第7話 籠いっぱいの林檎と伯爵の詫び状
「上司ではなくパートナーとして」と言われたあの夜から、三日が過ぎた。
カイルと交わした握手の熱が、まだ掌に残っている気がする。
私は書類の束を抱え直し、朝の光が差し込む廊下を歩いた。
かつては針のむしろだったこの場所の空気が、驚くほど澄んでいる。
私の足音を聞いて、前方で談笑していた数人の職員が振り返った。
以前なら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた彼らだ。
けれど今は、自然な動作で道を空け、軽く会釈をしてくる。
「おはようございます、リュシアさん」
「おはようございます」
返事をする私の声も、以前より少しだけ柔らかくなっているかもしれない。
廊下の角を曲がると、営繕課の壮年の職員が待ち構えていたかのように近寄ってきた。
その手には、竹で編んだ小さな籠が握られている。
「あ、あの、これ。家内からでして」
彼は照れくさそうに籠を差し出した。
中には、艶やかな赤色の林檎がいくつも入っている。
甘酸っぱい香りが、古びた廊下の埃っぽい匂いを上書きした。
「先日の計算のおかげで、残業手当がちゃんと出ただろう? 久しぶりに子供に土産を買って帰れたって、家内が泣いて喜んでな」
「……それは、良かったです。皆様で分けていただきますね」
籠を受け取ると、ずしりとした重みが腕に伝わる。
それは単なる果物の重さではない。
私がこの三日間、計算盤を弾き続け、不透明な支出を削り、彼らの生活へ還元した結果としての「信頼」の重さだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
王都では宝石やドレスを贈られることはあっても、生活の匂いがする感謝を受け取ったことは一度もなかった。
「ありがとうございます」
もう一度礼を言うと、職員は満足そうに笑って持ち場へ戻っていった。
私は籠を抱え直し、執務室への扉を開けた。
「人気者だな。予算再編の効果が、もう末端まで届いているらしい」
席に着くや否や、隣のカイルがからかうように言った。
彼はすでに山積みの書類と格闘しているが、その目元は穏やかだ。
私は籠の中から一番形の良い林檎を一つ取り出し、彼の机の上へ転がした。
コト、と乾いた音がして林檎が止まる。
「数字が具体的になっただけです。彼らが働いた対価を、正しく彼らに返した。それだけのことが、これほど喜ばれるとは予想外でしたが」
「当たり前のことが当たり前に行われる。それが一番難しいんだ」
カイルは器用に林檎を片手で掴み、引き出しに仕舞った。
その動作の滑らかさが、私たちがすでに言葉を交わさなくとも通じ合える領域にいることを示している。
「第一段階は完了だ。建築課から取り戻した予算で、街灯の魔法銀を新調できる。これで夜間の犯罪率も下がるだろう」
「次は物流ですね。関税の計算方式を見直せば、さらに五パーセントは浮くはずです。すでに試算表は組んであります」
私は自分の机で計算盤を引き寄せた。
黒檀の枠に指を添える。
淀みのない連携。
王都での研究生活にはなかった、自分の仕事がダイレクトに街の形を変えていく充足感。
これが私の求めていた「成果」なのだと、指先が理解していた。
だが、昼休みを告げる鐘が鳴る直前。
その平穏なリズムに、不協和音が割り込んだ。
「エルフォード。……いや、リュシア。王都から書状だ」
長官が、不機嫌そうに眉を寄せて入ってきた。
その手にある封筒を見て、私の思考が一瞬停止する。
上質な羊皮紙。
そこに押された封蝋は、見覚えのある深紅。
アルヴァ伯爵家。
セドリックの父であり、王都の保守派貴族を牛耳る重鎮からのものだ。
「公用便ではなく、個人の早馬で届いた。……受け取るか?」
長官が試すような目で私を見る。
私は計算盤から手を離し、立ち上がった。
指先に残る冷たさが、現実を引き戻す。
「ありがとうございます、長官。拝見します」
受け取った封筒は、不快なほど滑らかな手触りだった。
セドリックから届いたあの冷淡な破棄通告とは、紙の質からして格が違う。
私はペーパーナイフを使い、丁寧に封を切った。
中から現れたのは、威圧感のある端正な文字で綴られた書状だ。
『リュシア嬢へ。
息子の至らぬ振る舞いにより、心労をかけていることを深く憂慮している。
先日の通告は、若さゆえの軽率な判断であったと言わざるを得ない』
読み進めるうちに、私の眉間に自然と皺が寄った。
視線を走らせるたび、違和感が喉元までせり上がってくる。
『君の研究に関する新事実が、こちらでも浮上しつつある。
一度、冷静に話し合う機会を設けたい。
君の帰還を、アルヴァ家は歓迎する用意がある』
一文字ずつ、頭の中で咀嚼する。
不自然だ。
あまりにも、アルヴァ伯爵らしくない。
彼は損得勘定の塊のような人物だ。
泥を塗った相手に、これほど下手に出るはずがない。
「新事実」という言葉が、妙に引っかかる。
「……何かあったのか」
カイルが、私の表情の変化を見逃さずに尋ねてきた。
私は無言で、手紙を彼に差し出した。
カイルは素早く目を通し、鼻で笑った。
その笑いは、汚いものを見た時のそれに近かった。
「歓迎、だと? どの口が言っている」
「カイル、どう思いますか。この文面、単なる謝罪ではありません」
私は自分の推測を言葉にするために、手紙の文面を指でなぞった。
「王都で、私の研究事故の再調査が始まっている可能性があります。そうでなければ、一度切り捨てた私に、伯爵がわざわざ頭を下げる理由がありません」
「だろうな。……それに、もう一つ理由がある」
カイルは手紙を机に放り投げた。
その軽い音が、伯爵の言葉の軽さを象徴しているようだった。
「ゼムスの予算正常化と、横領事件の解決。このニュースが、すでに王都に届いている。君がただの『爆弾令嬢』ではなく、卓越した行政能力を持つと知って、慌てて所有権を主張しに来たんだろう」
カイルの言葉は鋭利なナイフのように核心を突いていた。
それは私の中にあった違和感と、パズルのピースのようにぴたりと一致した。
アルヴァ伯爵は、私の「価値」が再定義されたことに気づいたのだ。
だからこそ、セドリックの失態を「若さゆえ」という便利な言葉で塗り潰そうとしている。
「……戻るつもりはあるか?」
カイルの問いに、私は迷わずに首を振った。
三日前にセドリックからの絶縁状を仕舞った引き出しを開ける。
そこへ、父親からのこの手紙も放り込んだ。
暗闇の中へ消えていく二通の手紙。
それは、私にとって終わった過去の残骸でしかない。
「ありません。評価が変わったからといって、掌を返すような方々です。戻っても、また別の理由で切り捨てられるだけでしょう」
私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
信頼は積み重ねだ。
一度崩れた石積みを、美しい言葉だけで修復することはできない。
今の私には、林檎をくれた職員の笑顔のほうが、伯爵の言葉よりも遥かに価値がある。
「返信はどうする」
「無視します。……と言いたいところですが、礼儀として一通だけ。
『辺境の地での職務に邁進しております。お気遣いなく』と」
私が事務的に告げると、カイルが今日一番の明るい笑みを浮かべた。
彼はペンを走らせる私の横顔を、眩しそうに見つめている。
「いい返事だ。……さあ、仕事に戻ろう。アルヴァ伯爵が欲しがって、手が届かないほどの成果を、これからさらに積み上げてやるんだ」
私は頷いた。
窓の外には、冬の澄んだ空が広がっている。
王都では今頃、歪み始めた噂に誰かが頭を抱えているのだろうか。
けれど、私はもう、その噂の外側にいる。
私は計算盤を引き寄せた。
パチリ。
珠を弾く音が、再び室内に響き始める。
それは過去を断ち切り、新しい未来を刻む音だった。
この音が続く限り、私は誰にも縛られない。
今、私の手にあるのは、冷たい計算盤と、温かい林檎の香りだけだ。
それで十分だった。




