第12話 焦る錬金術師長、辺境へ向かう
王都を発つ日の朝、宮廷錬金術師長クロードの顔色は、墓場から這い出してきた死人のように土気色で悪かった。
豪華な自室の全身鏡の前に立っていても、自分が『誰からも羨望されるエリート錬金術師長』として完璧に整っているという感覚がまるでない。いつもなら香油を撫でつけ、一筋の乱れも許さない黒髪も、今日は妙に決まらず、手が震えて何度も櫛を落としては苛立ちの舌打ちを繰り返した。
「落ち着け……私はまだ終わっていない。終わるはずがない……!」
鏡の中の自分を睨みつけ、言い聞かせるように口にしてみても、胸の内で泥のようにドロドロとざわつく焦燥感と恐怖は、少しも静まらない。
昨夜の測定器が叩き出した、計測不能の異常な数値。
古文書と完全に一致した『特級エリクサー』の記述。
次期国王である王太子アレクシスからの、絶対的な調査の厳命。
そして、配給所で暴発寸前だった、血に飢えた現場の騎士たちの怒号。
そのどれもが、不可視のロープとなってクロードの首に巻きつき、じわじわと締め上げていた。
このまま王都で悠長に構えていては、完全に詰む。
王太子直属の監査官に過去三ヶ月の調合記録や魔力消費量を精査されれば、自分がニーナ・アルジェントを個人的な嫉妬で一方的に切り捨てたことも、彼女が提出した『画期的な製法の改善報告書』を読まずに破り捨てていたことも、数日のうちに全て明るみに出るだろう。
だから、監査のメスが入る前に、先に動くしかない。
ニーナを連れ戻す。
自ら辺境へ出向き、錬金術師長という権威と王命を盾にして、強引に復職を命じる。
そして、彼女を王城の地下の特別室にでも軟禁し、再びあの甘い薬(特級エリクサー)を作らせて騎士団へ配給し、王都の危機を収める。
そうしてしまえば、「彼女の才を外で磨かせるための試練だった」とでも言い訳をして、自分の責任を曖昧にできるかもしれない。
――いや、絶対に曖昧にして、全てを私の手柄として上書きするしかない。
「錬金術師長閣下、馬車の用意が整いました」
扉の外から、付き従う下級役人のおずおずとした声がした。
「……護衛の近衛兵は手配できたか」
「は、はい。予定通り六名が同行いたします。王太子殿下の耳に入る前に極秘に出立したいとのことでしたので、表向きは『地方都市の医療体制の定期視察および指導』という名目で手配しております」
「よろしい」
実際は、視察や指導などではない。
国家の至宝である特級エリクサー錬成者の『極秘確保と連行』だ。
しかし、今のクロードには、本来なら大罪にあたるその職権濫用を恥じる余裕すら、1ミリも残っていなかった。
表向きの名目がどうであれ、後でどれほど非難されようと、自分がギロチンを免れて助かる道は、もうそこにしか残されていないのだから。
重たい最高級のローブを翻し、周囲の目を逃れるように、彼は王城の裏門から地味な装飾の馬車へ素早く乗り込んだ。
外は重苦しい曇天。
冬の空気は鋭く冷たく、かつて自分が世界の中心だと信じて疑わなかった王都の豪奢な白壁すら、今は自分を拒絶するように冷たく色を失って見えた。
馬車が石畳を軋ませて走り出すと、クロードは分厚いカーテンの隙間から、窓の外を憎々しげに睨みつけた。
王都の華やかな街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
天を突く煌びやかな塔、整然と並ぶ貴族たちの屋敷、優雅に行き交う人々の群れ。
自分が頂点に立ち、当然のように支配し、見下ろしてきた美しい世界。
その世界の中心から、今、自分は追われるように、逃げるように出ていく。
「……忌々しい」
毒を吐き捨てるように呟き、革張りの座席をドンッと殴りつけた。
全部、全部、あの田舎上がりの生意気な女のせいだ。
ニーナが最初から、「自分の薬が他とは違う特別なものだ」「私こそが伝説の特級エリクサーを作れます」と、明確に、私に分かりやすく土下座して説明していればよかったのだ。
そうしていれば、私だって正当に評価して、私の名義で発表してやったかもしれないのに。
宮廷の伝統式に従って、大人しく私の手足となって働いていれば、こんな面倒なことには――。
そこまで身勝手な責任転嫁を考えたところで、クロードはふと、自分で気づいてしまう。
……違う。
もし彼女がそんな申告をしたところで、あの時の自分は「田舎者の妄言だ」と鼻で笑い飛ばしただろう。
いちごの匂いがする、ピンク色のふざけた甘い薬が『伝説の秘薬』だなどと、どれだけ真剣に説明されても、絶対に聞く耳を持たなかったはずだ。
自分の狭い常識とプライドが、彼女の才能を認めることを拒絶したのだから。
「……っ、違う! 私は悪くない!!」
喉元まで這い上がってきた『己の無能さ』という認めたくない現実に触れかけて、クロードは顔を醜く歪め、耳を塞いだ。
◇ ◇ ◇
馬車は、王都を出て北へ、北へと急ぎ足で進んだ。
王都から離れるほど、舗装された街道は荒れた土の道へと変わり、行き交う立派な荷車の数も減っていく。宿場町は質素でみすぼらしくなり、建物の背も低くなる。空気は乾いて肌を刺すほど冷たく、平地にうっすらと雪が残る殺風景な景色が次第に増えていった。
王都を出発して数日目の夜。
道中の宿場町の粗末な(クロードの基準では)部屋で、彼は暖炉の前に立ったまま、苛立ちに爪を噛んでいた。
「寒い……隙間風ばかりだ。こんな文化の果てのような場所に、あの女は本当に住んでいるのか?」
「事前の身辺調査の報告では、間違いなくグラキエス辺境伯領の中心都市『ルーンフェルド』の南区に、居住および店舗登録があるとのことです」
同行している近衛兵の一人が、無表情で答える。
「なんでも、個人の薬局として営業している、と」
「ふん、薬局、だと……」
クロードは馬鹿にしたように鼻で笑いかけて――途中で、顔の筋肉を固まらせた。
笑えない。
あの大人しく、誰の庇護もなかった小娘は、本当に、自らの力で自分の店を持ってしまったのだ。
宮廷という絶対的な権威に泣いてしがみつくどころか、早々に独立し、別の土地で一国一城の主として立場を築き始めている。
なぜだ。
どうしてあの女は、人生の終わりのような『解雇宣告』を受けてなお、平然と前を向いて歩ける?
クロードの中には、あの時から今でも理解できない、不気味な違和感が残っていた。
大勢の錬金術師たちの前で解雇を告げたあの日。ニーナは絶望して怯え、泣き崩れ、私の足元に縋りつくはずだった。
そうでなければならなかった。
宮廷の席を失えば文字通り何も残らないはずの下級錬金術師が、どうしてあんなに、静かで晴れやかな顔をしていたのか。
その答えが、王都の崩壊を目の当たりにした今なら、薄々分かる。
彼女にとって、宮廷は“栄誉ある神聖な職場”などではなかったのだ。
自分の才能を否定され、他人の尻拭いという重労働と理不尽ばかりを押しつけられる『地獄の檻』だった。
だから、追い出された時、彼女は絶望するどころか、内心では歓喜し、解放感すら抱いていたのかもしれない。
「……馬鹿げている」
自分の胸に浮かんだその屈辱的な推測を、クロードは即座に頭を振って打ち消した。
そんなことがあっていいはずがない。
宮廷勤めは絶対の誇りであり、王都の恩恵であり、貴族も平民も誰もが羨む地位だ。
そこから逃げて喜ぶなど、価値の分からぬ愚か者の発想だ。狂っている。
だが同時に、自分が逃げてきた王都での残酷な現実が脳裏をよぎる。
激マズで、一向に治りの遅い配給薬。
剣を抜いて暴発寸前の騎士たち。
王太子アレクシスの絶対零度の叱責。
魔獣の群れに崩れ始めた防衛線。
もし、本当に価値が分かっていなかった愚か者がいるのだとすれば。
それは、ニーナではなく――。
「ええいっ! 忌々しい!!」
クロードは歯をギリッと食いしばり、それ以上の自己批判の思考を完全に遮断した。
これ以上考えてはならない。自分が壊れる。
今はただ、ニーナを連れ戻すことだけを考えろ。自分の地位を取り戻すことだけを。
◇ ◇ ◇
それからさらに数週間後。
馬車が王国最北端へと進むにつれ、窓の外の景色は完全に異世界のものへと変わった。
天を突く深い針葉樹の森。
荒々しい白銀の山並み。
大人の背丈ほども高く積もる雪の壁。
吐く息は濃く白く、馬車を引く頑強な馬たちの鼻先からも、激しい湯気が上がっている。
グラキエス辺境伯領。
王都の貴族たちが“罪人の行く流刑地同然”と鼻で笑い、蔑む、最果ての極寒領。
クロードは馬車の中で、分厚い熊の毛皮の外套にくるまりながら、ガタガタと震えつつ窓の外を睨んでいた。
「なんと不毛で、野蛮な土地だ。こんなところに人が住めるはずがない」
「……ですが、錬金術師長殿。思ったより人の往来が激しいです」
御者台から、護衛の近衛兵が怪訝そうな声を上げる。
「王都から続く他の主要街道よりも、商隊の数が多い。雪道だというのに、街道整備も完璧になされています」
「なんだと? 辺境のくせに生意気な」
吐き捨てた言葉とは裏腹に、クロード自身も窓の外を見て、強烈な違和感を覚えていた。
もっと、何もかもが荒れ果てていると思っていたのだ。
一年中雪と寒さに埋もれた、貧しく惨めな土地。住民は栄養失調で痩せ細り、街は寂れ、防壁は崩れかけ、王都からの支援物資という慈悲がなければ生きていけないような、惨めな辺境。
そんな場所で、ニーナが後悔の涙を流しながら震えている姿を想像し、優越感に浸るつもりだった。
だが、実際に視界に飛び込んできた光景は、クロードの矮小な想像とは全く違った。
グラキエス領の中心、城塞都市ルーンフェルド。
その外壁は王都の壁よりも厚く堅牢で、見張り塔には魔石の光が力強く灯っている。巨大な鉄の門前には、荷車が長蛇の列を作り、良質な毛皮や木材、珍しい乾燥薬草、山ほどの食料を載せた他領の商隊たちが、活気ある声でひっきりなしに出入りしている。
街の中へ入れば、大通りは魔法で完璧に除雪され、石造りの頑丈な店先には温かい明かりが灯り、通りを歩く人々の顔色はツヤツヤとして、冬の寒さに負けない活気に満ちていた。
むしろ――今の疲弊した王都よりも、圧倒的に豊かで、活気がある。
「……何だ、これは」
クロードは、信じられないものを見るように窓から身を乗り出し、街の通りを凝視した。
市場には、冬だというのに新鮮な果実や高級な燻製肉が山のように並び、広場では防寒着を着込んだ子どもたちが、笑い声を上げて元気いっぱいに雪玉を投げ合っている。
すれ違う獣人の騎士たちは皆、傷一つなく筋骨隆々で、自信に満ちた顔でパトロールをしている。行き交う者たちの口元には余裕の笑みがあり、街全体に、まるで春のような妙な熱気と温かさがある。
王都のように芸術的に美しい、というわけではない。
けれど少なくとも、クロードが見下して思い描いていた“寂れて死に絶えそうな雪国”では、断じてなかった。
その異常な発展の理由を、馬車を止めた検問所の門番とのやり取りの中で、クロードは嫌でも知ることになる。
「ようこそルーンフェルドへ! 最近はこの街も景気が良くてねえ」
門のそばに立つ年配の門番が、王都からの馬車だと知っても萎縮することなく、朗らかに笑って言う。
「特にここ数週間は凄いんだ。南区の薬師の先生のおかげで、騎士団の連中も街の人間も、ずいぶんと助かってるんだわ」
「……薬師?」
クロードの喉が、ギリッと嫌な音を立ててひきつった。
「なんだ、王都のえらい役人さんなのに、あの先生の噂を知らねえのかい? 甘くて、どんな怪我も一瞬で治っちまう奇跡の薬を作る、若くて美人の錬金術師さんさ! あの人がこの街に来てから、騎士様たちの怪我の治りは異常なほど早いし、おかげで魔獣の討伐も進んで街道の安全も完璧に確保された。安全だから他国からの商人もどんどん入ってくるし、冬の病気で死ぬ老人もいなくなったんだ」
「商人まで、薬一つで……?」
「ああ! 薬ってのは、ただ怪我を治すだけじゃない。回り回って、人の命を救い、経済を回して『街そのものを元気にする』もんだって、俺たちも最近あの先生のおかげでよく分かったよ」
門番は、ただ純粋に街の恩人を誇るように、何気なく言っただけだろう。
だが、クロードにとっては、その一言一言が、鋭い氷の刃となって己の心臓をズタズタに刺した。
薬が街を元気にする。
騎士団が健康なら、街道も守られる。
安全が増せば流通が活性化し、商人が集まり、街全体が豊かになる。
一介の薬師が、たった一人で、一つの辺境領の経済と軍事力を劇的に底上げしてしまった。
そんな当たり前の、しかし恐るべき因果すら、自分は王都の狭い塔の中で見ようとしてこなかったのか。
「……その、薬師の小娘の名は?」
分かっていながら、吐き気をこらえてあえて問う。
門番は、まるで女神の名を呼ぶように、にこやかに答えた。
「ニーナ先生だよ。いつも足元に、真っ白で可愛いもふもふの犬を連れてる、最高に優しい薬師さんだ」
ビキッ。
クロードのこめかみに、太い青筋が浮かび、顔面が引きつった。
やはりそうだ。
間違いない。特級エリクサーだ。
この辺境の街の異常な活気と発展の中心にいるのは、ニーナ・アルジェントだ。
自分が無能だと切り捨てた女が、王都ではなく辺境で奇跡を起こし、街を豊かにしている。
その覆しようのない事実が、クロードの胸の奥の嫉妬と焦燥、そして自尊心を、ぐちゃぐちゃにかき乱した。
「錬金術師長殿、どうなさいますか」
近衛の一人が、冷ややかな目で尋ねる。
「王都の使いとして、まずは領主である辺境伯館へ挨拶を入れますか」
「……いや、挨拶など不要だ。真っ直ぐに、南区の薬局へ向かえ」
即答だった。
領主への挨拶など後回しでいい。いや、ここで辺境伯に事情を知られれば、優秀な人材を手放すまいと口出しされる可能性がある。
もたもたしている暇はない。王都では時間がないのだ。
騎士たちの不満も、王太子アレクシスの処刑の追及も、じわじわと自分の首元まで迫っている。
先にニーナを押さえる。
言いくるめて話をつける。
必要なら、王太子殿下の名(王命)をでっち上げてでも、近衛の武力を使って馬車に押し込み、王都へ連れ戻す。
馬車を南区へ向かわせながら、クロードは頭の中で必死に説得の言葉を並べた。
どう出る?
懐柔か、強硬な命令か。
まずは恩着せがましく「お前の反省の態度が見えたから、特別に呼び戻してやる」と上から目線で言うか。
いや、辺境の田舎者たちに多少持ち上げられているなら、「宮廷錬金術師という至高の名誉を再び与える」とエサをちらつかせるのが効果的かもしれない。
もし渋るようなら、王都の騎士たちが苦しんでいるという危機を理由に、良心に圧をかければいい。
あの女は馬鹿がつくほど真面目でお人好しだ。患者を見捨てられない甘い性格を利用すれば、必ず落とせる――。
そこまで、己に都合の良い妄想を組み立てた時。
馬車の窓から見えた一つの建物に、クロードは思わず息を呑み、目を見張った。
南区の、日当たりの良い一角。
決して大きくはない、煉瓦造りの平屋の家。
だが、入口まわりの雪は完璧に除雪されて綺麗に手入れされ、窓辺には可愛らしい飾り布と花が飾られ、軒下には質の良い乾燥薬草の束が吊るされている。
店先には『ニーナの辺境薬局』と書かれた、温かみのある立派な木製看板が掲げられ、すでに数人の街の人間や、屈強な獣人騎士たちが、笑顔で出入りしている。
そして何より、その建物の周囲に漂う『空気』が違った。
極寒の地のはずなのに、そこだけが春のように温かい。
人が自然と集まり、皆が安心した顔で扉をくぐり、出てくる時には誰もが幸せそうな笑顔を浮かべている。
小さな店でしかないのに、まるでこのルーンフェルドの街の『心臓』みたいに、そこだけが柔らかな、強い生命の熱を持っていた。
「……あれが、あの無能の店だと……」
クロードは、ギリッと歯を食い縛り、呆然と呟く。
自分の想像では、もっとみすぼらしく、惨めな場所のはずだった。
ニーナはせいぜい、隙間風の吹く古びたボロ小屋で、その日暮らしの安い薬草でも売って、凍えながら日銭を稼いでいるのだろうと思っていた。
偉大な王都を追い出された女が、そんな程度の底辺の暮らししかできないと、勝手に決めつけて見下していた。
だが、違う。
あの店は、確かにこの地に“深く根を下ろしていた”。
この街の人々に必要とされ、心から受け入れられ、愛され、守られている場所の顔をしていた。
クロードの胸の中で、黒く醜い感情が、泥水のようにぐつぐつと煮え立つ。
強烈な嫉妬。
焦り。
理不尽な苛立ち。
そして、自分の完全な敗北を突きつけられる、理解したくない現実への激しい拒絶。
どうしてだ。
なぜ、私が捨てたゴミが、こんなふうに眩しく輝いて見える?
あの女は、私の足元で這いつくばって泥を舐めるべき存在だろうが!
「……ふんっ」
無理やり鼻を鳴らし、クロードは嫉妬で顔を醜く歪めた。
「所詮は地方のド田舎の小店だ。無知な平民や獣人が少し集まっている程度で、何を偉そうに。宮廷の足元にも及ばんわ」
自分に言い聞かせるような、虚勢を張った言葉だった。
同行している近衛兵たちは、そんな惨めな男の強がりに、誰も同調の相槌を打たなかった。
やがて、馬車が薬局の目の前で止まる。
クロードはゆっくりと馬車から降り立ち、高級な革靴で辺境の雪を踏みしめた。
厳しい冷気が足元から這い上がる。
目の前には、温かい明かりの漏れる、ニーナの薬局。
あの薄っぺらい扉の向こうに、自分の命綱であるあの女がいる。
クロードは重厚な外套の襟を正し、顎を上げて顔を高く上げた。
王都で長年積み上げてきた『権威』という名の鎧を総動員し、いつもの傲慢で人を見下す錬金術師長の顔を作る。
大丈夫だ。
自分は腐っても宮廷の人間だ。
この辺境の小娘とは、最初から身分も立場も違う。
王都の名を出し、私の命令だと凄めば、きっとニーナはかつてのようにビクビクと怯むはずだ。
そして「私の一存で宮廷に戻してやる」と言えば、涙ぐみ、感謝し、私の足元にすがるに決まっている。
自分が「戻ってこい」と命じれば、きっと犬のように喜んで尻尾を振って従うはずだ。
そうでなければ、困るのだ。自分が殺されるのだから。
クロードは自分の胸の内にある薄暗い不安を強引に押し潰し、近衛兵を後ろに控えさせて、薬局の扉の前に立った。
「ふん。私が直々に迎えに来てやったのだから、さぞかし泣いて喜ぶはずだ」
誰に聞かせるでもなく、自分自身を洗脳するようにそう呟く。
そのひどく身勝手な声は、辺境の寒空に白く虚しく溶けて消えた。
けれど、哀れなこの男はまだ知らない。
その扉の向こうには、もう王都で彼が怒鳴りつければ、肩をすくめて黙って従うだけの『都合の良いニーナ』は存在しないということを。
そして、彼女のすぐそばには、彼女を害する者を絶対に許さない、規格外の“もふもふの神獣”と、国最強の“狂犬の狼公爵”が、牙を研いで待ち構えていることを。
傲慢な元上司は、まだ自分がこの劇の主導権を握っていると本気で信じ込んだまま、ゆっくりと、破滅の扉へ手を伸ばした。




