第13話 帰還命令? シロが怒っているのでお帰りください
その日の昼下がり。
ニーナの薬局の中には、いつものように穏やかで温かい午後の空気が流れていた。
暖炉にはパチパチと控えめな火が入り、窓辺には乾燥中の氷雪華の束が青白い光を帯びて揺れている。
カウンターの上では、ニーナが新しく調合したばかりの『氷雪華入り特製回復ポーション』を光に透かして、色味と魔力の定着具合を確かめていた。
「うん、魔力毒も完全に抜けてるし、前よりずっと透明感が出たかも……」
朝焼けのように淡い桜色の液体が、冬の陽の光を受けてやわらかく、宝石のように輝く。
苦味は完全に飛んでいる。
香りも、果実の甘さに氷雪華の清涼感が加わり、きつすぎない絶妙なバランスだ。
試作段階だが、これを飲めば、どんな深い傷も一瞬で癒え、心まで浄化されるような最高の仕上がりだった。
「シロ、あとでおやつの時間に味見してくれる?」
「きゅう!!」
足元の真っ白なもふもふ――神獣フェンリルのシロは、返事だけは騎士団の誰よりも元気だった。
さっきまで暖炉の前で仰向けになって爆睡していたくせに、「おやつ」と「味見」という単語にだけは即座に反応して起き上がるあたりが、実に食欲に忠実で分かりやすい。
「ふふ、現金ならぬ現獣的というか……。本当に可愛いんだから」
くすっと笑って、ニーナは完成した小瓶を棚へ並べ直した。
辺境で自分の薬局を開いてから、こんな穏やかな時間が流れるたびに、心から思う。
王都を追い出されて、本当に、ここへ来てよかった、と。
王都の宮廷にいた頃の自分は、いつも何かに怯え、追い立てられていた。
絶対に終わらない理不尽な仕事量。他人の失敗を押し付けられる毎日。そして、自分が良かれと思って提案する患者のための工夫を、「伝統の恥だ」と全否定され続ける絶望。
自分の価値なんて、あの暗い工房には欠片もなかった。
けれど、今は違う。
自分の作りたい『痛くない、優しい薬』を作り、それを心から必要とし、泣いて喜んでくれる人たちに直接届けられる。
それだけで、凍りついていたニーナの心は少しずつ、温かい春の色に塗り替えられていくようだった。
そんな、幸せを噛み締めていた時だった。
――カラン。
重々しく、遠慮のない乱暴な手つきで扉の鈴が鳴った。
「はい、いらっしゃいま――」
笑顔で顔を上げたニーナは、その言葉の途中で、氷を飲み込んだようにピタリと固まった。
すきま風が吹き込む入口に立っていたのは、この辺境の街には絶対にいるはずのない、そして、ニーナが最も顔を見たくなかった見覚えのある男だったからだ。
香油できっちりと撫でつけられた黒髪。
鼻につくほど金糸の刺繍で完璧に整えられた、宮廷の最高級ローブ。
人を虫けらのように見下すことに慣れきった、冷たく傲慢な細い目。
宮廷錬金術師長、クロード。
彼が、数名の武装した近衛騎士を引き連れて、土足で薬局の入り口に立っていたのだ。
「……え」
一瞬、ニーナの心臓が不快な音を立てて止まったような気がした。
どうして、この人がここにいるのか。理解が追いつかない。
王都を出てから、あの地獄のような日々とは永遠に決別したはずなのに。よりにもよって、この私の大切な聖域である薬局の扉を、彼が開けて入ってくるなんて、最悪の悪夢にしか思えなかった。
その時、足元のシロが、すっと音もなく立ち上がった。
薬局の床から伝わる空気が、一瞬でマイナス数十度に凍りつくように変わった。
「……グルルルルルッ……」
地獄の底から響くような、重低音の唸り声。
普段の「きゅう」という愛らしい声とは全く次元が違う、魂を削るような明確な『純度の高い殺意』を含んだ音だった。
だが、クロードはその殺気の異常さに気づくこともなく、シロを一瞥しただけで、鼻でせせら笑った。
「……ふん。犬まで飼っているとはな。辺境へ追放されたというのに、ずいぶん呑気で惨めな暮らしをしているじゃないか、ニーナ」
その、人を小馬鹿にしたようなねちっこい声を聞いた瞬間。
ニーナの中で、一瞬だけ蘇りかけた『かつてのトラウマと恐怖』が、じわりと全く別の形に変わって消えていった。
怖い、ではない。
(ああ、この人は、本当に何も変わっていないんだ。自分のことしか見えていない、哀れな人なんだ)
その事実への、ひどく冷静で、冷めた理解だった。
「……何のご用件でしょうか」
感情を一切交えず、ただの業務的な声で、ニーナは静かに尋ねる。
クロードは、土足のままズカズカと店内に踏み込むと、まるで品評会でもするように、店内をぐるりと見回した。
塵一つなく磨き上げられたカウンター。
整然と並ぶ、色とりどりの宝石のような薬瓶。
壁際の棚に美しく飾られた希少な薬草束。
窓辺の小さな飾りと、パチパチと暖かな火の入った暖炉。
彼が予想していた『貧民街のボロ小屋』とはまるで違う、その洗練された豊かで幸せそうな空間に、クロードの視線には露骨な嫉妬と、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「なるほど。辺境のド田舎にしては、随分と小綺麗にしているじゃないか。お前のような下級の女でも、少しは掃除の才能があったということだな」
「ありがとうございます」
「勘違いするな。褒めているわけではない」
「ええ、存じています。あなたが他人を純粋に褒めることなど、天地がひっくり返ってもありませんから」
間髪入れずに即答すると、クロードの眉がピクリと不快げに動いた。
王都にいた頃のニーナなら、彼に嫌味を言われても、こんな返しは絶対にできなかっただろう。ただ怯えて、肩を縮めて黙って俯いていたはずだ。
けれど、今のニーナは違う。
ここは、彼が支配する宮廷ではない。自分の足で立ち、自分の力で手に入れた、私だけの店だ。
私の居場所で、この男に配慮して自分の言葉を飲み込む理由など、何一つなかった。
クロードは思い通りに怯えないニーナに不愉快そうに舌打ちをし、わざとらしくローブの裾を払って威厳を誇示した。
「……まあいい。つまらん世間話は終わりだ。本題に入ろう」
そう言うと、彼は懐から羊皮紙の分厚い書類を一通取り出し、ニーナの磨き上げたカウンターの上へ、パァンッ! と高圧的に叩きつけた。
「ニーナ。貴様に、宮廷錬金工房への『復職』を命じる」
「……はい?」
あまりにも脈絡のない言葉に、ニーナは一瞬、本当に意味が分からなかった。
クロードは、さも「ありがたい神の言葉を聞け」とでも言うように、恩着せがましく顎を上げた。
「現在、王都は魔獣の増加に伴い、医療体制の再整備を急いでいる。そこで、お前のような不出来な下級錬金術師でも、多少は使い道があると私が寛大にも判断してやったのだ。泣いてありがたく思え。私が特別に、宮廷へ戻ることを『許可』してやる」
許可。
戻ることを。私が、戻してやる。
あまりにも一方的で、自分の都合しか考えていないその身勝手な言い方に、ニーナは怒りを通り越して、逆に呆気に取られてしまった。
それからゆっくりと、叩きつけられた書類へ視線を落とす。
そこにはたしかに、宮廷の正式な印が押されていた。だが文面はひどいものだった。
復職命令、というより、これは『奴隷の徴用令』に近い。給与や労働環境の改善については一切触れられておらず、あくまで「宮廷の指示に絶対服従し、全知全能を捧げて速やかに帰還せよ」という、上からの命令口調だけが傲慢に並んでいる。
「……この紙切れを、わざわざ辺境まで届けにいらしたんですか?」
「届けに、ではない」
クロードは、勝利を確信したような薄気味悪い笑みを浮かべた。
「お前を、今すぐこの馬車で連れ戻しに来たのだ。さあ、こんなガラクタばかりの店は捨てて、荷物をまとめろ」
ぞわり、と。
ニーナの背筋に、冷たいものが走った。
あの息の詰まる暗い工房で、また毎日徹夜で彼に怒鳴られながら、彼の名義で薬を作り続ける地獄の日々。
……想像しただけで、恐怖よりも先に、強烈な吐き気と嫌悪感が込み上げてきた。
「お断りします」
ニーナは書類から顔を上げ、彼の目を見て、はっきりと、きっぱりと言い放った。
クロードの薄笑いが、ピタリと固まる。
「……何?」
「ですから、お断りします、と申し上げました」
店内が、しん、と不気味なほど静まり返った。
暖炉の火が、ぱちっ、と小さく鳴る。
クロードは数拍遅れて、自分が『格下の女に拒絶された』のだと理解したらしい。顔がみるみるうちに屈辱で真っ赤に染まり、次の瞬間には激しい怒気で歪んだ。
「な、何を勘違いしている、この痴れ者が!! これは絶対の命令だぞ!」
「ここは王都でも宮廷でもありません。私はすでに解雇され、宮廷所属の身分でもありません。あなたの命令を聞く義務は一切ありません」
「屁理屈を抜かすな! 今、王都の騎士たちが薬不足で困っているのだ! お前のような底辺の者でも、国のために役に立つ局面があると言っているだろうが!」
「その“底辺の者”を、『無能だから今すぐ出て行け』と解雇したのは、他でもないクロード様、あなた自身ですよね?」
静かに、事実だけを刃のように突き返すと、クロードのこめかみに太い青筋が浮いた。
「そ、それは……! あの時は事情が違ったのだ!」
「どんな事情ですか?」
「宮廷の崇高な品位と、伝統を守るためだ!」
「ああ。『甘いピンク色の薬を作るなど、宮廷の恥だ』と仰いましたよね」
ニーナの声音は、どこまでも穏やかだった。
声を荒げることもなく、淡々と事実を述べる。けれど、その揺るぎない穏やかさが、かえってクロードの惨めなプライドを抉り、彼を精神的に追い詰めていく。
「いちごの匂いがするお菓子のような薬など、伝統の恥だ、と。ふざけるのも大概にしろ、とも。私の努力の結晶であるノートを、あなたは泥のついた靴で踏み躙った」
「……ッ」
「私は、そのあなたの『正当な命令』に素直に従って、王都を出て行きました。何も間違ったことはしていません」
あの日の冷たい言葉と屈辱を、ニーナは一つも忘れていなかった。
忘れられるはずがない。
けれど、今こうして真っ向から口にしてみると、不思議と胸は昔ほど痛まなかった。もう、彼に認められたいという未練が、微塵もないからだ。ただ、過去の終わった事実として、そこにゴミのように落ちているだけだ。
クロードは唇を引きつらせ、焦りで視線を泳がせた。
それでもなお、上から押さえつける傲慢な態度だけは、絶対に崩そうとしなかった。
「だ、だからこそ! 過去の過ちを水に流し、こうして寛大にも再び私の元で使ってやると言っているのだ! 田舎で腐るより、王都に戻れば、お前のような平民とは比べものにならない富と名誉が――」
「いりません」
またしても、一秒の躊躇もない即答だった。
今度こそ、クロードの表情が、理解不能なものを見るように完全に凍りつく。
「……は?」
「名誉も、地位も、富もいりません。私はここで、私の大好きなこの薬局を、ずっと続けていきたいんです」
ニーナは、ゆっくりと愛おしむように、自分の店内を見渡した。
ピカピカのカウンター。自分で作った薬棚。温かい暖炉。窓辺の花。そして、足元で私を守ろうとしてくれているシロ。
全部、自分で選んで、自分の手で一つ一つ作ってきた、世界で一番大切な場所だ。
「ここには、私の作る甘い薬を必要としてくれる、優しい人たちがいます。苦くなくて、痛くなくて、ちゃんと効くお薬を飲んで、『ありがとう』と笑ってくれる大切な人たちがいるんです。私は、もう二度と……あの暗い工房で、誰かに怯え、理不尽に怒鳴られながら薬を作る、冷たい生活には戻りたくありません」
その言葉は、自分でも驚くほど、心からの本音としてするりと口から出た。
王都にいた頃なら、彼を前にして、きっとここまで言えなかった。
でも、今ならはっきりと分かる。
自分がずっと欲しかったのは、上司や権威に認められる『肩書き』なんかじゃない。
誰かの痛みを和らげ、役に立てるという確かな実感と、自分が自分らしく、穏やかに息ができる『温かい毎日』だったのだと。
クロードは、完全に拒絶された己の惨めさに、顔を真っ赤にしてブルブルと震え出した。
「貴様……ッ! 辺境の無知な獣人どもに少しチヤホヤされたくらいで、思い上がるなよ!」
「思い上がってなどいません。ただ事実を述べているだけです」
「この私が! 宮廷に戻れる最高の機会を与えてやっているんだぞ! 選ばせてやっているんだ!」
「必要ありません。お引き取りください」
「黙れぇぇぇッ!!」
怒りで我を忘れたクロードのヒステリックな怒鳴り声が、店内にビリビリと響く。
その瞬間。
シロの喉の奥で鳴っていた唸り声が、地を這うような一段低い、決定的なものに変わった。
「……グルルルルルルルッ……」
ニーナの足元にいた白い子犬が、ゆっくりと、静かに前へ出る。
ふわふわの毛が、バチバチと青白い静電気を帯びて逆立ち、氷のように冷たい銀色の瞳が、真っ直ぐにクロードの命を狙って見据えていた。
クロードはそれに気づき、不快そうに眉をひそめる。
「なんだ、その目は。主人のように生意気な、薄汚い駄犬が。おい、誰かこの犬を蹴り出せ」
「――シロを、悪く言わないでください」
ニーナの声色が、この日初めて、はっきりと怒りを帯びて冷たく響いた。
クロードは一瞬、その強い眼差しにたじろいだが、すぐに己の苛立ちと焦りをぶつけるように、店の中へズカズカとさらに踏み込んできた。
しかも、外の泥と汚れた雪がついたままの革靴で、ニーナが毎朝ピカピカに磨き上げている綺麗な床板を、わざと汚すように踏み躙りながら。
「……ッ」
ニーナの眉が、ピクリと不快に動く。
クロードはカウンターの目の前まで来ると、わざとらしく顎を高く上げ、復職命令の書類を指先でコンコンと叩いた。
「いいか、ニーナ。もう一度だけ言ってやる。帰るんだ、王都へ。今すぐ荷物をまとめろ。そうすれば今ならまだ、この私が広い心で『拾って』やる」
「お断りします」
「しつこいぞ、この無能が!!」
バンッ!! と、クロードが拳でカウンターを激しく叩く。
薬瓶がガタガタと揺れた。
「少しは感謝と礼儀を見せたらどうだ! この偉大な私が、お前のような下級のゴミのために、わざわざ直々に迎えに来てやったのだぞ! そもそもお前のような平民が、私に逆らうこと自体が身の程知らずなのだ!」
そこでクロードは、ニーナの心を折るために、にたりと歪んだ嫌な笑みを浮かべた。
「……そうだ。いい機会だ。まずは貴様に、絶対的な身分の差と『礼儀』を思い出させてやろう。そこへ跪け」
「……は?」
「聞こえなかったか? 床に這いつくばって、この私の泥のついた靴を舐めるように磨き、絶対の忠誠を示せと言っているんだ」
あまりにも下劣で、あまりにも醜く、何一つ成長していない言い草だった。
王都にいた頃と、本当に何一つ変わらない。
いや、特級エリクサーを失い、破滅の危機に追い詰められている分だけ、彼の中の醜悪さがさらに腐臭を放っている。
ニーナは数秒、心底可哀想なものを見るような目で、黙ってその顔を見つめた。
それから、ふっとため息をつき、カウンター脇の椅子へ静かに、リラックスして腰を下ろす。
クロードが「恐怖で腰を抜かしたか」と勝ち誇ったように口角を上げる。
だがニーナは、靴を磨くどころか、ただテーブルの上に置いてあった自分用のハーブティーのカップを持ち上げた。
そして、一口、優雅に飲む。
「何度でも言います。お断りします」
きっぱり。
これ以上ないほど、完璧な拒絶だった。
クロードの歪んだ笑みが、ピシッと音を立てて引きつった。
「……貴様、本気で私を怒らせる気か」
「帰ってください。あなたにお出しする甘いお薬も、美味しいお茶も、ここには一つもありません」
「この、生意気な女ァッ――!! 近衛! この女を力ずくで捕らえろ!」
クロードが激昂して手を振り上げた、次の瞬間だった。
パキィッ……!!
店内の空気が、完全に凍りついた。
比喩ではない。文字通り、物理的に『空気が凍結した』のだ。
バキ、パキパキッ! と、クロードが汚した床板の上に、凄まじい速度で青白い霜が走り、氷柱が伸びる。
窓ガラスの端が一瞬で白く凍りつき、暖炉の中で燃えていた赤い火さえも、絶対零度の魔力に当てられて、不気味な青色に揺らめいた。
クロードの怒声が、肺まで凍りついたように途中で止まる。
「……え? な、なんだ、これ、は……!?」
クロードが震えながら視線を落とした先。
ニーナの足元から、空間そのものを歪めるような、凄まじい密度の『神気』が立ち上っていた。
シロだ。
真っ白で愛らしい子犬だったはずの小さな身体が、淡く、しかし強烈な銀光に包まれていく。
光の中で、毛並みが吹雪のようにぶわりと逆巻き、輪郭が風船のように膨れ上がる。
可愛い骨格が、強靭な獣のものへと変形する。四肢が巨木のように伸びる。すべてを噛み砕く鋭い牙が伸びる。
あっという間の出来事だった。
光が晴れたそこにいたのは、もう愛らしい子犬ではない。
薬局の天井近くまで届くほど巨大な、銀白の狼だった。
猛吹雪と冬の嵐をそのまま獣の形に凝縮したような、神々しくも恐ろしい巨体。額には高位の魔力を示す淡い青の紋様が浮かび、見下ろす銀色の双眸には、人知を超えた圧倒的な威圧と、虫けらを見るような冷徹さが宿っている。
その巨獣が息を吐くたび、空気が白く凍りつき、ダイヤモンドダストが舞う。
ただそこに立っているだけで、部屋そのものが、人間が立ち入ってはいけない『絶対的な神域』へと変貌してしまったようだった。
「ひっ……!! ぁ、あぁッ……!!」
クロードの喉から、蛙が潰されたような情けない悲鳴が漏れる。
後ろに控えていた完全武装の近衛たちも、一斉に顔面蒼白になり、剣に手をかけることすらできず、ガチガチと鎧を鳴らして数歩後ずさった。
シロ――いや、伝説の神獣フェンリルは、クロードを睨み下ろしたまま、低く喉を鳴らした。
「……グルルルルルルッ……」
その地鳴りのような音だけで、壁の近くに置いてあった薬瓶がカタカタと震え、窓ガラスにヒビが入る。
ただの殺気というレベルではない。もっと根源的な、生命としての“絶対的な格の違い”だ。
人間が決して逆らってはいけない、逆らえば一瞬で肉片にされるという、本能的な恐怖の具現。
クロードは完全に腰を抜かし、泥で汚れた床に無様にへたり込んだ。
「な、な、なんだ……ッ、何なんだ、この化け物は……ッ! 魔獣……!?」
「シロです」
ニーナは椅子に座り、神獣の巨大な前足にそっと寄り添いながら、静かに答えた。
「私の、一番大事な家族です」
「こ、こんな災害級の化け物が、家族だと……!? ふざけるな!!」
ギロリ、と。
フェンリルの銀の瞳が、怒りに細くなる。
その瞬間、クロードの足元の床から鋭い氷の槍がバキィッ! と突き出し、彼のローブの裾を床に縫い付けて凍りつかせた。
「ひぃぃッ!! す、すいません! 命だけは……!!」
「シロ、だめよ。お店の中を壊しちゃ」
ニーナが優しくそう声をかけると、巨大な神獣はピタリと氷の魔法を止めた。
けれど、クロードに向ける殺気までは消えない。
明らかに怒っている。自分の愛する「ママ」を侮辱し、悲しませようとしたこの薄汚い男に対して、深い、深い怒りを抱いている。
「怖いなら、もう二度とここへ来ないでください。王都へお帰りください」
ニーナの声音は、クロードへの憐れみすら含んだ、驚くほど穏やかなものだった。
「シロは、私が大事にしているものを傷つける人が、大嫌いなんです」
クロードは、もう何も答えられない。
答えるどころか、凍りついた床の上で歯の根が合わず、ガチガチと音を立てて震え、失禁する寸前だった。
自分より遥か下の底辺だと思っていた女。
自分が不要なゴミとして、辺境へ追いやったはずの下級錬金術師。
その足元に、国ひとつを永遠の冬に沈めて滅ぼせるかもしれない伝説の神獣が、忠犬のように従っている。
その信じがたい現実が、ようやく彼の理解の外側から、ハンマーで殴りつけてきたのだろう。
「か、帰るぞ……ッ! 早く私を立たせろ!!」
クロードが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、裏返った声で近衛に叫ぶ。
「こ、こんな恐ろしい場所にいられるか!!」
だが、近衛兵たちもすぐには動けなかった。
フェンリルの視線ひとつで、身体の芯まで凍りつき、すくんでいるのだ。
ニーナは小さくため息をつき、お茶のカップを置いた。
「シロ。彼らが帰るから、通り道をあけてあげて」
「……グルッ」
不満げに喉を鳴らしつつも、フェンリルは主の言葉に従い、一歩だけ身を引いて威圧感を少しだけ弱めた。
それだけで、呪縛から解き放たれたクロードたちは、我先にと扉へ殺到した。
が、その途中。
ツルッ!! と、クロードが自分の靴で派手に滑った。
ニーナに「舐めて磨け」と言い放った、あの泥のついた自慢の高級靴の底が、凍りかけた床で見事に足を取られたのだ。
「ぎゃっ!?」
スパーンッ! と、情けない音を立てて背中から無様に転倒し、這うようにして、文字通り逃げ帰るように店の外へ転がり出ていく。
近衛たちも、彼を半ば引きずるようにしてそれを追った。
バンッ!! と、乱暴に扉が閉まる。
……静寂。
しばらくして、外から馬車が猛スピードで走り去る音が遠ざかると、ニーナは深く、長く息を吐いた。
どっと肩の力が抜ける。
「……帰った。よかった」
その言葉と同時に、薬局を埋め尽くしていた巨大な銀狼が、ふわりと温かい光に包まれ、いつもの見慣れた『もふもふ子犬サイズ』へとシュンッと縮んで戻っていく。
ポフン、と軽い音を立てて着地したシロは、何事もなかったような無垢な顔で、トタタッとニーナの足元へすり寄ってきた。
「きゅう!」
「もう……いきなり大きくなるから、びっくりしたわ」
そう言いながら抱き上げると、シロは「俺が追い払ってやったぞ!」と、尻尾を振ってちょっとだけ得意げだった。
うんと褒めてほしいらしい。
「ふふ、でも、私を守ってくれて、ありがとうね」
冷たい額を撫でてやると、シロはうれしそうに目を細め、ニーナの手に頬をすりすりと擦り付けた。
さっきまであれほど神々しく、すべてを凍らせるほど恐ろしかった存在とは到底思えないほど、無防備で甘えた顔だった。
ニーナは、その柔らかな毛並みに自分の頬を寄せながら、静かに、そして確かな自信を持って思った。
もう、自分は王都にいた頃の、弱いままの自分じゃない。
理不尽に怒鳴られて怯えて、自分の意見も言い返せずに、ただ俯くだけの私ではない。
私には、自分で作ったこの守るべき居場所がある。
そして、私のことを大切にしてくれる、温かい人(と獣)たちがいる。
だから、あのクロードに対して、ちゃんと自分の意思で「嫌だ」「帰れ」と拒絶することができた。
それが、少しだけ、いや、とても誇らしかった。
だが同時に。
あの執念深くプライドの高いクロードが、これで「はいそうですか」と、すんなり諦めて王都へ帰るだろうかという、一抹の不安も残る。
近衛兵をさらに集めて、領主に掛け合って戻ってくるかもしれない。
ニーナが、少しだけ不安に眉を寄せた、その時だった。
ドスッ、ドスッ。
と、外から、馬車の音をかき消すような、地鳴りのような重たい足音が近づいてきた。
次いで、カランッ! と、扉の鈴が激しく鳴る。
「――ニーナ! 今の悲鳴はなんだ!!」
低く、よく通る、焦燥を含んだ太い声。
勢いよく入ってきたのは、黒い分厚い外套をまとった【狂犬公爵】ガルシアだった。
その後ろには、剣の柄に手をかけたレオンの姿もある。
二人は店内の異様な様子を見て、瞬時に異変を察したらしい。
シロが放った冷気で薄く霜が張ったままの床。
カウンターの上に残された、宮廷の印が押された開け放たれたままの書類。
そしてニーナの腕の中で、まだ少しだけ殺気を残して機嫌の悪そうなシロ。
レオンが、いつものお調子者の顔を捨て、金の目を鋭く細める。
「……あー。嫌な予感しかしないんだけど。この残り香、王都の連中か?」
ガルシアの灰銀の瞳は、カウンターの上の書類の『宮廷印』と『復職命令』という文字を見た瞬間、絶対零度にスッと冷えた。
「……ニーナ。誰が、来た」
その怒りを押し殺した地を這うような声に、部屋の温度が、シロの冷気とは別の理由で、また一段下がった気がした。
ニーナはシロをぎゅっと抱いたまま、小さく息をつき、少しだけ困ったように笑った。
「王都の、元上司です。私を連れ戻しに来たみたいです」
それだけで、状況を察するには十分だった。
ガルシアの瞳に、明確な、一切の容赦のない『殺意の炎』が宿る。
どうやら、逃げ帰った哀れなクロードの災難は、神獣の脅威だけでは終わらないらしい。
この北の地を統べる、最凶の『狼』が、彼を逃がすはずがなかった。




