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【改稿版】静かな才女は言い訳をしない〜理不尽に捨てられたので、辺境で信頼を積み上げます〜  作者: 九葉(くずは)


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第3話 冷たいパンと計算盤の音

「邪魔だけはするな」という冷たい声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。


私は配属されたばかりの席に立ち、持参した雑巾を固く絞った。

水滴が床に落ちる音が、乾いた執務室に小さく響く。

カイル・ノーヴァンの隣にあるその机は、窓際で陽当たりが悪く、天板には数年分の埃が積もっていた。

誰にも使われていなかった場所。

それは、今の私によく似合っている。


私は無言で天板を拭き始めた。

布が黒く汚れていくたび、ここが私の新しい陣地になっていく気がした。


「……君、何をしている」


隣から、硬い声が飛んでくる。

カイルだ。

彼は羽根ペンを止めることなく、手元の書類を見つめたまま問いかけてきた。

眉間に刻まれた皺が、彼の不機嫌さを物語っている。


「環境を整えています。汚れた手で書類に触れるわけにはいきませんので」


私は手を止めずに答えた。

カイルのペン先が、一瞬だけ止まる。

彼は王都の官僚たちのように「雑用係の分際で」とは言わなかった。

ただ、鼻を鳴らして書類を捲る。


「勝手にしろ。ただし、私の領域には踏み込むな」


彼の机の上は、定規で測ったように整然としている。

インク瓶、吸取紙、予備のペン先。

それらがミリ単位の狂いもなく配置されていた。

極度の合理主義者か、あるいは神経質な性格なのだろう。

私は彼の言葉通り、境界線を引くように自分の机の範囲内だけで作業を完結させた。


机上が片付くと、長官から渡された木箱を引き寄せる。

ずしりとした重みが、腕に食い込む。

中身は無残なものだった。

領収書の断片、日付の前後した報告書、用途不明の仮払金申請書。

それらが腐った藁のように、紐で乱雑に縛られている。


私は鞄から、愛用の計算盤を取り出した。

王立学院時代に特注で作らせた、黒檀の枠に銀の珠が嵌め込まれたものだ。

指先に馴染む冷たい感触が、高ぶる神経を鎮めてくれる。

これは単なる道具ではない。

混沌とした世界を、秩序ある数字へと変換するための濾過装置だ。


カサリ、と書類を捲る。

紙の乾いた音がすると、周囲の職員たちが仕事の手を止めてこちらを伺った。

入り口近くの席に座る数人の女性職員が、口元を隠して視線を交わすのが見えた。


『見て、あの道具……王都の嫌味な贅沢品かしら』

『どうせ三日も持たないわよ。あの箱、呪われてるって言われてるのに』


ヒソヒソという声が、波のように寄せてくる。

耳障りだが、私は意識のスイッチを切り替えた。

反応をすれば、彼女たちの娯楽を助長するだけだ。

私は目の前の数字に意識を沈めた。


三年前の冬、暖房費の項目。

役所の薪の購入記録と、実際の在庫管理表を照合する。

……不自然だ。

十二月の計上額が、二月よりも多い。

例年の平均気温から考えて、この消費カーブは異常だ。


私は新しい紙を広げ、インク壺の蓋を開けた。

独自の集計表を作成するため、定規で直線を引く。

時系列を並べ替え、品目ごとに分類を行う。

準備が整うと、私は計算盤に指を走らせた。


パチ、パチリ。

硬質な音が、静かな執務室に響き渡る。

数字は、嘘をつかない。

感情も、噂も、偏見も持たない。

正しく扱えば、必ず真実を返してくれる。

今の私にとって、これほど信頼できる味方はいなかった。


「……おい」


不意に、横から影が差した。

思考の海から引き戻され、顔を上げる。

隣の席のカイルが、私の手元を覗き込んでいた。

彼の視線は私の顔ではなく、新しく作った集計表に釘付けになっている。


「その表は何だ。長官は検証を命じたはずだ。新しい表を作れとは言っていない」


詰問するような口調。

私はペンを置き、背筋を伸ばした。

彼の瞳には、私の勝手な行動への苛立ちと、それとは別の知的な探究心が混ざっているように見えた。


「検証するためには、まず現状を可視化する必要があります。元の報告書は、数字が二重に計上されています。意図的なものか、単なるミスかは分かりませんが」

「二重計上? 根拠は」

「これです」


私は箱の底から見つけ出した、黄ばんだ小さな紙片を提示した。

五月の街灯維持費の裏付けメモだ。

カイルはそれを奪うように手に取り、自分の計算用紙と突き合わせる。

数秒の沈黙の後、彼は息を呑んだ。


「……三月の余剰金が四月に繰り越されず、五月の雑費として処理されている……」


カイルの声が震えた。

彼は信じられないといった様子で、私と紙片を交互に見る。


「これを、この短時間で見つけたのか」

「整理をしていれば、自然と目に留まります」


私は淡々と答え、次の束に手を伸ばした。

カイルは何かを言いたげに口を開いたが、結局、何も言わずに自分の席に戻った。

ただ、彼のペンの走る音が、先ほどよりも少しだけ速く、鋭くなった気がした。

私の存在が、彼のリズムを乱している。

それは悪い兆候ではないはずだ。


昼食を告げる鐘が鳴り、部屋の空気が少しだけ緩んだ。

職員たちが連れ立って外へ出て行く。

私は席を立たず、鞄から持参した硬いパンを取り出した。

今は一刻も早く、この一箱を終わらせたい。

口の中の水分を奪うパンを、水で流し込む。

王都のティーサロンで食べた焼き菓子とは程遠い味だが、今の私にはこれがお似合いだ。


「……あの、リュシアさん?」


不意に声をかけられた。

顔を上げると、一人の女性職員が立っていた。

受付にいたエマという女性の隣で仕事をしていた人だ。

名札には『マリア・フェン』とある。

彼女は両手で小さな紙包みを握りしめている。


彼女は周囲を気に病むようにキョロキョロと見渡してから、私の机の隅にその包みを置いた。


「これ、よかったら。……あなた、噂ほど怖くないのね。ずっと無表情で怖いっていうか、何ていうか、集中力が凄すぎて」


マリアの声は上擦っていた。

私の視線を受けて、彼女は一歩後ずさる。

王都でもよく見た反応だ。

けれど、彼女の目には明確な敵意がない。

あるのは、得体の知れないものへの警戒と、わずかな好奇心だ。


「ありがとうございます、マリアさん。私はただ、仕事をこなしているだけです」

「そう……。でも、無理しないで。その箱、本当は一ヶ月かけてやるような仕事なんだから」


マリアはそれだけ言うと、逃げるように去っていった。

一ヶ月。

長官は私に三日と言った。

期待されていないどころか、最初から不可能な課題を押し付けて、私の限界を試すつもりだったらしい。


私は包みを開けた。

中には、砂糖をまぶしたクッキーが一枚入っていた。

それを一口齧る。

甘さが舌の上に広がり、張り詰めていた神経が少しだけ解けるのを感じた。


午後からの作業は加速した。

二重計上の法則性を掴んだことで、修正箇所が次々と浮き彫りになる。

計算盤の珠が、私の指先と一体化して踊る。

夕暮れ時、役所内に退庁を告げる鐘が鳴り響いたとき、私は最後の一枚を綴じていた。


「……終わりました」


私は木箱の横に、綺麗に整えられた書類の山を積み上げた。

一箱分、全ての検証と修正案の作成。

初日の成果としては、十分すぎる量だ。


隣で帰り支度をしていたカイルが、凍りついたように止まった。

彼はマフラーを巻く手を止め、山積みの修正書類を見つめている。


「一箱……全部か?」


カイルの声には、素直な驚愕が混じっていた。

彼は書類の山に手を伸ばし、一番上の一枚を捲る。

その指先が、震えているように見えた。


「はい。不備があった箇所には、全て根拠となる付箋を貼ってあります」


私は椅子を引き、立ち上がった。

カイルの視線が、書類から私へとゆっくり移動する。

そこには、朝のような冷徹な事務的な色はなかった。

未知の生物を見るような、あるいは脅威を感じるような、強い眼差し。


「……君は、何者だ」

「行政補助官です。カイル様」


私は一礼し、鞄を手に取った。

王都での評価は地に落ちた。

けれどここでは、まだ何も始まっていない。

今日積み上げたこの書類の山が、私の最初の言葉だ。


役所を出ると、冷たい夜風が火照った頭を冷やしてくれた。

空には星が瞬いている。

明日、この書類を見た長官がどんな顔をするのか。

それを想像すると、少しだけ足取りが軽くなった。


静かな才女は、暗い夜道を一人、確かな満足感を抱いて歩き出した。

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