第2話 埃まみれの着任と三日間の試練
一週間続いた馬車の不規則な振動が、ようやく身体の芯から消えようとしていた。
石畳に降り立つと、足の裏から底冷えするような寒さが伝わってくる。
ここが辺境都市ゼムス。
王都の洗練された街並みとは対極にある、泥と実用性だけで構成された灰色の街だ。
私は襟元を合わせ、吐く息の白さを確かめてから、目の前にそびえる石造りの建物を仰ぎ見た。
ここが私の新しい職場、ゼムス行政館。
古びているが堅牢なその門を、私は迷うことなく押し開けた。
「失礼いたします。本日付で配属となりました、リュシア・エルフォードです」
受付のカウンターに歩み寄り、懐から辞令書を取り出す。
紙の端が少し折れているのが、長い旅路を物語っていた。
カウンターの中にいた女性職員が、気怠げに顔を上げる。
だが、私の顔を見た瞬間、その目が丸く見開かれた。
「あ、あの……エルフォード、様、ですね」
女性の頬が引き攣り、椅子を引く音が不自然に大きく響いた。
彼女の視線は私の顔と、手元の辞令書を何度も往復している。
そこにあるのは、明らかな恐怖だ。
猛獣か、あるいは爆発物を目の前にした時のような、本能的な拒絶。
王都での噂は、すでにこの最果てまで届いているらしい。
危険思想の令嬢。
爆発事故を起こした狂気の科学者。
それが、今の私の名刺代わりだ。
「はい。行政補助官として参りました」
私は表情を変えず、淡々と答えた。
ここで愛想笑いを浮かべても、彼女の恐怖を「不気味さ」に変えるだけだ。
誤解を解く言葉など、今の私には一リンの価値もない。
「あ、案内します。いえ、少々お待ちを。今、確認を……」
女性が狼狽えて立ち上がった時、奥の扉が開いた。
一人の男が現れる。
年の頃は二十代半ば。
仕立ての簡素な、だが手入れの行き届いた官服を着ている。
「騒々しいな。エマ、どうした」
男は低く、落ち着いた声で言った。
鋭い眼光が私を射抜く。
彼は私の姿を上から下まで一度だけ眺め、すぐに手元の書類に目を落とした。
私という人間ではなく、機能を確認するような目だ。
「……リュシア・エルフォードだな」
「左様です」
「カイル・ノーヴァンだ。長官が待っている。来い」
カイルと名乗った男は、それだけ言うと背を向けた。
案内を待つまでもなく歩き出す。
迷いのない足取りだ。
彼は私を怖がってもいなければ、侮蔑してもいない。
ただ、新しく届いた備品の検品を行うような、徹底して事務的な態度だった。
私は彼の背中に続いた。
廊下の隅には埃を被った木箱が積まれ、すれ違う職員たちは皆、疲れ果てた顔で紙束を抱えている。
王都の学術院のような優雅さは欠片もない。
「ここは王都のような社交場ではない。仕事ができなければ、明日には席がなくなる。理解しているか?」
カイルが振り返らずに言った。
突き放すような物言いだ。
根拠は、彼が歩く速度を一切緩めないことにある。
ついてこられない者は切り捨てる。
その明確な意思表示が、逆に私には心地よかった。
同情も軽蔑もいらない。必要なのは、能力を測る基準だけだ。
「望むところです。私は仕事をしに来ました」
私の返答に、カイルの足がわずかに止まった。
彼は一瞬だけ肩越しに私を見た。
その瞳には、小さな違和感が浮かんでいるように見えた。
泣き言も弁明も口にしない私を、測りかねているのかもしれない。
案内されたのは、廊下の突き当たりにある重厚な扉だった。
カイルが短くノックし、私を中へ促す。
「長官、連れてきました」
部屋の中は、紙とインク、そして微かな煙草の匂いで満ちていた。
壁一面の書棚。
机の上には、地層のように書類が積み上がっている。
その向こう側で、禿げ上がった頭を撫でながらペンを走らせる大男がいた。
辺境長官、バルトロメウス。
彼は顔を上げると、獰猛な熊のような笑みを浮かべた。
「ほう。それが噂の爆弾令嬢か」
開口一番の言葉に、カイルが眉をひそめた。
私は鞄を握る手に力を込め、姿勢を正す。
「不名誉な通り名ですが、否定はいたしません。結果として事故を起こしたのは事実ですから」
「潔いな。弁解の一つも聞かされるかと思っていたが」
長官は椅子を鳴らして立ち上がり、机の横にある巨大な木箱を革靴のつま先で叩いた。
ドスン、と重い音が響く。
「いいか。ここは王都から見捨てられた吹き溜まりだ。予算も人も足りん。思想がどうあれ、動く手があるなら俺は使う」
長官が顎で木箱を指す。
中には、紐で括られた古い書類が隙間なく詰まっていた。
紙の端が黄ばみ、埃の匂いが立ち上っている。
「過去三年の収支報告書の再検証だ。数字が合わんまま放置されている。期限は三日。終わるまで、君に次の仕事はない」
カイルが私を見た。
その目は「無理だ」と告げている。
一人の補助官が、三日で片付けられる量ではない。
これは試練というより、体好いいじめに近い。
できないことを証明して、早々に追い出すつもりなのだろうか。
私は木箱の前に跪き、一番上の束を手に取った。
指先に伝わる紙のざらつき。
乱雑に書き殴られた数字の列。
インクの滲みが、当時の担当者の怠慢を如実に物語っている。
「……承知いたしました」
私は立ち上がり、長官を真っ直ぐに見上げた。
噂を否定するために言葉を費やすのは無駄だ。
人は見たいものしか見ない。
ならば、見せればいい。
彼らが決して否定できない、完璧な成果を。
「三日後、修正済みの全リストを提出いたします」
言い切った私に、長官は一瞬だけ目を細めた。
値踏みするような視線が、私の覚悟を貫こうとする。
「……カイル、案内してやれ。彼女の席は、お前の隣だ」
長官の言葉に、今度は私が驚く番だった。
カイル・ノーヴァン。
冷徹な案内人の隣が、私の戦場になるらしい。
カイルは小さく溜息をつき、顎で「来い」と示した。
私は重い木箱を抱え上げる。
腕に食い込む重さが、これからの私の現実だ。
廊下を戻り、執務室へと入る。
カイルの隣の席は、窓際で陽当たりが悪く、机の上には薄く埃が積もっていた。
私は木箱を床に置き、鞄から使い慣れた布を取り出す。
まずは、自分の居場所を清めることからだ。
カイルが自分の席に座り、羽根ペンをインク壺に浸した。
彼は私を見ようともしない。
「期待はしていない。邪魔だけはするな」
彼の声は冷たい。
けれど、私は鞄の中にある計算盤に指先で触れ、小さく頷いた。
期待などいらない。
私は、私ができる最善を尽くすだけだ。
静かな才女は、埃っぽい紙の山を前にして、静かに闘志を燃やした。
この理不尽な山を崩したとき、彼らの目はどう変わるだろうか。




