱を出している者が半数を超えました!」
「南側第三防衛線、魔獣の群れが再接近! このままでは突破されます!」
「くそっ、真っ当な回復薬の補給はまだか! こんな泥水で戦えるか!」
怒号と焦りが飛び交う王都の空気には、もはや宮廷らしい優雅さや余裕など、微塵も残っていなかった。
以前、ニーナが調合した『特級エリクサー(ピンク色の甘い薬)』が配給されていた頃なら、重傷を負った兵でも、一晩ぐっすり眠れば数日で前線へ復帰できた。
魔獣の瘴気による熱病も早期に抑え込めたし、多少無茶な連戦を強いられても、あの奇跡の回復薬が騎士たちの命と士気を力強く支えてくれていた。
だが、今は違う。
傷の塞がりは絶望的に遅く、激痛が続く。
強烈な苦味と悪臭を放つ飲み薬は、弱った胃袋から吐き戻される。
治療のたびに兵の士気はゴリゴリと削られ、慢性的な疲労と睡眠不足が軍全体に蓄積し、前線の兵の回転が完全にストップしてしまっていたのだ。
その軍部の深刻な綻びは、やがて、目に見える最悪の形で王都を襲うことになる。
北門外での、定期的な魔獣迎撃戦。
例年なら、騎士団が問題なく押し返せる程度の小型から中型魔獣の群れだったはずが、負傷兵の復帰が遅れたせいで守りが極端に薄くなり、連携が崩れ……ついに、一部の狂暴な魔獣が、王都の堅牢な防衛線を突破したのだ。
それ自体は、王都そのものが壊滅するような大規模なスタンピードではなかった。
だが、長年『絶対の安全』を誇っていた王都の市民にとっては、十分すぎるほどの衝撃と恐怖だった。
数匹の魔獣が、市街地にまで入り込んだ。
貴族街へ続く華やかな大通りで、魔獣の咆哮が響く。商人の荷車がひっくり返り、美しいショーウィンドウが壊され、悲鳴を上げる市民たちが、パニックに陥って雪の中を逃げ惑った。
すぐに駆けつけた近衛兵によって魔獣は討伐されたが、被害は甚大だった。
「嘘だろ……王都の防衛線が破られた!?」
「あり得ない! ここは世界で一番安全な王都だぞ!」
「騎士団は何をしてるんだ! 給料泥棒め!」
「違う、騎士団は悪くない! 回復薬が足りてねえんだよ! 医務棟が機能してないって噂、本当だったんだ……!」
恐慌は、不満と噂を爆発的に加速させる。
『以前の、ピンク色の薬のほうが絶対に良かった』
『あの素晴らしい薬を作っていた錬金術師の少女が消えてから、すべてがおかしくなった』
『錬金術師長クロードが、自分の手柄を独占するために、有能な人材を不当に追い出したらしいぞ』
『王都は、自分たちの傲慢さで、自分の首を絞めたんだ』
市民と末端の兵士たちのささやきは、やがて確信に変わり、王都じゅうへ抑えきれない怒りの炎となって広がっていった。
◇ ◇ ◇
そんな絶望的な状況の中、辺境から逃げ帰ったばかりのクロードは、休む間もなく王城の最奥、王太子の執務室に強制的に連行されていた。
王太子アレクシスの部屋は、普段なら厳粛で塵一つなく整然としている。
だが今は、巨大な執務机の上に、各地からの被害報告書や、近衛が回収した宮廷工房の裏帳簿が山と積まれ、床には防衛線の穴を示す赤印だらけの地図が広げられ、控える侍従たちの顔色も一様に青ざめていた。
その中央で、王太子アレクシスが、絶対零度の冷たい目をして立っている。
「――それで」
地獄の底から響くような、低い声が落ちる。
「何の成果もなく、神獣に怯えて無様に逃げ帰ってきた、と?」
クロードは、泥で汚れたローブのまま、額に滝のような冷や汗を浮かべて床に膝をついていた。
辺境でフェンリルの殺気を浴びて以来、恐怖でろくに眠れていない。だが、今この場で「神獣が恐ろしくて逃げました」などという言い訳が通用しないことくらい、嫌というほど分かっていた。
「ち、違います、殿下……! 私は確かに、あの小娘に寛大な心で復職を命じました! しかしあの女は、辺境の野蛮な獣人どもに唆され、完全に増長しきっており……っ」
「増長?」
王太子の端正な眉が、ピクリと不快げに動く。
「この期に及んで、まだ他人のせいにするか。……王都の窮状を救える唯一の特級薬師を、己の嫉妬で自ら追放したのは、どこの誰だ」
「そ、それは誤解で――」
「誤解ではない!!」
バサァッ!!
王太子の手から、一冊の分厚い書類の束が放り投げられ、クロードの目の前の床へ無惨に散らばった。
それは、ニーナがかつて何度も提出し、クロードが読まずに破り捨てた『ポーション製法の改善報告書』の、写しと破片の復元だった。近衛兵が地下工房のゴミの山から回収したものだ。
飲みやすさの向上による、兵士の服用率と士気の改善データ。
魔力毒の除去による、治癒速度の飛躍的な比較グラフ。
現場の騎士たちからの、切実な感謝の聞き取り調査。
魔力耐性の低い子どもや高齢者への、負担軽減の重要性。
どれもこれも、国を想うニーナの血の滲むような努力によって、完璧に、そして論理的に記録されている。
そして、そのどれにも、錬金術師長であるクロードの『承認印』は押されていなかった。
「これを、読んでいなかったのか?」
王太子が、冷酷に問う。
「それとも、読んだ上で、己の矮小なプライドのために意図的に握り潰し、無視したのか?」
クロードの喉が、ヒクリと鳴る。
言い逃れは、不可能だった。
「……私は、何百年も続く宮廷の伝統に照らして、彼女の手法は邪道だと……」
「その腐りきった伝統と見栄で、我が国の尊い兵が倒れ、街に魔獣が入り込むなら、そんなものは国を滅ぼす『害悪』だと私は言ったはずだ!」
王太子の怒声が、クロードの言い訳をピシャリと切り捨てる。
さらに、別の報告書が、机の上から冷酷に差し出された。
現在の北門防衛線の、目を覆うような損耗率。
負傷兵の戦線復帰の致命的な遅延データ。
医務棟での、配給薬の吐き戻しと治療拒否の件数。
そして極めつけに、辺境ルーンフェルドの密偵から上がってきた最新の情報――『黒狼騎士団がニーナという専属薬師の薬によって回復率を100%に改善し、士気は最高潮。魔獣の討伐範囲を広げ、領内の経済と流通まで爆発的に安定・発展させている』という、皮肉すぎる成功の報告。
クロードの視界が、絶望でぐらぐらと揺れる。
「ニーナを受け入れた辺境では街が活気づき、お前が支配する王都では防衛線が崩れた」
王太子の声は、もはや一切の容赦がなかった。
「どちらが国にとって有能で、どちらが国を滅ぼす無能か。もはや、小学生でも分かる。弁明の余地はないな」
「で、殿下……! どうか一度、もう一度だけ機会を……! ニーナを正式に、強権的な王命で召し戻せば、まだ挽回は――」
「黙れ!!」
王太子の激しい怒声が、部屋の空気をビリビリと震わせた。
「お前はまだ、自分が命じれば、彼女が犬のように従うと思っているのか! あの神獣と、北の狂犬を敵に回して、この国に明日があると思うか!」
クロードは、フェンリルの恐怖を思い出して息を呑み、震え上がった。
その時、執務室の重厚な扉が開いた。
入ってきたのは、血と煤にまみれた北門防衛を担う近衛隊長と、書類を抱えた宮廷の最高会計官、それに医務監督官だった。三人とも、親の仇を見るような目でクロードを睨みつけている。
近衛隊長が無言で一礼し、悲痛な声で報告する。
「北門への魔獣侵入の被害、一般市民の死者三名、重傷者十二名。……そして、防衛にあたった兵の死者五名。うち四名は、従来の粗悪な配給薬による治療遅延と魔力毒のショックが重なったことによる、本来なら死ぬはずのなかった無駄死にと判断されます」
医務監督官が、怒りを押し殺して続けた。
「医務棟および宮廷工房の全在庫の再検査、完了いたしました。クロードが製造責任を持つ現在の配給ポーションは、ニーナ殿の残した従来品と比して、治癒効率が実に『八分の一』にまで著しく低下。加えて魔力毒の残留値が異常に高く、服用すればするほど兵の体力を奪う『毒水』と化しております」
そして会計官が、とどめを刺すように冷ややかな声で告げる。
「さらに、ニーナ殿が地下工房で試作していたポーションの残滓と、古文書の記述を比較・鑑定した結果……前者は、現代では再現不可能とされていた【特級エリクサー】そのものであると、鑑定委員会で満場一致で結論づけられました。……クロードは、国家予算の数年分に匹敵する国宝を、ゴミとして廃棄していたのです」
その一言で、部屋の空気が完全に凍りつき、そして決定的なものに変わった。
クロードは、絶望に顔を上げた。
王太子アレクシスは、ひどく疲れたように目を閉じ、深く、長く息を吐いている。
やはり。
個人の測定だけでなく、国家の正式な場でも、そう結論づけられてしまったのだ。
あのピンク色の、お菓子のような甘い薬。
自分が鼻で笑って、その製作者ごと泥靴で踏みにじって追い出したものは、国を救う『伝説級の秘薬』だったのだ。
王太子が、ゆっくりと目を開ける。
そのサファイアブルーの瞳には、もう一片の慈悲もなかった。
「……クロード・ベルナール」
初めて、罪人としてフルネームで呼ばれた。
「お前を、宮廷錬金術師長の任より、即刻罷免する」
その宣告は、静かなのに、クロードの人生の終わりを告げる致命的な一撃だった。
「で、殿下……!? お慈悲を……!」
「加えて、個人的な嫉妬による特級エリクサー調合師の不当排斥。それによる負傷兵の治療遅延、不必要な兵と市民の死。国家防衛体制の著しい弱体化、及び公文書の隠蔽と軽視。……これらの大罪の責を問う」
クロードの顔が、死蠟のように真っ青になる。
「ま、待ってください! 不当排斥などではありません! 私は、私はただ、宮廷の格式と伝統を――」
「その下らない格式で、人は救えない!!」
王太子は、玉座に座る者としての覇気を放ち、一歩も引かなかった。
「お前は己の矮小な価値観と保身だけを優先し、国益を根本から損ね、多くの忠義ある兵を見殺しにした。これは明確な『国家反逆』に等しい大罪だ」
「ち、違う……! 私はそんなつもりでは……私がいなければ、宮廷の薬作りは回りません!」
「お前が作った毒水など、もう一滴も必要ない。結果がすべてだ」
王太子の声は、絶対零度の氷のようだった。
「……近衛。こやつを連行しろ。すべての財産と爵位を没収し、地下の最下層へ叩き込め」
「はっ!」
恨みを抱いていた近衛兵たちが、待ってましたとばかりに一歩前へ出る。
クロードはようやく、自分が本当に、完全に終わったのだと理解したらしい。
膝でズルズルと後ずさり、床を血が滲むほど爪で引っかいた。
「い、いやだ……っ、待ってくれ! 私は宮廷に尽くしてきた! 誰よりも優秀な私が! 下級のゴミどもとは違う、私は選ばれた特別な――」
「選ばれた立場に胡坐をかき、他人の努力を奪い続けた結果が、この無様な末路だ」
王太子は、ゴミを見るような目で見下ろしたまま言った。
「陽の当たらない地下牢で、一生、己の愚かさを省みるがいい」
「やめ……っ、離せ! 離せぇぇぇッ!! 私は悪くない!! ニーナが悪いんだぁぁッ!!」
見苦しく取り乱した叫びは、近衛兵たちに両腕を乱暴に取られ、あっけなく廊下へと引きずられていく。
完璧に整えていたはずの高価なローブは床の泥を擦り、髪は振り乱れ、高級な靴音はみっともなく跳ねた。
その惨めな背中へ向けて、部屋にいた誰ひとりとして、情けをかける者は存在しなかった。
こうして、かつて権威の頂点で傲慢に振る舞っていた錬金術師長クロードは、王都を滅亡の危機に陥れた大罪人として、陽の光の届かない地下牢へ送られた。
凍えるほど冷たい石壁と、カビの臭いがする湿った空気の中。
薄暗い牢の隅で丸くなり、彼はようやく、自分が永遠に失ったものの大きさを、時間をかけて理解し始める。
地位。
名誉。
富。
権威。
そして何より、自分が見下して捨ててしまった“優しくて温かい、本物の奇跡”。
だが、それに気づいて後悔の涙を流した時には、もうすべてが遅すぎたのだ。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
地獄のような王都の喧騒とは正反対に、最果ての辺境ルーンフェルドの朝は、澄みきった美しい青空の下で穏やかに始まっていた。
ニーナの薬局の裏庭には、シロが咲かせた無数の氷雪華がきらきらと風に揺れ、煙突からは朝食のスープを煮込む白い煙が、ゆるやかに立ちのぼっている。
雪かきされた通りを歩く人々の足取りは軽く、開店準備をするニーナの姿を見つけると、皆が笑顔で「ニーナさん、おはよう! 今日もよろしくね」と、温かい声をかけていく。
「おはようございます!」
ニーナが花が咲くように笑って頭を下げると。
「先生にもらった昨日の甘い咳止め、子どもにすごくよく効いたよ!」
「うちの息子の擦り傷、あのポーション塗ったらもうきれいに塞がったんだ。ありがとうね」
「騎士団の獣人さんたちも、最近すごく元気そうに笑って巡回してるわね。街が明るくなったわ」
と、優しくて温かな言葉が次々と返ってくる。
誰もが疲弊し、怒号が飛び交っていた王都とは、まるで違う、天国のような朝だった。
ニーナはそんな心温まるやり取りに照れながら、店の扉をいっぱいに開け放った。
すると、足元で丸くなっていたシロが「きゅう!」と元気よく鳴き、当然のように「俺の店だぞ」という顔で、店内へ先に入っていく。
「はいはい、シロもおはよう。今日も可愛いね」
しゃがみ込んで抱き上げ、もふもふの頬にすりすりと頬ずりすると、白い神獣は最高に満足そうに目を細めて喉を鳴らした。
その時、通りの向こうから、どっ! と地鳴りのような賑やかな大勢の足音が近づいてきた。
「ニーナー!」
「薬師殿ー!」
「ニーナ先生! 開店前だけど、少しいいか!?」
現れたのは、黒狼騎士団の面々だった。
先頭には満面の笑みのレオン、その後ろには熊獣人のグラム副隊長をはじめ、いつもの顔ぶれの屈強な獣人騎士たちがずらりと並んでいる。皆、どこかお祭りのように浮き立っていて、それでいて妙に背筋が伸びている。
「えっ、どうしたんですか皆さん? 朝からそんなに大勢で。集団食中毒!?」
ニーナが目をぱちぱちさせると、レオンがニヤリと悪戯っぽく笑った。
「違う違う。最高の『朗報』を持ってきたんだよ」
「朗報?」
「ああ。さっき、王都から速馬で正式な通達が出た。……あのクソ上司のクロードは、国家反逆罪で罷免、全財産没収の上で地下牢へ投獄されたそうだ。ザマァみろって話だな。ついでに、ニーナの作った薬が『特級エリクサー』だったって功績についても、王都側がようやく公式に認めた」
「え……」
思ってもみなかった衝撃的な言葉に、ニーナは息を呑んだ。
あの絶対的だったクロードが、罷免され、投獄された。
それはつまり、王都が正式に彼の非を認め、ニーナが正しかったと証明されたということだ。
あまりに急な展開で、にわかには実感が湧かない。
ぽかんとするニーナに、騎士たちの中から、熊獣人のグラムが一歩前に出て大声を上げる。
「それでな、先生! 王都の奴らが先生の価値に気づいたってことは、また横取りしようと何か仕掛けてくるかもしれないだろ? だから、こっちでもちゃんと『確固たる形』にして、先生を守ろうって話になったんだ!」
「形……?」
ザッ! と。
騎士たちが、一糸乱れぬ動きで左右へ分かれ、道を作った。
その中央から、漆黒の外套をまとった【狂犬公爵】ガルシアが、ゆっくりと歩いてくる。
いつも通り無口で圧倒的な威圧感のある姿なのに、今日はなぜか正装用の騎士団長の礼服を身に纏い、どこか厳粛で儀礼めいていた。
しかもその後ろには、街の有力者である町長や商人組合の代表、さらには辺境薬師組合の年配のトップまでが、緊張した面持ちで勢揃いしている。
ニーナは、そのあまりの大規模な光景にますます混乱する。
「ガ、ガルシア様? これ、一体何の騒ぎ……」
ガルシアはニーナの目の前で止まった。
灰銀の瞳が、これ以上ないほど優しく、そして真っ直ぐに彼女を見つめる。
「ニーナ」
低く、よく通る、深い声だった。
「お前がこの辺境の街へ来てから、我が黒狼騎士団の負傷兵の回復率は、100%にまで大幅に改善した。戦線への復帰は早まり、過酷な冬季任務の損耗もゼロになった。騎士だけではない。街の病人も、熱を出した子どもたちも、皆がお前の作る温かい薬に救われている」
ひとつひとつ、噛み締めるように、確かめるように告げられる感謝の言葉。
「お前の生み出す奇跡の薬と、その尽きることのない知識、そして何より……誰かの痛みに寄り添えるその優しい人柄は、もはやこの辺境グラキエス領にとって、決して欠かすことのできない『宝』だ」
ニーナの胸の奥が、どくん、と大きく鳴る。
「よって、我ら黒狼騎士団、並びに辺境伯領は、ここに、お前を――」
ガルシアは一歩近づき、ニーナの前にスッと片膝をついた。
「――我が領地が誇る、『専属特級錬金術師』として、正式に迎え入れたい」
その言葉が響いた瞬間。
通りで見守っていた騎士たちや人々が、ワァァァッ!! と一斉に歓声に沸いた。
「おおっ!!」
「やったー!!」
「当然だ! ニーナ先生以外にあり得ない!」
「今さらだけど、遅いくらいの決定だぜ!」
割れんばかりの拍手が起こる。
騎士たちだけではない。街の住民たち、商人たち、通りがかりのパン屋の子どもまでが、自分のことのように嬉しそうに笑顔で手を叩いていた。
ニーナは、予想外の展開に呆然として立ち尽くす。
「私が、せ、専属……特級錬金術師……?」
「……嫌か?」
ガルシアが、少しだけ眉を下げて低く問う。
その顔は相変わらず強面で怖い。
けれど、見上げるその灰銀の目の奥には、王都に連れ戻されてしまうのではないかという『不安』と、「絶対に断られたくない」という切実な想いがはっきりと見えた。
今なら分かる。彼がどれほど不器用で、どれほど真剣に自分を想ってくれているかが。
レオンが、横から笑顔で肩をすくめる。
「心配しなくていいよ、ニーナ。王都の連中みたいに、安い給料でボロ雑巾のようにこき使うためじゃない。この街での立場も権限も、ちゃんとニーナの自由を尊重して、最高級の敬意を払った形にする。王都がひっくり返るような莫大な報酬も出すし、このお店も、今まで通り自分のペースでのんびり続けていい」
レオンは狐耳をピンと立て、力強く言った。
「要するに、“この人は俺たちの守護女神だから、もうどこの誰にも、絶対に雑に扱わせません”っていう、国に対する強烈な意思表示の盾だな」
「レオン、それ全部言うな。ムードがない」
「分かりやすくていいだろ?」
二人のやり取りに、騎士たちの間からドッと温かい笑いが漏れる。
だがその笑いも、自分たちの専属薬師を心から誇るような、頼もしい響きがあった。
グラム副隊長が、大きな声で言った。
「女神様がこの街にいてくれて、俺たち本当に、命も心も救われて助かってるんだ!」
「だから、私は女神様じゃありませんってば……!」
「じゃあ救世主!」
「意味は一緒です!」
「俺は、親しみを込めて“薬師殿”が好きだな」
「俺は“ニーナ先生”って呼ぶのがいい!」
「何言ってんだ、この北の辺境の大事な“宝物”だろ!」
騎士たちから好き放題に飛び交う呼び名に、ニーナは照れくさくて思わず頭を抱えそうになる。
けれど、そのどれもに王都のような悪意や嫉妬は欠片もなく、ただ純粋な好意と、心からの感謝ばかりが温かく詰まっていた。
胸の奥が、じんわりと、やけどしそうなほど熱くなる。
王都の宮廷では、患者を想った甘い薬を「伝統の恥だ」と笑われた。
徹夜の努力を否定された。
存在ごと、ゴミのように切り捨てられた。
でも、ここでは違う。
ここでは、自分の薬が、目の前にいる誰かの痛みを確実に助けている。
自分の小さな工夫が、誰かの大きな笑顔に変わっている。
そして今、私の作る薬だけでなく、『私という存在そのもの』を、絶対に必要だと言って、守ろうとしてくれる人たちがいる。
ニーナは、腕の中のシロをぎゅっと抱きしめた。
シロも「きゅう!」と、自分のママの出世を喜ぶように誇らしげに鳴く。
ニーナは、真っ直ぐにガルシアの目を見つめ返した。
「……お受けします。私でよければ、これからもよろしくお願いします」
静かに、でも涙声にならないように、はっきりとそう言った。
次の瞬間、通りが雪を溶かすほどの、割れんばかりの拍手と大歓声に包まれた。
「やったー!!」
「よしっ! これで一生安泰だ!」
「今夜は騎士団持ちで、街を挙げての祝宴だァー!!」
「騎士団長、よくプロポーズ(?)成功させたな! おめでとう!」
「いや、そこで団長を冷やかすのは違くない!?」
レオンのツッコミすら、歓喜の拍手と口笛にかき消される。
ニーナは、溢れそうになる涙を堪えながら、何度も何度も深く頭を下げた。
「ありがとうございます……。本当に、ありがとうございます……!」
ありがとう、というたった五文字の言葉だけでは、この胸いっぱいの幸福を伝えるには全然足りない気がした。
でも、今はそれしか言えないくらい、胸がいっぱいだった。
ガルシアは、そんな幸せそうに笑う彼女を見つめ、立ち上がって、不器用ながらも最高に優しい、男らしい笑みを浮かべた。
「礼を言うのは、こちらの方だ」
低い、心地よい声が、すぐ近くで響く。
「……お前が、俺たちの元へ来てくれて、本当によかった」
たったそれだけの言葉で、ニーナの目の奥が限界を迎えて、さらに熱いものが込み上げてくる。
すると、感動の隙間に割って入るように、シロがニーナの腕の中から身を乗り出して「きゅう!」と鳴いた。
どうやら「俺のことも忘れるな」と、自分も褒められる流れだと思っているらしい。
レオンが吹き出して笑う。
「はいはい、お前も一番偉い偉い。国宝級の氷雪華を咲かせる、最強の神獣係としてな」
「きゅぅん♪」
「だからドヤ顔で胸張るな、胸を」
そんな賑やかなやり取りに、また周囲から温かい笑いが巻き起こる。
冬の空は高く、冷たく、けれどどこまでも澄み渡っていた。
王都では今頃、自業自得の苦味と後悔が泥のように渦巻き、傲慢だった男は地下牢の冷たい床で震えていることだろう。
一方、この辺境では、ニーナが人々の温かい拍手に包まれ、誰にも奪われない『本当の居場所』を手に入れていた。
傲慢な心で宝を失った王都は衰退の道を辿り。
不器用でも誠実に宝を受け入れた辺境は、豊かに輝いていく。
それはあまりにも鮮やかで、必然的な対比だった。
そして、すべての苦い思い出を、蜂蜜のように甘く塗り替えるように。
ニーナの前には、彼らと共に歩む、甘くて温かな未来がどこまでも続いている。
この雪の街に、暖かい春風が吹く最終話の足音は、もうすぐそこまで近づいていた。




