第9話 新しい肩書きと身勝手な父の文面
廊下に漂っていた安っぽい香水の残り香は、三日もしないうちに完全に消え失せた。
代わりに満ちているのは、乾いたインクと古紙、そして冬の訪れを告げる冷たい空気の匂いだ。
私はその清浄な空気を胸いっぱいに吸い込み、長官室の重い扉の前に立った。
視察団を撃退した後、役所内の空気は驚くほど軽やかになっている。
壁に貼られた予算執行の進捗表。
そこにある数字は、もはや単なる記号ではない。
街を照らす灯りや、補修された道路そのものを意味していた。
「入ります」
ノックをして扉を開ける。
長官のバルトロメウスは、いつものように窓際でパイプを燻らせていた。
紫煙の向こう側から、鋭い視線が私を捉える。
だが、その目は以前のような値踏みする鋭さではなく、親愛を込めた厳しさに変わっていた。
「エルフォード。いや、リュシアと言ったほうがいいか」
「肩書きで呼んでいただければ幸いです。長官」
私は足を揃え、背筋を伸ばした。
長官は机の上に、一枚の分厚い書類を置いた。
そこにはゼムス役所の公式な刻印が、まだ乾ききっていない朱色で押されている。
「補助官の任期は、本日をもって終了とする」
重々しい声が響く。
私は表情を動かさず、淡々とその事実を受け止めた。
契約を打ち切り、王都へ送り返すというのなら、それも一つの選択だ。
荷物は一時間でまとめられる。
計算盤とノートさえあれば、私はどこでだって生きていける。
「……そうですか。予定より早いですね」
私が返すと、長官は口角を吊り上げ、喉の奥で笑った。
「早とちりするな。今日からは正職員だ。役職は『財務統括主査』。新設のポストだ。お前には、カイルと並んでこの街の財政と企画の全権を握ってもらう」
主査。
予想外の単語に、私は一瞬だけ呼吸を止めた。
補助官から主査への昇格。
それは本来、数年の実績を積んだ文官に与えられる地位だ。
王都の学術院なら、家柄と根回しだけで五年はかかる椅子。
「お前を『使えるかどうか』で判断すると言ったはずだ。結果は出た。お前がいなければ、この街は今頃まだ横領の温床だっただろう」
「……過分な評価です」
「謙遜するな。これは取引だ。お前の能力を、俺はこの街のために買う。拒否する権利はないぞ」
長官は辞令書を私の前へ滑らせた。
紙が机を擦る音が、心地よく響く。
それは、私がこの場所で「選ばれた」ことを意味していた。
王都では、私は家名や噂というフィルターを通してしか見られなかった。
けれどここでは、リュシアという一人の人間が、その実績によって定義されている。
「謹んで、お受けいたします」
私は深く一礼し、辞令書を手に取った。
紙の重みが、指先を通して全身に伝わる。
これは責任の重さであり、同時に自由の重さでもあった。
部屋を出ると、廊下でカイルが待っていた。
彼は私の手にある辞令書を見ると、全てを察したように頷いた。
「聞いたか。主査への就任」
「ええ。驚きました」
私たちは並んで、執務室へと歩き出す。
カイルの歩調はいつも通り早いが、今の私には無理なくついていけるリズムだった。
窓から差し込む朝の光が、彼の横顔を照らしている。
「君が来てから、この役所は変わった。……いや、私が変わったのかもしれない」
「カイル?」
彼はふと足を止め、窓の外に広がるゼムスの街並みを眺めた。
灰色の屋根が連なる景色。
華やかさはないが、人々が確かに生活している場所。
「私はかつて、王都の財務局にいた。そこで見たのは、数字を弄んで私腹を肥やす貴族たちだけだった。真面目に計算をする者が馬鹿を見る世界。それに絶望して、私は自ら辺境を志願したんだ」
初めて聞く、彼の過去だった。
彼の徹底した合理主義と冷徹さは、汚職への忌避感から生まれた防壁だったのだ。
その壁の内側に、彼はずっと理想を隠し持っていた。
「だが、君は違った。不利な状況でも、誰かを恨むこともせず、ただ最善の数字を積み上げ続けた。君の計算盤の音を聞いていると、自分が信じてきた『正しさ』が間違っていなかったと思えるんだ」
カイルが私に向き直る。
その瞳には、強い光が宿っていた。
「リュシア。君はこの街の、そして私の希望だ。これからも、隣で共に戦ってほしい」
言葉が、胸の奥に染み込んでくる。
「助ける」という慈悲ではない。「共に」という対等な誓い。
それが私の心を、計算盤の珠を弾くときのように震わせた。
私は辞令書を胸に抱き、小さく頷いた。
「……はい。カイル」
執務室に戻ると、私の机の上に一通の手紙が置かれていた。
またしても王都の消印。
だが、今回はアルヴァ伯爵からではない。
見慣れた、だが今は見たくもない筆跡。
差出人は、父――エルフォード卿。
私は嫌な予感を覚えながら、ペーパーナイフで封を切った。
紙を裂く音が、妙に神経に障る。
『リュシアへ。
お前の活躍、王都でも聞き及んでいる。
今までの無礼、父として恥じるばかりだ。
お前の勘当は取り消すことにした。
これは父の温情だ。
すぐに王都へ戻り、エルフォード家の再興に協力しなさい。
お前のための、新しい縁談も用意してある』
指先が冷たくなるのを感じた。
怒りではない。
あまりの身勝手さに対する、底冷えするような呆れだ。
都合が悪くなれば捨て、価値が出れば拾い上げる。
彼は私を、実の娘ではなく、高価な調度品か、あるいは換金可能な証券だとしか思っていない。
「温情」という言葉が、これほど汚らしく見えたことはない。
「……リュシア。顔色が悪いぞ」
カイルが心配そうに覗き込んでくる。
私は無言で、手紙を彼に見せた。
カイルは読み進めるうちに、その表情を怒りに染めていった。
手紙を持つ彼の手が震えている。
「絶縁を撤回する? どの面を下げて……! 冗談ではない。君はゼムスの主査だ。王都の腐った実家になど、指一本触れさせない」
カイルが手紙を握りつぶそうとしたが、私はそれを止めた。
くしゃり、と紙が歪む音が止まる。
「いいえ。これは大切に保管しておきます。私が、二度とあそこへ戻らない理由として」
私は冷静にペンを執った。
事務用の簡素な便箋を取り出す。
そこには飾り気のない罫線だけが引かれている。
私はインクをたっぷりと付け、たった一文だけを記した。
『私は現在、辺境都市ゼムスの主査として公務に従事しております。王都の民間人からの個人的な要請に応じる時間はございません。以後、書状の送付はお控えください』
父という言葉も、娘という言葉も使わない。
それは、家族という関係性の完全な終焉を意味する「行政文書」だった。
署名欄に「ゼムス都市財務統括主査 リュシア」と書き添える。
エルフォードの名は、ただの記号として添えただけだ。
「……これでいいわ。カイル、次の仕事は何かしら」
私は書き終えた返信を封筒に入れ、計算盤を引き寄せた。
過去の残骸に費やす時間など、今の私には一秒もない。
パチリ。
珠を弾く音が、父の言葉を打ち消していく。
「次は、街の学校の改修予算だ。……ああ、そうだ。君の言う通りだ、リュシア。過去ではなく、未来の数字を書こう」
私たちは席に着いた。
窓を打つ風の音は激しくなりつつあるが、この部屋の中は熱気に満ちている。
王都の影が、再び私を飲み込もうと手を伸ばしているのを感じる。
けれど、今の私には、共に戦う仲間と、守るべき役職がある。
静かな才女は、もう二度と噂の外側で泣いたりはしない。
父の手紙は、私の決意を強固にするための、ただの薪にしかならなかった。




