第6話 湯気の立つ陶器と夜の誓約
昼間の熱狂、職員たちが私の机を取り囲んで救いを求めてきたあの喧騒は、夜の帳と共に潮が引くように消え去っていた。
執務室には、私と、隣の空席だけが残されている。
窓の外は完全な闇に支配され、ガラスに映るランプの灯りだけが、ここが世界から切り離された孤島であることを告げていた。
私は計算盤の端を指で弾いた。
パチリ、という硬質な音が、静寂に吸い込まれる。
建築課から押収された第二陣の帳簿は、予想通り「端数」の操作で溢れていた。
これを全て洗い出し、正常な数値へと還す作業。
それはまるで、泥に埋もれた宝石を一つずつ布で磨き上げるような、静かで神聖な時間だった。
不意に、重い扉が開く音がした。
廊下の冷たく乾いた空気が、足元を撫でるように流れ込む。
私は顔を上げずに、気配だけで訪問者を識別した。
確かな足音。
カイル・ノーヴァンだ。
「まだやっていたのか。無理をしろとは言っていない」
カイルは私の机の脇に立ち、手に持っていたものを置いた。
コトン、と陶器が当たる音がする。
湯気の立つ二つのマグカップと、油紙に包まれた軽食だった。
立ち上る香りは、王都のサロンで嗅ぐような華やかな紅茶ではない。
安価だが力強い、茶葉とミルクの匂いだ。
「キリが悪いので。……カイル、警備隊との調整はどうなったのですか」
私は手を止め、強張った指先を揉みほぐした。
カイルは隣の自分の席に座り、大きく息を吐きながら背もたれに体重を預けた。
彼の官服は少し乱れ、襟元には疲労が滲んでいる。
だが、その横顔は、泥沼から抜け出した後のような清々しさを帯びていた。
「主犯は全て拘束した。証拠がこれだけ揃っていれば、言い逃れはできないだろう。……君のおかげだ」
カイルは自分のカップを手に取り、熱い液体を一口啜った。
それから、包みを開いて中のパンを私に差し出す。
ゼムスの街でよく見かける、黒麦の堅焼きパンだ。
「ありがとう。いただきます」
私もカップを両手で包み込んだ。
陶器越しに伝わる熱が、冷え切った指先をじんわりと解かしていく。
第一話、王都の事務局長室で出された、冷めきって黒く澱んだ紅茶を思い出した。
あれは「拒絶」の温度だった。
今、手の中にあるこれは「労い」の温度だ。
パンを一口齧る。
素朴な塩味が口の中に広がり、空腹だった胃がようやく動き出すのを感じた。
「……リュシア。一つ聞いてもいいか」
カイルが、暗い窓の外に視線を投げたまま問いかけてきた。
その声のトーンが、上司としてのものではなく、一人の人間としての響きを帯びている。
「君ほどの計算能力と、事象の構造を把握する力があれば、王都でもそう簡単に失墜はしないはずだ。例の『研究事故』、何があった」
直球の問いだった。
同情も、下世話な好奇心も感じられない。
ただ、目の前の同僚が抱える「変数」を確認し、計算式を修正しようとする実務家らしい問いかけ。
だからこそ、私は飾ることなく答える気になった。
「魔力暴走事故でした。私の計算式は完璧でしたが、投入された触媒に不純物が混ざっていたのです」
「不純物? ならばそれを証明すればいいだけのことだろう」
「ええ。ですが、その不純物を納品していたのが、学院の有力なスポンサーの親族企業でした。そして、私の婚約者の実家も、そのスポンサーと深い繋がりがあった」
私は淡々と事実を並べた。
言葉にするたび、胸の奥にあった重い石が、ただの砂利になっていく感覚がある。
「学院は『リュシア・エルフォードが禁忌の術式を試みて失敗した』という筋書きを選びました。組織の資金源を守るために、一人の学生を切り捨てる。私は、その判断を組織運営としては合理的だと思いました」
カイルが、持っていたカップを机に置いた。
少し乱暴な音が、静かな部屋に響く。
彼は椅子を回し、私の方へ向き直った。
ランプの光を反射したその瞳には、静かな怒りの炎が揺らめいていた。
「……君は、どこまで自分を客観視しているんだ。だが、その合理性は間違っている」
カイルは断言した。
彼が身を乗り出すと、その影が私の机の上に濃く落ちた。
「短期的な資金を得るために、君のような才能を追放する。それは組織にとって、長期的には致命的な損失だ。少なくとも、私はそんな計算はしない。絶対にだ」
彼の言葉には、揺るぎない確信があった。
王都の誰もが目を逸らした私の価値を、彼は真正面から肯定している。
その熱量が、マグカップの温かさよりも深く、私の芯に届いた。
「王都での評価など、ここでは何の価値もない。私の目は、君が今日見せた成果だけを信じている。……リュシア。改めて頼みたい」
カイルの表情が引き締まる。
それは、私を助ける保護者の顔ではない。
共に戦場に立つ、戦友の顔だ。
「明日から、役所全体の予算再編プロジェクトを立ち上げる。長官の許可は取った。君には、その主査……いや、私の対等なパートナーとして、数字の精査を任せたい」
「補助官」としての雑用ではなく、政策の根幹に関わる提案。
彼は私に、助けるべき弱者としての席ではなく、隣に立つための席を用意してくれた。
私は計算盤に置いていた手を、膝の上で握り直した。
この手が掴むべきは、過去の汚名ではなく、未来の数字だ。
「……光栄です。カイル」
私も、彼の名を通称で呼んだ。
口に出した瞬間、私たちの間にある見えない壁が音を立てて崩れ去った気がした。
それは、私たちが過去や家名から切り離された、ただの仕事仲間になった合図だった。
「私の計算に、感情は混じりません。不利益な数字も、忖度なく報告しますが、よろしいですね?」
「ああ。それを望んでいる。甘い言葉で飾られた報告書など、焚き付けにもなりはしない」
カイルは満足そうに頷き、残りのパンを口に放り込んだ。
彼が咀嚼し、飲み込む動作には、生きる力強さがある。
王都の貴族たちの、作法に縛られた食事とは違う。
ここには、生身の人間がいる。
「さて。明日からは地獄のような忙しさになるぞ。今日はもう帰れ。これは、上司ではなくパートナーとしての忠告だ」
カイルが立ち上がり、私の肩を軽く叩いた。
厚い官服を通して伝わる手の熱。
誰かに背中を預けるという感覚を、私は久しく忘れていた。
「分かりました。……おやすみなさい、カイル」
私は机を片付け、計算盤を鞄に仕舞った。
ランプを吹き消すと、執務室は再び闇に包まれる。
けれど、もう怖くはなかった。
部屋を出る際、最後にもう一度だけ振り返る。
カイルはすでに自分の机に戻り、新しい書類に向かっていた。
その背中は、孤独な防壁ではなく、頼もしい道標のように見えた。
王都の噂は、もうここには届かない。
私は夜の冷たい空気の中を、宿へと向かって歩き出した。
明日、書き換えられる数字の海が待っている。
そこで私は、誰のためでもない、私自身の証明を刻むのだ。




