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宮廷をクビになった不遇の錬金術師、もふもふ達と一緒に【辺境の薬局】でのんびり暮らします  作者: 綾瀬蒼


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第13話 帰還命令? シロが怒っているのでお帰りください

 その日の昼下がり。

 ニーナの薬局の中には、いつものように穏やかで温かい午後の空気が流れていた。


 暖炉にはパチパチと控えめな火が入り、窓辺には乾燥中の氷雪華の束が青白い光を帯びて揺れている。

 カウンターの上では、ニーナが新しく調合したばかりの『氷雪華入り特製回復ポーション』を光に透かして、色味と魔力の定着具合を確かめていた。


「うん、魔力毒も完全に抜けてるし、前よりずっと透明感が出たかも……」


 朝焼けのように淡い桜色の液体が、冬の陽の光を受けてやわらかく、宝石のように輝く。

 苦味は完全に飛んでいる。

 香りも、果実の甘さに氷雪華の清涼感が加わり、きつすぎない絶妙なバランスだ。

 試作段階だが、これを飲めば、どんな深い傷も一瞬で癒え、心まで浄化されるような最高の仕上がりだった。


「シロ、あとでおやつの時間に味見してくれる?」


「きゅう!!」


 足元の真っ白なもふもふ――神獣フェンリルのシロは、返事だけは騎士団の誰よりも元気だった。

 さっきまで暖炉の前で仰向けになって爆睡していたくせに、「おやつ」と「味見」という単語にだけは即座に反応して起き上がるあたりが、実に食欲に忠実で分かりやすい。


「ふふ、現金ならぬ現獣的というか……。本当に可愛いんだから」


 くすっと笑って、ニーナは完成した小瓶を棚へ並べ直した。


 辺境で自分の薬局を開いてから、こんな穏やかな時間が流れるたびに、心から思う。

 王都を追い出されて、本当に、ここへ来てよかった、と。


 王都の宮廷にいた頃の自分は、いつも何かに怯え、追い立てられていた。

 絶対に終わらない理不尽な仕事量。他人の失敗を押し付けられる毎日。そして、自分が良かれと思って提案する患者のための工夫を、「伝統の恥だ」と全否定され続ける絶望。

 自分の価値なんて、あの暗い工房には欠片もなかった。


 けれど、今は違う。

 自分の作りたい『痛くない、優しい薬』を作り、それを心から必要とし、泣いて喜んでくれる人たちに直接届けられる。

 それだけで、凍りついていたニーナの心は少しずつ、温かい春の色に塗り替えられていくようだった。


 そんな、幸せを噛み締めていた時だった。


 ――カラン。


 重々しく、遠慮のない乱暴な手つきで扉の鈴が鳴った。


「はい、いらっしゃいま――」


 笑顔で顔を上げたニーナは、その言葉の途中で、氷を飲み込んだようにピタリと固まった。


 すきま風が吹き込む入口に立っていたのは、この辺境の街には絶対にいるはずのない、そして、ニーナが最も顔を見たくなかった見覚えのある男だったからだ。


 香油できっちりと撫でつけられた黒髪。

 鼻につくほど金糸の刺繍で完璧に整えられた、宮廷の最高級ローブ。

 人を虫けらのように見下すことに慣れきった、冷たく傲慢な細い目。


 宮廷錬金術師長、クロード。

 彼が、数名の武装した近衛騎士を引き連れて、土足で薬局の入り口に立っていたのだ。


「……え」


 一瞬、ニーナの心臓が不快な音を立てて止まったような気がした。


 どうして、この人がここにいるのか。理解が追いつかない。

 王都を出てから、あの地獄のような日々とは永遠に決別したはずなのに。よりにもよって、この私の大切な聖域である薬局の扉を、彼が開けて入ってくるなんて、最悪の悪夢にしか思えなかった。


 その時、足元のシロが、すっと音もなく立ち上がった。

 薬局の床から伝わる空気が、一瞬でマイナス数十度に凍りつくように変わった。


「……グルルルルルッ……」


 地獄の底から響くような、重低音の唸り声。

 普段の「きゅう」という愛らしい声とは全く次元が違う、魂を削るような明確な『純度の高い殺意』を含んだ音だった。


 だが、クロードはその殺気の異常さに気づくこともなく、シロを一瞥しただけで、鼻でせせら笑った。


「……ふん。犬まで飼っているとはな。辺境へ追放されたというのに、ずいぶん呑気で惨めな暮らしをしているじゃないか、ニーナ」


 その、人を小馬鹿にしたようなねちっこい声を聞いた瞬間。

 ニーナの中で、一瞬だけ蘇りかけた『かつてのトラウマと恐怖』が、じわりと全く別の形に変わって消えていった。


 怖い、ではない。


(ああ、この人は、本当に何も変わっていないんだ。自分のことしか見えていない、哀れな人なんだ)


 その事実への、ひどく冷静で、冷めた理解だった。


「……何のご用件でしょうか」


 感情を一切交えず、ただの業務的な声で、ニーナは静かに尋ねる。


 クロードは、土足のままズカズカと店内に踏み込むと、まるで品評会でもするように、店内をぐるりと見回した。


 塵一つなく磨き上げられたカウンター。

 整然と並ぶ、色とりどりの宝石のような薬瓶。

 壁際の棚に美しく飾られた希少な薬草束。

 窓辺の小さな飾りと、パチパチと暖かな火の入った暖炉。


 彼が予想していた『貧民街のボロ小屋』とはまるで違う、その洗練された豊かで幸せそうな空間に、クロードの視線には露骨な嫉妬と、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。


「なるほど。辺境のド田舎にしては、随分と小綺麗にしているじゃないか。お前のような下級の女でも、少しは掃除の才能があったということだな」


「ありがとうございます」


「勘違いするな。褒めているわけではない」


「ええ、存じています。あなたが他人を純粋に褒めることなど、天地がひっくり返ってもありませんから」


 間髪入れずに即答すると、クロードの眉がピクリと不快げに動いた。

 王都にいた頃のニーナなら、彼に嫌味を言われても、こんな返しは絶対にできなかっただろう。ただ怯えて、肩を縮めて黙って俯いていたはずだ。


 けれど、今のニーナは違う。

 ここは、彼が支配する宮廷ではない。自分の足で立ち、自分の力で手に入れた、私だけの店だ。

 私の居場所で、この男に配慮して自分の言葉を飲み込む理由など、何一つなかった。


 クロードは思い通りに怯えないニーナに不愉快そうに舌打ちをし、わざとらしくローブの裾を払って威厳を誇示した。


「……まあいい。つまらん世間話は終わりだ。本題に入ろう」


 そう言うと、彼は懐から羊皮紙の分厚い書類を一通取り出し、ニーナの磨き上げたカウンターの上へ、パァンッ! と高圧的に叩きつけた。


「ニーナ。貴様に、宮廷錬金工房への『復職』を命じる」


「……はい?」


 あまりにも脈絡のない言葉に、ニーナは一瞬、本当に意味が分からなかった。


 クロードは、さも「ありがたい神の言葉を聞け」とでも言うように、恩着せがましく顎を上げた。


「現在、王都は魔獣の増加に伴い、医療体制の再整備を急いでいる。そこで、お前のような不出来な下級錬金術師でも、多少は使い道があると私が寛大にも判断してやったのだ。泣いてありがたく思え。私が特別に、宮廷へ戻ることを『許可』してやる」


 許可。

 戻ることを。私が、戻してやる。


 あまりにも一方的で、自分の都合しか考えていないその身勝手な言い方に、ニーナは怒りを通り越して、逆に呆気に取られてしまった。


 それからゆっくりと、叩きつけられた書類へ視線を落とす。

 そこにはたしかに、宮廷の正式な印が押されていた。だが文面はひどいものだった。

 復職命令、というより、これは『奴隷の徴用令』に近い。給与や労働環境の改善については一切触れられておらず、あくまで「宮廷の指示に絶対服従し、全知全能を捧げて速やかに帰還せよ」という、上からの命令口調だけが傲慢に並んでいる。


「……この紙切れを、わざわざ辺境まで届けにいらしたんですか?」


「届けに、ではない」


 クロードは、勝利を確信したような薄気味悪い笑みを浮かべた。


「お前を、今すぐこの馬車で連れ戻しに来たのだ。さあ、こんなガラクタばかりの店は捨てて、荷物をまとめろ」


 ぞわり、と。

 ニーナの背筋に、冷たいものが走った。

 あの息の詰まる暗い工房で、また毎日徹夜で彼に怒鳴られながら、彼の名義で薬を作り続ける地獄の日々。

 ……想像しただけで、恐怖よりも先に、強烈な吐き気と嫌悪感が込み上げてきた。


「お断りします」


 ニーナは書類から顔を上げ、彼の目を見て、はっきりと、きっぱりと言い放った。


 クロードの薄笑いが、ピタリと固まる。


「……何?」


「ですから、お断りします、と申し上げました」


 店内が、しん、と不気味なほど静まり返った。


 暖炉の火が、ぱちっ、と小さく鳴る。


 クロードは数拍遅れて、自分が『格下の女に拒絶された』のだと理解したらしい。顔がみるみるうちに屈辱で真っ赤に染まり、次の瞬間には激しい怒気で歪んだ。


「な、何を勘違いしている、この痴れ者が!! これは絶対の命令だぞ!」


「ここは王都でも宮廷でもありません。私はすでに解雇され、宮廷所属の身分でもありません。あなたの命令を聞く義務は一切ありません」


「屁理屈を抜かすな! 今、王都の騎士たちが薬不足で困っているのだ! お前のような底辺の者でも、国のために役に立つ局面があると言っているだろうが!」


「その“底辺の者”を、『無能だから今すぐ出て行け』と解雇したのは、他でもないクロード様、あなた自身ですよね?」


 静かに、事実だけを刃のように突き返すと、クロードのこめかみに太い青筋が浮いた。


「そ、それは……! あの時は事情が違ったのだ!」


「どんな事情ですか?」


「宮廷の崇高な品位と、伝統を守るためだ!」


「ああ。『甘いピンク色の薬を作るなど、宮廷の恥だ』と仰いましたよね」


 ニーナの声音は、どこまでも穏やかだった。

 声を荒げることもなく、淡々と事実を述べる。けれど、その揺るぎない穏やかさが、かえってクロードの惨めなプライドを抉り、彼を精神的に追い詰めていく。


「いちごの匂いがするお菓子のような薬など、伝統の恥だ、と。ふざけるのも大概にしろ、とも。私の努力の結晶であるノートを、あなたは泥のついた靴で踏み躙った」


「……ッ」


「私は、そのあなたの『正当な命令』に素直に従って、王都を出て行きました。何も間違ったことはしていません」


 あの日の冷たい言葉と屈辱を、ニーナは一つも忘れていなかった。


 忘れられるはずがない。

 けれど、今こうして真っ向から口にしてみると、不思議と胸は昔ほど痛まなかった。もう、彼に認められたいという未練が、微塵もないからだ。ただ、過去の終わった事実として、そこにゴミのように落ちているだけだ。


 クロードは唇を引きつらせ、焦りで視線を泳がせた。

 それでもなお、上から押さえつける傲慢な態度だけは、絶対に崩そうとしなかった。


「だ、だからこそ! 過去の過ちを水に流し、こうして寛大にも再び私の元で使ってやると言っているのだ! 田舎で腐るより、王都に戻れば、お前のような平民とは比べものにならない富と名誉が――」


「いりません」


 またしても、一秒の躊躇もない即答だった。


 今度こそ、クロードの表情が、理解不能なものを見るように完全に凍りつく。


「……は?」


「名誉も、地位も、富もいりません。私はここで、私の大好きなこの薬局を、ずっと続けていきたいんです」


 ニーナは、ゆっくりと愛おしむように、自分の店内を見渡した。

 ピカピカのカウンター。自分で作った薬棚。温かい暖炉。窓辺の花。そして、足元で私を守ろうとしてくれているシロ。

 全部、自分で選んで、自分の手で一つ一つ作ってきた、世界で一番大切な場所だ。


「ここには、私の作る甘い薬を必要としてくれる、優しい人たちがいます。苦くなくて、痛くなくて、ちゃんと効くお薬を飲んで、『ありがとう』と笑ってくれる大切な人たちがいるんです。私は、もう二度と……あの暗い工房で、誰かに怯え、理不尽に怒鳴られながら薬を作る、冷たい生活には戻りたくありません」


 その言葉は、自分でも驚くほど、心からの本音としてするりと口から出た。


 王都にいた頃なら、彼を前にして、きっとここまで言えなかった。

 でも、今ならはっきりと分かる。

 自分がずっと欲しかったのは、上司や権威に認められる『肩書き』なんかじゃない。

 誰かの痛みを和らげ、役に立てるという確かな実感と、自分が自分らしく、穏やかに息ができる『温かい毎日』だったのだと。


 クロードは、完全に拒絶された己の惨めさに、顔を真っ赤にしてブルブルと震え出した。


「貴様……ッ! 辺境の無知な獣人どもに少しチヤホヤされたくらいで、思い上がるなよ!」

「思い上がってなどいません。ただ事実を述べているだけです」

「この私が! 宮廷に戻れる最高の機会を与えてやっているんだぞ! 選ばせてやっているんだ!」

「必要ありません。お引き取りください」

「黙れぇぇぇッ!!」


 怒りで我を忘れたクロードのヒステリックな怒鳴り声が、店内にビリビリと響く。


 その瞬間。

 シロの喉の奥で鳴っていた唸り声が、地を這うような一段低い、決定的なものに変わった。


「……グルルルルルルルッ……」


 ニーナの足元にいた白い子犬が、ゆっくりと、静かに前へ出る。

 ふわふわの毛が、バチバチと青白い静電気を帯びて逆立ち、氷のように冷たい銀色の瞳が、真っ直ぐにクロードの命を狙って見据えていた。


 クロードはそれに気づき、不快そうに眉をひそめる。


「なんだ、その目は。主人のように生意気な、薄汚い駄犬が。おい、誰かこの犬を蹴り出せ」


「――シロを、悪く言わないでください」


 ニーナの声色が、この日初めて、はっきりと怒りを帯びて冷たく響いた。


 クロードは一瞬、その強い眼差しにたじろいだが、すぐに己の苛立ちと焦りをぶつけるように、店の中へズカズカとさらに踏み込んできた。

 しかも、外の泥と汚れた雪がついたままの革靴で、ニーナが毎朝ピカピカに磨き上げている綺麗な床板を、わざと汚すように踏み躙りながら。


「……ッ」


 ニーナの眉が、ピクリと不快に動く。


 クロードはカウンターの目の前まで来ると、わざとらしく顎を高く上げ、復職命令の書類を指先でコンコンと叩いた。


「いいか、ニーナ。もう一度だけ言ってやる。帰るんだ、王都へ。今すぐ荷物をまとめろ。そうすれば今ならまだ、この私が広い心で『拾って』やる」


「お断りします」


「しつこいぞ、この無能が!!」


 バンッ!! と、クロードが拳でカウンターを激しく叩く。

 薬瓶がガタガタと揺れた。


「少しは感謝と礼儀を見せたらどうだ! この偉大な私が、お前のような下級のゴミのために、わざわざ直々に迎えに来てやったのだぞ! そもそもお前のような平民が、私に逆らうこと自体が身の程知らずなのだ!」


 そこでクロードは、ニーナの心を折るために、にたりと歪んだ嫌な笑みを浮かべた。


「……そうだ。いい機会だ。まずは貴様に、絶対的な身分の差と『礼儀』を思い出させてやろう。そこへ跪け」


「……は?」


「聞こえなかったか? 床に這いつくばって、この私の泥のついた靴を舐めるように磨き、絶対の忠誠を示せと言っているんだ」


 あまりにも下劣で、あまりにも醜く、何一つ成長していない言い草だった。


 王都にいた頃と、本当に何一つ変わらない。

 いや、特級エリクサーを失い、破滅の危機に追い詰められている分だけ、彼の中の醜悪さがさらに腐臭を放っている。


 ニーナは数秒、心底可哀想なものを見るような目で、黙ってその顔を見つめた。

 それから、ふっとため息をつき、カウンター脇の椅子へ静かに、リラックスして腰を下ろす。


 クロードが「恐怖で腰を抜かしたか」と勝ち誇ったように口角を上げる。

 だがニーナは、靴を磨くどころか、ただテーブルの上に置いてあった自分用のハーブティーのカップを持ち上げた。


 そして、一口、優雅に飲む。


「何度でも言います。お断りします」


 きっぱり。

 これ以上ないほど、完璧な拒絶だった。


 クロードの歪んだ笑みが、ピシッと音を立てて引きつった。


「……貴様、本気で私を怒らせる気か」


「帰ってください。あなたにお出しする甘いお薬も、美味しいお茶も、ここには一つもありません」


「この、生意気な女ァッ――!! 近衛! この女を力ずくで捕らえろ!」


 クロードが激昂して手を振り上げた、次の瞬間だった。


 パキィッ……!!


 店内の空気が、完全に凍りついた。


 比喩ではない。文字通り、物理的に『空気が凍結した』のだ。


 バキ、パキパキッ! と、クロードが汚した床板の上に、凄まじい速度で青白い霜が走り、氷柱が伸びる。

 窓ガラスの端が一瞬で白く凍りつき、暖炉の中で燃えていた赤い火さえも、絶対零度の魔力に当てられて、不気味な青色に揺らめいた。

 クロードの怒声が、肺まで凍りついたように途中で止まる。


「……え? な、なんだ、これ、は……!?」


 クロードが震えながら視線を落とした先。

 ニーナの足元から、空間そのものを歪めるような、凄まじい密度の『神気』が立ち上っていた。


 シロだ。


 真っ白で愛らしい子犬だったはずの小さな身体が、淡く、しかし強烈な銀光に包まれていく。

 光の中で、毛並みが吹雪のようにぶわりと逆巻き、輪郭が風船のように膨れ上がる。

 可愛い骨格が、強靭な獣のものへと変形する。四肢が巨木のように伸びる。すべてを噛み砕く鋭い牙が伸びる。


 あっという間の出来事だった。


 光が晴れたそこにいたのは、もう愛らしい子犬ではない。


 薬局の天井近くまで届くほど巨大な、銀白の狼だった。


 猛吹雪と冬の嵐をそのまま獣の形に凝縮したような、神々しくも恐ろしい巨体。額には高位の魔力を示す淡い青の紋様が浮かび、見下ろす銀色の双眸には、人知を超えた圧倒的な威圧と、虫けらを見るような冷徹さが宿っている。

 その巨獣が息を吐くたび、空気が白く凍りつき、ダイヤモンドダストが舞う。

 ただそこに立っているだけで、部屋そのものが、人間が立ち入ってはいけない『絶対的な神域』へと変貌してしまったようだった。


「ひっ……!! ぁ、あぁッ……!!」


 クロードの喉から、蛙が潰されたような情けない悲鳴が漏れる。


 後ろに控えていた完全武装の近衛たちも、一斉に顔面蒼白になり、剣に手をかけることすらできず、ガチガチと鎧を鳴らして数歩後ずさった。


 シロ――いや、伝説の神獣フェンリルは、クロードを睨み下ろしたまま、低く喉を鳴らした。


「……グルルルルルルッ……」


 その地鳴りのような音だけで、壁の近くに置いてあった薬瓶がカタカタと震え、窓ガラスにヒビが入る。

 ただの殺気というレベルではない。もっと根源的な、生命としての“絶対的な格の違い”だ。

 人間が決して逆らってはいけない、逆らえば一瞬で肉片にされるという、本能的な恐怖の具現。


 クロードは完全に腰を抜かし、泥で汚れた床に無様にへたり込んだ。


「な、な、なんだ……ッ、何なんだ、この化け物は……ッ! 魔獣……!?」


「シロです」


 ニーナは椅子に座り、神獣の巨大な前足にそっと寄り添いながら、静かに答えた。


「私の、一番大事な家族です」


「こ、こんな災害級の化け物が、家族だと……!? ふざけるな!!」


 ギロリ、と。

 フェンリルの銀の瞳が、怒りに細くなる。

 その瞬間、クロードの足元の床から鋭い氷の槍がバキィッ! と突き出し、彼のローブの裾を床に縫い付けて凍りつかせた。


「ひぃぃッ!! す、すいません! 命だけは……!!」


「シロ、だめよ。お店の中を壊しちゃ」


 ニーナが優しくそう声をかけると、巨大な神獣はピタリと氷の魔法を止めた。

 けれど、クロードに向ける殺気までは消えない。

 明らかに怒っている。自分の愛する「ママ」を侮辱し、悲しませようとしたこの薄汚い男に対して、深い、深い怒りを抱いている。


「怖いなら、もう二度とここへ来ないでください。王都へお帰りください」


 ニーナの声音は、クロードへの憐れみすら含んだ、驚くほど穏やかなものだった。

「シロは、私が大事にしているものを傷つける人が、大嫌いなんです」


 クロードは、もう何も答えられない。

 答えるどころか、凍りついた床の上で歯の根が合わず、ガチガチと音を立てて震え、失禁する寸前だった。


 自分より遥か下の底辺だと思っていた女。

 自分が不要なゴミとして、辺境へ追いやったはずの下級錬金術師。

 その足元に、国ひとつを永遠の冬に沈めて滅ぼせるかもしれない伝説の神獣が、忠犬のように従っている。


 その信じがたい現実が、ようやく彼の理解の外側から、ハンマーで殴りつけてきたのだろう。


「か、帰るぞ……ッ! 早く私を立たせろ!!」

 クロードが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、裏返った声で近衛に叫ぶ。

「こ、こんな恐ろしい場所にいられるか!!」


 だが、近衛兵たちもすぐには動けなかった。

 フェンリルの視線ひとつで、身体の芯まで凍りつき、すくんでいるのだ。


 ニーナは小さくため息をつき、お茶のカップを置いた。


「シロ。彼らが帰るから、通り道をあけてあげて」


「……グルッ」


 不満げに喉を鳴らしつつも、フェンリルは主の言葉に従い、一歩だけ身を引いて威圧感を少しだけ弱めた。

 それだけで、呪縛から解き放たれたクロードたちは、我先にと扉へ殺到した。


 が、その途中。


 ツルッ!! と、クロードが自分の靴で派手に滑った。

 ニーナに「舐めて磨け」と言い放った、あの泥のついた自慢の高級靴の底が、凍りかけた床で見事に足を取られたのだ。


「ぎゃっ!?」


 スパーンッ! と、情けない音を立てて背中から無様に転倒し、這うようにして、文字通り逃げ帰るように店の外へ転がり出ていく。

 近衛たちも、彼を半ば引きずるようにしてそれを追った。


 バンッ!! と、乱暴に扉が閉まる。


 ……静寂。


 しばらくして、外から馬車が猛スピードで走り去る音が遠ざかると、ニーナは深く、長く息を吐いた。

 どっと肩の力が抜ける。


「……帰った。よかった」


 その言葉と同時に、薬局を埋め尽くしていた巨大な銀狼が、ふわりと温かい光に包まれ、いつもの見慣れた『もふもふ子犬サイズ』へとシュンッと縮んで戻っていく。


 ポフン、と軽い音を立てて着地したシロは、何事もなかったような無垢な顔で、トタタッとニーナの足元へすり寄ってきた。


「きゅう!」


「もう……いきなり大きくなるから、びっくりしたわ」


 そう言いながら抱き上げると、シロは「俺が追い払ってやったぞ!」と、尻尾を振ってちょっとだけ得意げだった。

 うんと褒めてほしいらしい。


「ふふ、でも、私を守ってくれて、ありがとうね」


 冷たい額を撫でてやると、シロはうれしそうに目を細め、ニーナの手に頬をすりすりと擦り付けた。

 さっきまであれほど神々しく、すべてを凍らせるほど恐ろしかった存在とは到底思えないほど、無防備で甘えた顔だった。


 ニーナは、その柔らかな毛並みに自分の頬を寄せながら、静かに、そして確かな自信を持って思った。


 もう、自分は王都にいた頃の、弱いままの自分じゃない。

 理不尽に怒鳴られて怯えて、自分の意見も言い返せずに、ただ俯くだけの私ではない。

 私には、自分で作ったこの守るべき居場所がある。

 そして、私のことを大切にしてくれる、温かい人(と獣)たちがいる。

 だから、あのクロードに対して、ちゃんと自分の意思で「嫌だ」「帰れ」と拒絶することができた。


 それが、少しだけ、いや、とても誇らしかった。


 だが同時に。

 あの執念深くプライドの高いクロードが、これで「はいそうですか」と、すんなり諦めて王都へ帰るだろうかという、一抹の不安も残る。

 近衛兵をさらに集めて、領主に掛け合って戻ってくるかもしれない。


 ニーナが、少しだけ不安に眉を寄せた、その時だった。


 ドスッ、ドスッ。

 と、外から、馬車の音をかき消すような、地鳴りのような重たい足音が近づいてきた。


 次いで、カランッ! と、扉の鈴が激しく鳴る。


「――ニーナ! 今の悲鳴はなんだ!!」


 低く、よく通る、焦燥を含んだ太い声。


 勢いよく入ってきたのは、黒い分厚い外套をまとった【狂犬公爵】ガルシアだった。

 その後ろには、剣の柄に手をかけたレオンの姿もある。


 二人は店内の異様な様子を見て、瞬時に異変を察したらしい。

 シロが放った冷気で薄く霜が張ったままの床。

 カウンターの上に残された、宮廷の印が押された開け放たれたままの書類。

 そしてニーナの腕の中で、まだ少しだけ殺気を残して機嫌の悪そうなシロ。


 レオンが、いつものお調子者の顔を捨て、金の目を鋭く細める。


「……あー。嫌な予感しかしないんだけど。この残り香、王都の連中か?」


 ガルシアの灰銀の瞳は、カウンターの上の書類の『宮廷印』と『復職命令』という文字を見た瞬間、絶対零度にスッと冷えた。


「……ニーナ。誰が、来た」


 その怒りを押し殺した地を這うような声に、部屋の温度が、シロの冷気とは別の理由で、また一段下がった気がした。


 ニーナはシロをぎゅっと抱いたまま、小さく息をつき、少しだけ困ったように笑った。


「王都の、元上司です。私を連れ戻しに来たみたいです」


 それだけで、状況を察するには十分だった。


 ガルシアの瞳に、明確な、一切の容赦のない『殺意の炎』が宿る。


 どうやら、逃げ帰った哀れなクロードの災難は、神獣の脅威だけでは終わらないらしい。

 この北の地を統べる、最凶の『狼』が、彼を逃がすはずがなかった。


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