第10話 一方その頃、王都では激マズ薬で暴動が起きていました
同じ頃。
ニーナが最果ての雪の辺境で、温かいもふもふと不器用な騎士たちに囲まれながら、念願だった穏やかなスローライフを満喫し始めているその裏で。
彼女を理不尽に追放した華やかな王都は、内側からじわじわと、しかし確実に腐り始めていた。
もともと王都の冬は、辺境のルーンフェルドほど厳しくはない。
雪は数回舞う程度で、広大な石畳の街道は魔力具によって常に凍結から守られ、国中から豊かな人と物が集まる。王城を中心に広がる白亜の街並みは壮麗で、特権階級の貴族たちは、赤々と燃える暖炉の火と贅沢な毛皮に包まれ、連日優雅な夜会を開いて暮らしている。
だが、その華やかな都を物理的に護る『盾』である軍部の空気には今、かつてないほどピリピリとした不穏さと、どす黒い疲労が混じっていた。
原因は、王城の騎士団専用医務棟で配給される『ポーション』だった。
「……うおぇっ、くっさ……」
夜の魔獣討伐の任から帰還した若い騎士の一人が、配給窓口で受け取った瓶のコルク栓を抜いた瞬間、強烈な吐き気を催して顔をしかめた。
ガラス瓶の中でどろりと重く揺れる液体は、黒に近い、ヘドロのような濃緑色。
水飴のようにとろみが強く、ランプの光をほとんど通さない。瓶に鼻を近づけるまでもなく、腐った薬草と焦げた獣の油、そして泥水を煮詰めて三日放置したような、胃袋を裏返したくなるような激臭が立ちのぼっていた。
「またこれかよ……。この激マズ泥水」
「なぁ、昨日よりさらに臭くなってないか? 目が痛いんだけど」
「いや、色も完全におかしいだろ。人間の飲み物の色じゃねえよ」
「『魔獣の毒液です』って言われたほうが、まだ納得して飲めるレベルだぞ」
配給の列に並ぶ、泥と血にまみれた騎士たちの顔は、揃いも揃って絶望に引きつっていた。
以前の配給薬も、決して美味くはなかった。苦くて泥臭かったが、息を止めて気合を入れれば、まだ飲めなくはなかった。
ところが、ここ数週間――正確には、あの『ピンク色の甘い薬』を作っていた下級錬金術師の少女がいなくなってから――薬の質が目に見えて、いや、舌と胃袋で確信できるほど劇的に悪化しているのだ。
苦い。
とにかく、舌の根が麻痺するほど苦い。
しかも、吐き気を催すほど臭い。
無理やり飲み込んだあと、舌と喉の粘膜の上にべったりとへばりつく、硫酸のような渋みとえぐみが、半日経っても消えない。
そのくせ、これほどの苦痛を強いる劇薬のくせに、肝心の『効き目』が恐ろしく鈍いのだ。
以前なら一晩で塞がっていた切り傷が、三日経っても塞がらない。発熱に対する解熱効果も薄く、服用後の魔力酔いによる「だるさ」や「吐き気」が長引き、訓練にすら復帰できない。
最前線で命を懸けている現場の騎士たちは、とっくに心身ともに限界だった。
「さっさと受け取って飲め! 後ろがつかえているだろうが!」
窓口の奥から、ヒステリックで苛立った声が飛ぶ。
薬品管理を任されている、クロードの派閥の下級錬金術師だ。彼らもまた、ニーナに押し付けていた莫大な雑務が自分たちに降りかかってきたことによる寝不足と、騎士たちからの連日の苦情の嵐にうんざりしているらしく、顔に露骨な疲労と苛立ちを浮かべていた。
若い騎士は、嫌そうに鼻をつまんで瓶を受け取った。
「なあ、ほんとにこれ、ちゃんと効くんだろうな? 先週の怪我がまだ痛むんだが」
「黙れ。宮廷錬金工房の正式な『伝統レシピ』で作られた配給品だ。効かないわけがないだろう。貴様らの気合が足りないだけだ」
「でも、前の薬のほうがずっと早く――」
「口答えするな! 配給に文句があるなら、飲まずに失血して死ね!」
冷酷にぴしゃりと切られ、騎士は怒りで舌打ちしそうになるのを必死にこらえた。
だが、列の後ろからは、もはや隠しきれない不満と不信の声が、さざ波のように上がり始めている。
「なあ、前のピンクのやつ……あれのほうが絶対効いたよな?」
「ああ、一瞬で痛みが引いたし、あんなに臭くなかった」
「そうそう。色は子ども騙しみたいに派手だったけど、ジュースみたいに甘くて、むしろ水より飲みやすかったくらいだ」
「俺、あの薬のおかげで死にかけた熱が下がったんだ。あれ作ってた金髪の可愛い子、最近全然見ないな」
「錬金術師長に『宮廷の恥だ』って罵倒されて、不当解雇されたって噂、マジかよ」
「はあ!? なんで!? あんなに腕が良かったのに!?」
ざわっ、と。
医務棟の空気が、不穏な熱を帯びて揺れた。
その時。
奥の重傷者用の治療台から、悲痛なうめき声が上がった。
魔獣の討伐任務中に肩から胸にかけて深く裂かれた中堅騎士が、配給された泥のようなポーションを、激痛に耐えながら無理やり飲み込んだ瞬間だった。
「ぐっ……おぇぇっ……!!」
彼は顔を土気色に青ざめさせ、口元を激しく押さえた。
次の瞬間、堪えきれずに、ベッドの横の床へ胃液ごと激しく吐き戻してしまった。
「うわっ!」
「ちょ、おい隊長! 大丈夫ですか!?」
「だから言ったろ、今の重傷でこの激マズ薬を胃に入れるのは無理だって!」
医務兵が慌てて駆け寄るが、吐き戻した当人は、激痛と吐き気で涙目になりながら、荒い息をついていた。
「ふ、ふざけんな……何だこれは……っ! 傷の痛みより、薬を飲むほうがつれえ……! 胃袋が焼ける……ッ!!」
その血を吐くような悲痛な叫びは、静まり返った医務棟に痛いほど響き渡った。
誰もが、心の底からそう思っていた。
けれど、権威ある錬金術師たちに逆らうことを恐れて、口に出すのをためらっていた本音だ。
傷よりつらい薬。
命を救うための治療のはずなのに、飲むことそのものが『死ぬほどの苦痛』でしかない劇薬。
ついに、列に並んでいた血の気の多い別の騎士が、持っていた濃緑の瓶を乱暴にカウンターの壁へ叩きつけた。
「こんなもん、人間の飲むもんじゃねえ! 飲めるか!!」
ガシャンッ!! と、鋭い音を立ててガラスが割れる。
濃緑のヘドロのような液体が壁に飛び散り、鼻の粘膜を刺すような強烈な悪臭が、医務棟一帯に一気に広がった。
「おい、貴様! 宮廷の神聖な備品に何をする!」
「こっちの台詞だ、クソ錬金術師! こんな激マズで、吐き気がして、おまけに治りのクソ遅いゴミを特効薬だと偽って押しつけやがって!」
「き、宮廷の権威と伝統への侮辱だぞ! 反逆罪で牢に入れるぞ!」
「侮辱されて傷ついてるのは、俺たちの胃袋と命だ!!」
怒鳴り声が幾重にも重なる。
一人が溜め込んでいた怒りを爆発させると、ギリギリで我慢していた不満の空気は、あっけなく決壊した。
「そうだそうだ!」
「こっちは遊びじゃない! 命かけて防衛線張ってんだぞ!」
「前のピンクの薬を戻せ! あの娘を連れ戻せ!」
「なんで急に質が落ちたのか、ふざけた色の泥水になったのか、ちゃんと説明しろ!」
「苦いだけならまだしも、治りまで五倍も遅いってどういうことだ! 粗悪品を横流しして中抜きでもしてんのか!」
次々と上がる怒号に、武器を手にする者まで現れ、医務棟は一気に騒然とした暴動一歩手前の状態となった。
配給係の錬金術師たちは恐怖で青ざめ、腰を抜かして「れ、錬金術師長を呼べ!」と悲鳴を上げる。
騎士たちの怒りは、あまりにも真っ当だった。防衛線で負傷した兵士たちが、命を繋ぎ、再び剣を握るために立つ場所。その現場で配られる命綱である薬が『全く信頼できない毒』であるという事実は、王都の防衛そのものを根底から揺るがす大問題だった。
ほどなくして、騒ぎを聞きつけた錬金術師長クロードが、護衛を伴って現れた。
「……底辺の兵隊どもが、何の騒ぎだ」
宮廷錬金術師長クロード。
高価な金糸の刺繍が入ったローブを完璧に着こなし、艶のある黒髪を一筋も乱さず現れたその姿は、血と泥にまみれた医務棟の混乱の中にあっても、妙に芝居がかっていた。
彼は鼻をつく悪臭に嫌悪露わにハンカチを当て、割れた瓶と、殺気立つ騎士たちの顔を冷ややかに見回した。
「何の騒ぎ、だと……!?」
最前列にいた、歴戦の古参騎士が一歩前へ出た。
右頬に走る古い傷跡が、怒りでピクリと引きつっている。
「こっちはそれを聞いてるんだよ、エリート錬金術師長殿。なんだこのゴミみたいな薬は! 苦い、臭い、そして何より『効きが遅い』! 前の配給品とは、天と地ほど品質が違う別物じゃねえか!」
クロードは、底辺の労働者に噛みつかれた貴族のように、露骨に顔をしかめた。
「無知な猿どもめ。薬とは、本来そういうものだ。強い苦味と臭いは、高濃度の魔力成分が含まれている証拠。良薬は口に苦しという言葉も知らんのか。我が宮廷工房の効能と品質に問題はない」
「大ありだから言ってんだろが!」
「傷の塞がりが、ニーナがいた時の五倍は遅えんだよ!」
「熱も三日経っても下がらない! 化膿してる奴もいる!」
「吐いて水分を失って、衰弱死しかけてるやつまで出てるんだぞ!」
クロードは一瞬だけ焦りのように目を細めたが、すぐに持ち前の傲慢さで鼻で笑った。
「ふん。貴様らが平和ボケして軟弱になっただけだ。あの無能な小娘が作っていた、魔力を薄めたジュースのような『お遊戯の薬』に甘やかされた結果、本来の格式ある少し苦い薬すら受けつけない、ひ弱な胃袋になったのだろう。甘ったれるな」
その見下すような言葉に、医務棟の空気が、絶対零度に凍りついた。
次の瞬間。
「……ふざけるなァァァッ!!!」
殺意を伴った怒号が弾けた。
「俺たちが、軟弱だと!?」
「毎日戦場で、魔獣と泥まみれで殺し合って帰ってきてんだぞ!」
「俺たちの命綱の薬が使い物にならねえって、戦士としての死活問題の話をしてるんだ!」
「安全な王城の奥でふんぞり返ってるだけの無能が、現場の俺たちに偉そうに抜かすな!! ぶっ殺すぞ!!」
チャキッ! と、数十人の騎士たちが一斉に剣の柄に手をかけ、半ば引き抜いた。医務兵たちが「や、やめろ!」と慌てて止めに入るが、熱狂した彼らの耳には届かない。
もはや不満の表明ではない。完全な暴動だった。
クロードが「ひぃっ」と悲鳴を上げて後ずさり、護衛を盾にした、その時。
「――剣を収めよ!! 何事だ!!」
よく通る、覇気に満ちた鋭い声が、暴動の混乱を切り裂いた。
人垣が、モーゼの海のように割れる。
現れたのは、この国の次期国王――王国第一王太子、アレクシスだった。
まだ二十代と若いが、端正な顔立ちと鋭いサファイアブルーの瞳には、生まれながらの王族の威厳と、軍を束ねる将としての冷徹さがある。
完全武装の近衛兵を引き連れて医務棟へ踏み込んだ彼は、床に散った黒い液体の悪臭と、怒り狂う騎士たちの殺気を見て、一瞬で事態の深刻さを悟ったようだった。
「説明しろ、クロード。これはどういう状況だ」
「で、殿下! おお、素晴らしいタイミングで! 実はこの野蛮な騎士たちが、伝統ある宮廷の薬の苦味に耐えかねて、言いがかりをつけて暴動を――」
「違う!!」
クロードの言い訳を遮るように、先ほど吐き戻した重傷の中堅騎士が、血を吐くような声で叫んだ。
「アレクシス殿下! この薬は明らかにおかしいんです! 前にニーナという錬金術師が作って配られていたものより、魔力濃度も回復力も、明らかに劣悪な粗悪品です! 飲むのも地獄のような苦しみです!」
「私も証言します!」
「現場の回復速度が、先月までの五分の一に落ちています!」
「そのせいで兵のローテーションが回らず、前線での防衛線が突破されかかっているんです!」
次々と上がる、血と泥にまみれた現場の兵士たちの悲痛な訴えに、王太子の端正な表情が、夜叉のように厳しくなっていく。
彼は割れずに残っていた一本の濃緑の瓶を取り上げ、栓を抜いて中身の臭いを嗅いだ。
その瞬間、王太子の眉間の皺が、険しく深く刻まれた。
「……なんだこの不純物の塊のような臭いは。なぜ、ニーナがいた時のあの澄んだ薬と、これほどまでに質が違う?」
低く、地鳴りのような、だがはっきりとした怒りを孕んだ問いだった。
クロードの肩が、びくりと大きく揺れた。
「そ、それは……! 調合責任者が私に一本化されたことで、より格式ある、本来の宮廷式の伝統レシピに忠実に戻しただけで――」
「私は、味や色の話をしているのではない」
王太子は、クロードの言葉を冷酷にぴしゃりと切り捨てた。
「『治癒速度』の話をしているのだ。投薬後の回復率と、兵の生存率だ。私が、最前線から毎日上がってくる戦況報告書を読んでいないとでも思うか?」
ドンッ! と、王太子は持っていた革表紙の分厚い報告書を、カウンターに叩きつけた。
「ニーナがいた時期の防衛線の損耗率と、彼女を追い出した後の一ヶ月の損耗率。……負傷兵の戦線復帰日数が、露骨に、あり得ないほど悪化している。昨日など、魔獣の群れに第一防衛線を突破されかけたのだぞ!」
医務棟が、水を打ったように静まり返った。
クロードの顔から、さぁっと血の気が引き、蒼白になった。
「そ、それは……たまたま、今月は凶悪な魔獣が多かったという、偶然のばらつきで……」
「ただの偶然で、国の存亡に関わる防衛線の損耗率が、三倍にも跳ね上がるものか!!」
王太子の激しい怒声が、医務棟のガラス窓を震わせた。
張りつめた空気の中、アレクシスは一歩踏み出し、クロードの高級なローブの胸ぐらを、ギリッと音を立てて掴み上げた。
「答えろ。なぜ質が落ちた。なぜ現場で血を流す騎士たちが、これほどまでに苦しんでいる。なぜ『ニーナ』という下級錬金術師の名が、これほど多くの現場の者たちの口から、救世主のように上がる!」
王族らしい気品をかなぐり捨てた、国を想うが故の激しい剣幕に、周囲の近衛兵たちすら息を呑んで硬直した。
クロードの喉が、恐怖でひくりと鳴る。
「わ、私は……規定通りに……! 何百年も続く、宮廷伝統の正しい手順で調合を……!」
「その古臭い伝統とやらで、我が国の尊い兵が死ぬなら、そんなものは今日この時点で無価値のゴミだ!!」
その一言は、医務棟にいたすべての騎士たちの胸に、熱く、深く刺さった。
王都の防衛を担う彼らは、黙ってそれを聞いていた。
皆、思っていたのだ。
飲みにくさや、色がピンクで恥ずかしいといった、表面的な見栄の問題ではない。
戦場の現場で必要なのは、ただ一つ。『きちんと治る薬』だ。
無駄な苦痛を強いることなく飲めて、早く傷が塞がり、明日も生き延びて剣を握れるようにしてくれる、本物の薬だ。
そして、その『奇跡のような本物の薬』を作っていた少女は――クロードの嫉妬と傲慢によって追放され、もう王都にはいない。
王太子は、汚いものを捨てるように、クロードを突き放した。
「直ちに、医務棟および宮廷工房の全ポーションの在庫を再検査しろ。過去三か月分の調合記録、配給記録、個人の魔力消費量、回復報告のすべてを、今すぐ私の執務室へ持ってこい。一つでも改ざんや隠蔽があれば、国家反逆罪として首をはねる」
「で、殿下……!! お慈悲を……!」
「それと。ニーナ・アルジェントを『無能』と断じて解雇した経緯についても、関わった者全員を尋問し、徹底的に洗い直す」
その氷のような言葉に、クロードは完全に凍りついた。
騎士たちの間にも、どよめきが走る。
次期国王である王太子自らが、一介の下級錬金術師の名を出して調査を命じた。
それだけで、この件が単なる現場の不満では終わらず、宮廷内の大規模な粛清に繋がると誰の目にも明らかだった。
「クロード。もし、お前の個人的な嫉妬と偏見で、この国にとって有能な錬金術師を不当に排斥したのだとしたら――」
王太子のサファイアブルーの瞳が、絶対零度の殺気を帯びて光る。
「私はお前を、そしてお前の派閥の者を、決して許さない」
クロードの唇が、ガチガチとわなわな震えた。
だが、今さら何を言っても、どんな言い訳を取り繕っても遅い。
床には無惨に割れた緑色の瓶。
鼻を刺す、誤魔化しようのない粗悪品の悪臭。
怒りと不信に満ちた、現場の騎士たちの目。
そして、防衛線の崩れと兵士の死を示す、動かぬ報告書の山。
長年、彼が他人の手柄を横取りし、権威で隠し続けてきた宮廷錬金工房の『腐敗という綻び』は、ニーナというただ一人の大黒柱を失ったことで、もう誰の目にも明らかなほど完全に崩壊していた。
◇ ◇ ◇
そしてその夜。
王城の高塔にある、豪華な錬金術師長室で、クロードは一人、亡霊のように青白い顔をして机に向かっていた。
目の前には、ニーナが残していった膨大な調合記録の束。
彼女が使っていた地下のボロい作業台から回収させた、試薬の破片。
そして、ゴミ箱に捨てられていた、「ピンク色の残留物」がこびりついた古いガラス瓶。
「馬鹿な……そんなはずはない……。あんな田舎上がりの無能な小娘が、私を超える薬など……」
ブツブツと譫言のように呟きながら、震える手で、宮廷に一つしかない最高精度の『魔力測定器』を、そのピンク色の残留物にかざす。
ピピッ、ピピピピピッ!!
測定器の針が、異常な音を立てて、限界値まで一気に跳ね上がった。
クロードの血走った瞳が、こぼれ落ちんばかりに大きく見開かれる。
「な、んだ……この異常な数値は……っ」
宮廷式の通常ポーションでは、絶対にあり得ない反応。
患者を苦しめる『魔力毒』の残滓が0.01%未満という神業レベルで少なく、逆に、細胞を再生させる『治癒活性値』だけが、通常の百倍近い、計測不能な数値を叩き出している。
あり得ない。
絶対に、認めたくない。
だが、古代文明の遺物である計測器は、冷酷なまでに正確だ。
あのピンク色の、甘ったるくて、いちごの匂いがする見栄えだけの“子ども騙しの粗悪品”だと、鼻で笑って踏みにじった薬。
自分が「宮廷の伝統を汚す恥だ」と断じて、その製作者ごと王都から永遠に追放した薬。
この、毒素を完全に中和し、治癒力のみを極限まで高めた『完璧な配合』。
もし、これが、おとぎ話ではなく実在するものだとしたら――。
「特級……エリクサー……?」
クロードの干からびた喉から、ヒューッ、と掠れた絶望の声が漏れた。
その瞬間、これまで自分が傲慢さゆえに切り捨ててきたものの『本当の意味』が、巨大な絶望の魔物となって、クロードの首を締め上げてきた。
王都の最前線で戦う騎士たちが、血の涙を流して求めていたもの。
王太子アレクシスが、激怒して問いただした理由。
ニーナの作る甘い薬だけが持っていた、他とは次元の違う明らかな『奇跡という異質さ』。
クロードの背を、ぞわりと氷のような冷たい汗が伝う。
国宝。いや、世界を揺るがすほどの価値を持つ、伝説の秘薬『特級エリクサー』。
それを無自覚に量産できる唯一無二の神の申し子を、自分は「生意気だ」という理由だけで、最果ての魔境へと追放してしまったのだ。
「う、そだろ……あ、あぁ……っ」
もしこの事実を、王太子や国王が知れば。
自分は間違いなく、国家の最高戦力を意図的に削ぎ落とし、国宝を捨てた『国家反逆の極刑(死刑)』に処される。
恐怖で歯の根が合わず、クロードは椅子から転げ落ち、床を這いつくばった。
「連れ戻さなければ……! 今すぐあの小娘を、這いつくばってでも辺境から連れ戻して、私の手柄として囲い込まなければ、私が殺される……ッ!!」
狂ったように叫ぶその姿は、かつての傲慢な錬金術師長の見る影もなかった。
一方、その頃、最果ての極寒領では。
温かい暖炉の前で神獣シロがへそ天で爆睡し、ニーナが庭で咲いた氷雪華を使った新しい甘い薬の配合に楽しげに首を傾げ、狂犬公爵ガルシアが、最高級の肉の包みを片手に「見回りだ」と称して薬局の扉を開けようとしていた。
王都が自らの手で永遠に失ってしまった『かけがえのない宝物』は、辺境の地で、彼女を真に愛し、大切にする者たちに囲まれて、確かに根を下ろしている。
だが、その真の価値と取り返しのつかなさに気づくには、王都の人間たちは、あまりにも遅すぎたのだ。




