第5話 名前を呼ぶ声
【第5話 一リンの攻防と名前を呼ぶ声】
引き出しの奥に消えた青い封蝋の冷たさは、まだ指先に残っていた。
私はその感触を振り払うように、預かったばかりの建築課の帳簿を広げた。
昼休みに入った執務室は、不気味なほど静まり返っている。
遠くで鳴る街の鐘の音だけが、窓ガラスを震わせていた。
他の職員たちは昼食に出払っているが、私の隣の席だけは気配が消えていない。
「……君は、休憩を取らないのか」
カイル・ノーヴァンが、パンを齧る手も止め、私の手元を凝視している。
その視線に、昨日までの監視するような鋭さはない。
あるのは、未知の術式を解読しようとする学者のような、純粋な渇望だ。
「この帳簿の数字が、私に語りかけてくるのです。無視をするのは礼儀に反します」
私は計算盤を引き寄せ、黒檀の枠に指を添えた。
ひやりとした感触が、高ぶる思考を鎮めてくれる。
パチリ。
最初の一珠を弾く。
その音は、混沌とした不正の海に打ち込む杭のようだった。
帳簿の記述は、一見すると整合性が取れている。
資材の購入費、運搬費、保管費。
だが、季節ごとの変動係数が歪だ。
「……リュシア。そこだ。なぜ、その数字を飛ばした?」
カイルが私の手元を指差した。
彼の指先は、インクで少し汚れている。
それが、彼もまた泥臭い実務の中で戦ってきた証のように見えた。
「この一行は、資材の乾燥による目減り分として計上されています。ですが、今の季節の湿度では、これほどの数値が出ることは物理的にあり得ません」
私はインクを吸取紙で押さえ、一つの結論を導き出した。
紙に染み込むインクの黒さが、隠されていた悪意を可視化していく。
「つまり、架空の損失か」
「はい。そして、この目減りしたはずの資材が、別の頁では『端数処理』として切り捨てられています。一リンにも満たない端数ですが、数千回積み重ねれば、家が一軒建ちます」
二重の操作。
私はペンを置き、カイルを見た。
彼は絶句していた。
王都の財務局にいた彼なら、この手口の悪質さが痛いほど分かるはずだ。
これはミスではない。
極めて理性的で、冷徹な略奪だ。
カイルが椅子を鳴らして立ち上がった。
革靴が床を叩く音が、怒りの形をしている。
「……建築課の担当者は、これを『計算ミス』だと私に言いました」
「ミスではない。組織的な横領だ」
彼は私の手元の帳簿をひったくるように手に取ると、そのまま長官室の方へ視線を向けた。
その瞳には、私を試すような色はもうない。
共に戦う者への信頼が宿っていた。
「長官に報告する。君も来い」
「はい」
私は計算盤を鞄にしまい、席を立った。
重い扉を開け、廊下へ出る。
カイルの歩幅は広いが、私は遅れることなくついていく。
彼の背中が、この理不尽な戦場における唯一の盾のように思えた。
長官室の前で、カイルが力強く扉を叩く。
許可の声が響く前に、彼は中へ踏み込んだ。
部屋の中は、紫煙と紙の匂いが充満している。
長官のバルトロメウスは、窓の外を眺めていたが、私たちの気配にゆっくりと振り返った。
「騒がしいな。昼飯くらいゆっくり食わせろ」
「長官。例の建築課の帳簿です。リュシアが裏付けを取りました」
カイルが、私の名を呼んだ。
「エルフォード」という家名ではない。
「リュシア」という個人の名前だ。
心臓が、トクリと小さく跳ねた。
王都でその名を呼ばれる時は、いつだって軽蔑か憐れみがセットだった。
だが今の彼の声には、対等な敬意だけが含まれている。
長官は私の提出した集計表を受け取った。
太い指が紙面を滑る。
彼は表を上から下まで眺め、次に私を見た。
「一時間かそこらでこれを見つけたのか、エルフォード」
「構造を把握すれば、あとは単純作業です」
「……ふん。単純、か」
長官はパイプを灰皿に叩きつけ、ニヤリと笑った。
その笑みには、昨日までの「値踏み」ではない、確信めいた力強さがあった。
彼は、私が使える武器であることを認めたのだ。
「カイル。即座に警備隊を動かせ。建築課の課長と担当者を拘束しろ。それと、市内の資材置き場の帳簿をすべて押収しろ」
「承知いたしました」
「エルフォード! お前はここで、押収される帳簿の精査を行え。一リンの逃しも許さんぞ」
「承知いたしました」
私は深く頭を下げた。
命令されることが、これほど心地よいとは思わなかった。
それは、私がこの組織の機能として必要とされている証明だからだ。
長官室を出ると、カイルが私の前で足を止めた。
廊下の窓から差し込む光が、彼の横顔を照らしている。
「リュシア。……助かった。これでおそらく、街の予算の二割は戻ってくる」
「私は、数字の不備を指摘しただけです」
「それをできる人間が、この街には一人もいなかったんだ。……行くぞ。君の能力は、もう噂などで隠せるものではなくなっている」
カイルはそれだけ告げると、階段を駆け下りていった。
彼の後ろ姿を見送りながら、私は自分の胸に手を当てた。
鼓動が、いつもより少しだけ速い。
それは恐怖でも不安でもなく、高揚感だった。
執務室に戻ると、空気が一変していた。
昼休みを終えた職員たちが席に戻っていたが、彼らはもう私を遠巻きにはしていなかった。
私の机の前に、数人の人だかりができている。
「あの、エルフォードさん……いえ、リュシアさん」
昨日のマリア・フェンが、震える手で一束の書類を差し出してきた。
彼女の背後には、数人の職員が控えている。
皆、手に手に帳簿や領収書の束を抱えていた。
その目は、珍獣を見る目ではない。
救世主を見るような、切実な眼差しだ。
「これ、ずっとおかしいと思ってたんです。税務課の還付金リストなんですけど、見てもらえませんか?」
「こっちの備品購入費もお願いします!」
「次は私の部署を……!」
それは、畏怖ではなく、実利への期待だった。
「爆弾令嬢」という噂よりも、「この女は問題を解決できる」という事実が勝ったのだ。
私は差し出された書類の山を眺めた。
それは雑用の山ではない。
信頼の山だ。
「順番に。まず、還付金リストから拝見します」
私は椅子に深く座り、再び計算盤を引き寄せた。
王都では、私の言葉は誰にも届かなかった。
婚約者も、父も、私の出す成果より世間の顔色を選んだ。
だが、この辺境では違う。
一リンの計算、一枚の書類。
その積み重ねが、確実に他人の態度を書き換えていく。
私はインク瓶の蓋を開け、新しいペン先を浸した。
「……始めましょうか」
小さく呟き、私は仕事に取り掛かった。
数字は、嘘をつかない。
そして今の私には、この冷徹な数字こそが、何よりも確かな武器であり、盾だった。
カイルが呼んでくれた私の名前が、計算盤を弾くリズムに重なって聞こえた気がした。




