表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【改稿版】静かな才女は言い訳をしない〜理不尽に捨てられたので、辺境で信頼を積み上げます〜  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

第9話 新しい肩書きと身勝手な父の文面

廊下に漂っていた安っぽい香水の残り香は、三日もしないうちに完全に消え失せた。


代わりに満ちているのは、乾いたインクと古紙、そして冬の訪れを告げる冷たい空気の匂いだ。

私はその清浄な空気を胸いっぱいに吸い込み、長官室の重い扉の前に立った。

視察団を撃退した後、役所内の空気は驚くほど軽やかになっている。

壁に貼られた予算執行の進捗表。

そこにある数字は、もはや単なる記号ではない。

街を照らす灯りや、補修された道路そのものを意味していた。


「入ります」


ノックをして扉を開ける。

長官のバルトロメウスは、いつものように窓際でパイプを燻らせていた。

紫煙の向こう側から、鋭い視線が私を捉える。

だが、その目は以前のような値踏みする鋭さではなく、親愛を込めた厳しさに変わっていた。


「エルフォード。いや、リュシアと言ったほうがいいか」

「肩書きで呼んでいただければ幸いです。長官」


私は足を揃え、背筋を伸ばした。

長官は机の上に、一枚の分厚い書類を置いた。

そこにはゼムス役所の公式な刻印が、まだ乾ききっていない朱色で押されている。


「補助官の任期は、本日をもって終了とする」


重々しい声が響く。

私は表情を動かさず、淡々とその事実を受け止めた。

契約を打ち切り、王都へ送り返すというのなら、それも一つの選択だ。

荷物は一時間でまとめられる。

計算盤とノートさえあれば、私はどこでだって生きていける。


「……そうですか。予定より早いですね」


私が返すと、長官は口角を吊り上げ、喉の奥で笑った。


「早とちりするな。今日からは正職員だ。役職は『財務統括主査』。新設のポストだ。お前には、カイルと並んでこの街の財政と企画の全権を握ってもらう」


主査。

予想外の単語に、私は一瞬だけ呼吸を止めた。

補助官から主査への昇格。

それは本来、数年の実績を積んだ文官に与えられる地位だ。

王都の学術院なら、家柄と根回しだけで五年はかかる椅子。


「お前を『使えるかどうか』で判断すると言ったはずだ。結果は出た。お前がいなければ、この街は今頃まだ横領の温床だっただろう」

「……過分な評価です」

「謙遜するな。これは取引だ。お前の能力を、俺はこの街のために買う。拒否する権利はないぞ」


長官は辞令書を私の前へ滑らせた。

紙が机を擦る音が、心地よく響く。

それは、私がこの場所で「選ばれた」ことを意味していた。

王都では、私は家名や噂というフィルターを通してしか見られなかった。

けれどここでは、リュシアという一人の人間が、その実績によって定義されている。


「謹んで、お受けいたします」


私は深く一礼し、辞令書を手に取った。

紙の重みが、指先を通して全身に伝わる。

これは責任の重さであり、同時に自由の重さでもあった。


部屋を出ると、廊下でカイルが待っていた。

彼は私の手にある辞令書を見ると、全てを察したように頷いた。


「聞いたか。主査への就任」

「ええ。驚きました」


私たちは並んで、執務室へと歩き出す。

カイルの歩調はいつも通り早いが、今の私には無理なくついていけるリズムだった。

窓から差し込む朝の光が、彼の横顔を照らしている。


「君が来てから、この役所は変わった。……いや、私が変わったのかもしれない」

「カイル?」


彼はふと足を止め、窓の外に広がるゼムスの街並みを眺めた。

灰色の屋根が連なる景色。

華やかさはないが、人々が確かに生活している場所。


「私はかつて、王都の財務局にいた。そこで見たのは、数字を弄んで私腹を肥やす貴族たちだけだった。真面目に計算をする者が馬鹿を見る世界。それに絶望して、私は自ら辺境を志願したんだ」


初めて聞く、彼の過去だった。

彼の徹底した合理主義と冷徹さは、汚職への忌避感から生まれた防壁だったのだ。

その壁の内側に、彼はずっと理想を隠し持っていた。


「だが、君は違った。不利な状況でも、誰かを恨むこともせず、ただ最善の数字を積み上げ続けた。君の計算盤の音を聞いていると、自分が信じてきた『正しさ』が間違っていなかったと思えるんだ」


カイルが私に向き直る。

その瞳には、強い光が宿っていた。


「リュシア。君はこの街の、そして私の希望だ。これからも、隣で共に戦ってほしい」


言葉が、胸の奥に染み込んでくる。

「助ける」という慈悲ではない。「共に」という対等な誓い。

それが私の心を、計算盤の珠を弾くときのように震わせた。

私は辞令書を胸に抱き、小さく頷いた。


「……はい。カイル」


執務室に戻ると、私の机の上に一通の手紙が置かれていた。

またしても王都の消印。

だが、今回はアルヴァ伯爵からではない。

見慣れた、だが今は見たくもない筆跡。

差出人は、父――エルフォード卿。


私は嫌な予感を覚えながら、ペーパーナイフで封を切った。

紙を裂く音が、妙に神経に障る。


『リュシアへ。

お前の活躍、王都でも聞き及んでいる。

今までの無礼、父として恥じるばかりだ。

お前の勘当は取り消すことにした。

これは父の温情だ。

すぐに王都へ戻り、エルフォード家の再興に協力しなさい。

お前のための、新しい縁談も用意してある』


指先が冷たくなるのを感じた。

怒りではない。

あまりの身勝手さに対する、底冷えするような呆れだ。

都合が悪くなれば捨て、価値が出れば拾い上げる。

彼は私を、実の娘ではなく、高価な調度品か、あるいは換金可能な証券だとしか思っていない。

「温情」という言葉が、これほど汚らしく見えたことはない。


「……リュシア。顔色が悪いぞ」


カイルが心配そうに覗き込んでくる。

私は無言で、手紙を彼に見せた。

カイルは読み進めるうちに、その表情を怒りに染めていった。

手紙を持つ彼の手が震えている。


「絶縁を撤回する? どの面を下げて……! 冗談ではない。君はゼムスの主査だ。王都の腐った実家になど、指一本触れさせない」


カイルが手紙を握りつぶそうとしたが、私はそれを止めた。

くしゃり、と紙が歪む音が止まる。


「いいえ。これは大切に保管しておきます。私が、二度とあそこへ戻らない理由として」


私は冷静にペンを執った。

事務用の簡素な便箋を取り出す。

そこには飾り気のない罫線だけが引かれている。

私はインクをたっぷりと付け、たった一文だけを記した。


『私は現在、辺境都市ゼムスの主査として公務に従事しております。王都の民間人からの個人的な要請に応じる時間はございません。以後、書状の送付はお控えください』


父という言葉も、娘という言葉も使わない。

それは、家族という関係性の完全な終焉を意味する「行政文書」だった。

署名欄に「ゼムス都市財務統括主査 リュシア」と書き添える。

エルフォードの名は、ただの記号として添えただけだ。


「……これでいいわ。カイル、次の仕事は何かしら」


私は書き終えた返信を封筒に入れ、計算盤を引き寄せた。

過去の残骸に費やす時間など、今の私には一秒もない。

パチリ。

珠を弾く音が、父の言葉を打ち消していく。


「次は、街の学校の改修予算だ。……ああ、そうだ。君の言う通りだ、リュシア。過去ではなく、未来の数字を書こう」


私たちは席に着いた。

窓を打つ風の音は激しくなりつつあるが、この部屋の中は熱気に満ちている。

王都の影が、再び私を飲み込もうと手を伸ばしているのを感じる。

けれど、今の私には、共に戦う仲間と、守るべき役職がある。


静かな才女は、もう二度と噂の外側で泣いたりはしない。

父の手紙は、私の決意を強固にするための、ただの薪にしかならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ