未達の一文
彼はその通信が存在したことを、誰にも証明できない。
ログはなく、署名もない。
ただ、届かなかったという感触だけが、
長年、体のどこかに残っている。
世界はもう十分に広い。
広すぎて、意図は途中で薄まる。
途中で薄まったものは、
最初から存在しなかったのと区別がつかない。
彼は中年だった。
自分がどこから歩き始めたのかを忘れ、
どこへ向かっているのかも、
そろそろ他人に委ねたい年齢だった。
量子の話題は、
彼にとって未来の出来事ではなかった。
それは「まだ届いていない現在」だった。
すでに送信されたが、
どこかで滞留している現在。
彼は知っている。
言葉は、距離に比例して意味を失う。
ネットワークはそれを速めただけで、
本質は昔から変わらない。
もし、その人が
何かを書いたとしたら。
それは説明ではない。
命令でもない。
おそらく、
状況にだけかかる一文だった。
助詞の選び方が、
すべてを左右するような一文。
彼は、それを受け取る準備を
何年も続けてきた。
だが準備が整うほど、
到着の可能性は低くなる。
彼の端末は正常に動作している。
ブロックは生成され、
時間は崩れず、
世界は何事もなかったように前進している。
それでも彼は知っている。
途中で止まったものは、
決して引き返さない。
だから待つ。
誰に頼まれたわけでもなく、
何を期待するでもなく。
届かないことは、
拒否とは違う。
拒否は意志だが、
未配達は構造だ。
もしあの一文が
彼の手元に届いていたら、
それはもはや
彼だけのものではなくなっていただろう。
届かなかったからこそ、
それはまだ
誰のものでもない。
夜が薄くなる。
新しい計算が始まる。
世界は次の方式を選びつつある。
彼はそれを止めない。
止められないからではない。
止める言葉が、
最初から与えられていないからだ。
そして彼は理解する。
沈黙は欠落ではない。
過剰な距離の結果だと。
その距離こそが、
この仕組みを
いままで生かしてきた。
彼は待ち続ける。
何も届かないことを、
もう十分に理解しながら。
それでも、
どこかでまだ移動中の一文が、
完全には消えていないと
信じるために。




