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【改稿版】静かな才女は言い訳をしない〜理不尽に捨てられたので、辺境で信頼を積み上げます〜  作者: 九葉(くずは)


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第8話 香水の匂いと沈黙させる一枚の紙

伯爵からの手紙を引き出しの奥へ葬ってから、さらに三日が過ぎていた。


私は計算盤の珠を定位置に戻し、窓の外を見下ろした。

曇天の下、役所の正門前に砂埃を巻き上げて止まる馬車が見える。

車体に刻まれた紋章は、王立学院の視察団を示す「知恵の天秤」。

けれど今の私には、その天秤がひどく傾いで見えた。


「来たか。予定より早いな」


カイルが席を立ち、官服の襟を正した。

私も彼に続き、計算盤を鞄に仕舞う。

カチャリと鳴る珠の音が、これから始まる時間の無機質さを予感させた。

視察団の目的は「地方都市の予算執行状況の監査」。

だが、本当の狙いが私の現状確認であることは、先日の手紙からも明白だ。


私たちは廊下を歩き、応接用の会議室へと向かった。

扉を開けた瞬間、鼻をつく匂いが押し寄せてきた。

古びた役所には似つかわしくない、王都で流行している甘ったるい香水の香りだ。


「おやおや。これはまた、随分と……歴史を感じる建物ですね」


上座に座っていた男が、扇子で顔を仰ぎながら立ち上がった。

エドガー・ハイン。

学術院にいた頃、私の研究室に出入りしていた後輩の一人だ。

磨き上げられた革靴と、仕立ての良いスーツ。

彼は私を見ると、大げさに目を見開き、それから唇を歪めて笑った。


「これは驚いた。リュシア・エルフォード……元先輩じゃないですか。こんな辺境の役所で、泥にまみれて何をしているんです?」


私は表情筋を動かさず、一礼した。

感情を波立たせる必要はない。

彼は今、私の目の前で処理すべき「案件」として存在しているだけだ。

かつて同じ研究室で数字を追った記憶が蘇るが、それはもう色あせた過去の残像でしかない。


「行政補助官として職務に励んでおります。ハイン様」

「補助官! ははっ、あの天才リュシアが、ただの書き写し係ですか。王都では、貴女が禁忌の術式に手を出して発狂したという噂で持ちきりですよ。ここなら、誰も爆発に巻き込まれなくて安心だ」


エドガーの背後に控える数人の文官たちから、忍び笑いが漏れた。

彼らの視線は、哀れみと優越感に満ちている。

その視線が肌に触れるたび、私は自分が彼らとは違う生き物になったことを自覚した。

彼らは噂の世界に生き、私は数字の世界に生きている。


「……ハイン様。本日の目的は、ゼムスの予算執行状況の監査ですね。私的な再会を喜ぶのは、後にしていただけますか」


カイルが私の横に立ち、氷のような声で割って入った。

エドガーはカイルの簡素な官服を一瞥し、鼻を鳴らす。


「ああ、失礼。ここの担当官ですか。まあ、適当に見せてもらいますよ。どうせ杜撰な計算で、中央からの予算を食い潰しているんでしょう?」


エドガーは机にふんぞり返り、顎で「出せ」と促した。

その態度は、私たちが何も持っていないことを前提としたものだ。

私は手元の鞄から、一冊の綴じ込みを取り出した。

重みのある紙束。

この一ヶ月、私とカイルが作り直した、最新の予算再編計画書だ。

それを彼らの目の前に、音もなく滑らせた。


「……何だ、これは」


エドガーが気怠げに最初の一頁を捲った瞬間、彼の指が止まった。

顔から余裕が消え、眉間に深い溝が刻まれる。

彼は目を擦り、もう一度紙面を睨みつけた。


「項目別の流動資金の可視化。それと、回収した横領金による公共投資のシミュレーションです。現在のゼムスは、王都からの補助金に頼らずとも、自立した財政再建の軌道に乗っています」


私は淡々と説明を付け加えた。

言葉の一つ一つが、彼らの軽薄な予測を打ち砕く杭となる。

エドガーの指が震え始めた。

二頁、三頁。

捲る速度が上がるにつれ、周囲の文官たちも身を乗り出してきた。

嘲笑の空気は霧散し、代わりに焦燥と困惑が充満していく。


「この、複雑な魔導計算式の応用は……何だ。税収の予測モデルに、三元演算を使っているのか?」


エドガーの声が裏返った。

彼の目は、信じられないものを見るように私を見上げた。

王都の快適な研究室で空論として語り合っている理論が、ここでは泥臭い実務として完璧に機能している。

その事実が、彼のプライドを根底から揺さぶっているのだ。


「不確定要素を排除するためには、それが最も効率的ですので」

「……リュシア。君は、王都で何をしていた?」


エドガーの声から、嘲りが消えていた。

代わりにあったのは、隠しようのない恐怖だ。

私が「失墜」などしていないことを、目の前の紙切れ一枚から悟ったのだろう。

そして同時に、彼自身が抱える問題が透けて見えた。


「研究をしておりました。不純物の混じった触媒が、いかに真実を歪めるかという研究を」


私がそう告げると、エドガーの顔が真っ青になった。

かつての事故の際、彼が誰の指示で動いていたか。

そして今、彼が王都で私の残した研究データを再現できずにいるのではないか。

彼の泳ぐ視線が、その推測を裏付けていた。


「あ、ありえない……! 貴女は危険思想で追放されたはずだ! なぜ、こんな……こんな完璧な仕事ができる!」

「数字に思想は関係ありません。正しく計算すれば、正しい結果が出る。それだけです」


私は彼を真っ直ぐに見つめ返した。

私の瞳に映るのは、かつての後輩ではなく、自分の無能さに怯える一人の男だった。


カイルが腕を組み、冷徹に告げた。


「視察団の皆様。これで監査は終了ということでよろしいですね? 納得いただけたのなら、早急に王都へ戻り、正確な報告書を提出していただきたい。我々は忙しいので」


エドガーたちは、這うような失意の中で立ち上がった。

彼らが持ってきた「爆弾令嬢」という噂の盾は、すでに粉々に砕けていた。

彼らがこれから王都へ持ち帰るのは、私の狂気の証拠ではない。

「自分たちよりも遥かに有能な女を、王都は捨てた」という、残酷な事実だ。

そしてその事実は、彼ら自身の首を絞めることになるだろう。


エドガーは去り際に一度だけ振り返った。

何かを言いかけたが、私の冷めた視線に射抜かれ、言葉を飲み込んで部屋を出て行った。

廊下に残ったのは、不快な香水の残り香だけだった。


「……リュシア。いいのか、追い打ちをかけなくて」


カイルが、窓から見える馬車の列を見下ろしながら尋ねてきた。

私は首を振る。

彼らにかける言葉など、計算の余白にも書き込む価値がない。


「私の価値は、彼らが決めるものではありませんから」


私は鞄を抱え直し、執務室へ戻るために歩き出した。

復讐でも、逆転でもない。

ただ、静かに自分の仕事を続けるだけ。

それが一番、彼らにとって残酷な回答になることを、私は知っていた。


「さあ、仕事に戻りましょう、カイル。午後は物流の再計算があります」

「ああ。……全く、君には敵わないな」


カイルの笑い声が、廊下に響いた。

その声は、香水の匂いを吹き飛ばすように爽やかだった。

私はもう、王都の方角を見ることはない。

私の視線は、明日積み上げるべき数字だけを捉えていた。

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