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【改稿版】静かな才女は言い訳をしない〜理不尽に捨てられたので、辺境で信頼を積み上げます〜  作者: 九葉(くずは)


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第4話 逆算の証明と青い蝋封の手紙

カイル・ノーヴァンの、あの驚愕に染まった表情を思い出しながら、私は宿の硬いベッドから身を起こした。


窓の外はまだ薄暗く、冷気がガラスを白く曇らせている。

洗面器の水で顔を洗うと、冷たさで思考の輪郭がはっきりと定まった。

鏡に映る自分の顔は、王都にいた頃よりも少しだけ色が薄い気がしたが、瞳の奥には静かな光が宿っている。

支度を整え、私は宿の階段を降りた。


役所までの道すがら、吐く息が白く尾を引く。

石畳を踏むブーツの音が、昨日よりも軽やかに感じられた。

重い門をくぐり、廊下を歩く。

すれ違う職員たちの視線が、昨日とは明らかに質を変えていた。

突き刺さるような恐怖や侮蔑ではない。

得体の知れない生物を見るような、あるいは腫れ物に触れるような、困惑を含んだ沈黙だ。


「おはようございます」


私は努めて平坦に声をかけた。

挨拶を返してくる者はいなかったが、露骨に目を逸らす者も減っていた。

昨日積み上げた書類の山が、無言のまま彼らの意識に波紋を広げている。


執務室の扉を開ける。

カイル・ノーヴァンは、すでに席についていた。

彼の手元には、私が昨日仕上げた修正書類の束が広げられている。


「……おはよう」


カイルの声は低く、どこか湿り気を帯びていた。

彼の目の下には、昨日より少しだけ濃い隈が張り付いている。

インクの匂いと、微かなコーヒーの香りが漂っていた。

徹夜に近い状態で、私の仕事を検算していたのだろう。


私は自分の席に鞄を置き、コートを脱いだ。

椅子の背に掛ける動作一つにも、昨日にはなかった「ここが私の場所だ」という意識が宿る。


「これを確認した。三年前の暖房費の件だ。私の再検算と結果が一致した」


カイルはペンを置き、私の顔をじっと見つめた。

その視線に、かつてのような「監視」の色はない。

あるのは、理解できない現象を解明しようとする、純粋な探究心だ。


「……それだけか?」

「はい。左様ですが」

「あの量を数時間で終えるには、単純な計算速度だけでは足りない。君は、どの項目から優先順位をつけた。領収書を日付順ではなく、金額の規模別に分けたのはなぜだ?」


根拠を求めている。

彼は私の能力を疑っているのではなく、その「理屈ロジック」を共有しようとしていた。

私は鞄から計算盤を取り出し、黒檀の枠を撫でた。


「まず全体の総予算を確認しました。そこから大きなズレがある月を特定し、その期間の領収書だけを抽出したのです。全ての数字を等しく扱うのは、時間の無駄ですから」


私は自分のノートを広げ、彼に見えるように置いた。

数字の羅列ではなく、思考のプロセスが記された図面だ。


「……逆算か。帳簿の正しさを証明するのではなく、間違いを探すことに特化したやり方だな」


カイルは納得したように頷き、自分の手帳に素早くメモを取った。

ペンの走る音が、昨日までの拒絶的なリズムとは違い、協調的な響きを持っている。


その時、執務室の奥から野太い声が轟いた。


「エルフォード! カイル! 入れ!」


長官、バルトロメウスの声だ。

私たちは顔を見合わせ、長官室へ向かうため席を立った。


重厚な扉をノックし、入室する。

部屋の中では、長官が私が昨日提出した書類の束を、まるで宝の地図でも見るかのように広げていた。

彼は私たちが並んで立つのを見上げ、鼻を鳴らす。


「カイル、この数字に間違いはないか」

「……はい。私の検算とも合致しました。彼女の手法は極めて合理的で、かつ正確です」


カイルの言葉に、長官はニヤリと笑った。

その表情は、獲物を見つけた猛獣のようだ。

彼は書類の束を、乱暴に机に放り出した。

バサリ、と乾いた音が部屋に響き、埃が舞う。


「三日と言ったはずだぞ、爆弾娘」

「はい。ですが、一箱目を終えなければ二箱目に着手できませんので。効率を優先しました」


私の回答に、長官はパイプを噛み直し、紫煙を吐き出した。


「いいだろう。カイル、残りの木箱もすべて彼女に回せ。その代わり、カイル、お前は彼女の出した『修正案』を元に、各部署へ予算の返還請求書を作成しろ」

「……承知いたしました」


カイルが短く応じる。

それは、私がこの役所の「正式な工程」に組み込まれた瞬間だった。

ただの雑用係から、組織の歯車へ。

小さな変化だが、確かな前進だ。


長官室を出て自分の席に戻ろうとした時、廊下の影から一人の職員が近づいてきた。

昨日、遠くから私を見ていた中年の男性だ。

彼は周囲を気にしながら、脇に抱えた厚い帳簿を私の机の端に置いた。


「あの、エルフォードさん……。これを少し、見ていただけないか」


彼の声は小さいが、必死さが滲んでいる。

カイルが横から鋭い視線を送ってくるのが分かる。

担当外の仕事に手を出すべきではない。それが組織の鉄則だ。

だが、私はその帳簿に手を添えた。

表紙の革が擦り切れている。

彼がどれほどこの数字に悩まされてきたか、その手触りが教えてくれた。


「これは?」

「建築課の資材管理表なんだが、どうしても数字が数リン合わなくてね。君なら、何か気づくかと思って……」


私は帳簿を開き、計算盤を引き寄せた。

「爆弾令嬢」という噂を恐れるよりも、彼らは「仕事が進まない停滞」を恐れ始めている。

それは良い兆候だった。


「昼休みまでにお返しします。ただし、正式な依頼ではないので、私の名前は出さないでください」

「助かる! 恩に着るよ」


男性は何度も頭を下げ、足早に去っていった。

私は席に着き、自分の仕事と、頼まれた帳簿を交互に開き始める。

パチ、パチリ。

計算盤の音がリズムを刻み始めると、思考が澄んでいく。


その静寂を破るように、郵便配達の少年が部屋に入ってきた。


「リュシア・エルフォード様にお手紙です!」


少年が元気よく差し出したのは、一通の封書だった。

役所の公用便ではない。

見覚えのある、上質な紙質。

そして、封蝋の色は深い青。

アルヴァ家の紋章だ。


私は受け取る手を一瞬だけ止めた。

指先から冷たい毒が染み込んでくるような錯覚を覚える。

カイルの視線が、私の手元に注がれているのを感じた。


「……王都からか」


彼が短く尋ねる。

私は無言で頷き、ペーパーナイフで封を切った。

中には、厚手の便箋が一枚だけ入っている。

流麗な、だが意志の弱さを隠すように装飾過多な筆跡。

元婚約者、セドリック・アルヴァの文字だ。


『……残念ながら、一連の不祥事を受け、我が家は君との関係を維持できないという結論に至った。これはアルヴァ家とエルフォード家、双方の総意である。辺境での君の静かな生活を祈っている』


内容は、予想通りだった。

感情を揺さぶるほどのものではない。

「総意」という言葉。

父も彼も、私という存在を「なかったこと」にしようとしている。

自分たちの保身のために、私を切り捨てた事実を、綺麗な言葉でラッピングしただけの通知書。


私は便箋を丁寧に折り畳んだ。

紙が擦れる音が、妙に大きく響く。

怒りも悲しみもない。

ただ、古い角質が剥がれ落ちたような、乾いた感覚だけがあった。


「ただの事務連絡です。終わったことの確認に過ぎません」


私は封筒ごと、引き出しの一番奥へと仕舞い込んだ。

暗闇の中へ消えていく青い封蝋は、まるで墓標のように見えた。


「そうか」


カイルはそれ以上、何も追求してこなかった。

彼はただ、自分のペンを握り直し、私が昨日教えた「逆算の手順」を自分の書類で試し始めた。

その配慮が、何よりもありがたかった。

彼は私を「捨てられた女」としてではなく、隣にいる「同僚」として扱ってくれている。


窓の外では、ゼムスの街を冷たい風が吹き抜けている。

セドリックの祈りなど、ここには届かない。

静かな生活など、いらない。

私が欲しいのは、自分の手で勝ち取る確かな評価だけだ。


私は計算盤に再び指を走らせた。

王都での過去が切り捨てられる音のように、パチパチと、小気味よい音が室内に響き渡る。

この音だけが、今の私を証明してくれる。


次は建築課の数字だ。

そこには、まだ誰も気づいていない「嘘」が隠されている予感がした。

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