第11話 白銀の街灯と掲示板の謝罪文
セドリックの背中が廊下の向こうへ消えていった時の、あの叫び声の残響は、もう私の耳には残っていなかった。
夕闇がゼムスの街を紫に染め始めている。
私はマリアを連れて、石畳の中央広場へと足を運んでいた。
一週間前の騒動など嘘のように、街は静かな期待に包まれている。
今日から、私が予算を再編し、カイルが資材を調達した「新型街灯」の稼働が始まるのだ。
手には記録用の帳面とペン。
これが、今の私が世界と関わるための唯一の武器であり、パスポートだった。
「……リュシアさん、見てください。あんなにたくさんの人が集まっています」
隣を歩くマリアが、弾んだ声で指差した。
広場の中心には、太い石柱の上に設置された魔法銀のランプを見上げる人だかりができている。
一ヶ月前、私がこの街に降り立ったとき、彼らの目は「爆弾令嬢」を見る恐怖と敵意に満ちていた。
石を投げられなかったのが不思議なくらいの拒絶。
けれど今、彼らの視線にあるのは、温かな熱と、明らかな敬意だった。
カチン、と小さな音が、冷たい空気を震わせた。
定刻。
中央制御室からの魔力供給が開始される。
次の瞬間、広場を取り囲む街灯が一斉に瞬き、柔らかな白い光を放った。
従来の油臭い黄色い光とは違う、澄んだ輝き。
それが雪の残る石畳を照らし出し、人々の顔を明るく浮かび上がらせる。
「わあ……明るい!」
「これなら夜道も怖くないわね」
歓声がさざ波のように広がり、冬の夜空へ溶けていく。
私は帳面を開き、点灯の安定性と照度の数値を書き込んだ。
ペン先が紙を走る感触に、確かな達成感が乗る。
予定通りの出力。魔力消費効率は一八パーセント向上。
数字が、現実の光となって街を照らしている。
「リュシア・エルフォード様ですね」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、恰幅のいい男性が帽子を胸に当てて立っていた。
広場で果物を売っている露店商の店主だ。
着任したばかりの頃、役所へ税の苦情を言いに来て、私の顔を見るなり「爆弾娘だ」と青ざめて逃げ出した男だ。
「はい。街灯の具合はいかがでしょうか」
私は身構えることなく答えた。
彼は照れくさそうに頬を掻き、足元の紙袋を差し出してきた。
「最高ですよ。おかげで閉店時間を一時間延ばせそうだ。……あの、これは、その。つまらないものですが」
ずしりとした重みの袋を受け取る。
中には、蜜の詰まった大きな林檎がいくつも入っていた。
甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
それは、王都の夜会で嗅ぐ香水よりも、ずっと生きる力に満ちた匂いだった。
「いつも助かっています。あんた、王都では色々言われてたみたいだが、俺たちはあんたの計算を信じてる。あんたが来てから、この街は本当に良くなった」
男はそれだけ言うと、深々と頭を下げ、足早に去っていった。
私は紙袋を抱え直し、その背中を見送った。
林檎の重みが、腕を通して胸の奥まで伝わってくる。
これは賄賂でも貢ぎ物でもない。
私が積み上げた「正しさ」への対価だ。
「……リュシアさん、驚いてます?」
マリアがクスクスと笑いながら顔を覗き込んできた。
「知っていますか? 今、街の皆さんはあなたのことを『賢者』って呼んでいるんですよ。爆弾なんて言葉、もう誰も使いません」
「賢者、ですか。大袈裟ですね。私はただ、数字をあるべき場所に整理しただけです」
「その『だけ』が、誰にもできなかったことなんですよ」
マリアの言葉には、迷いのない確信があった。
彼女の瞳に映る私は、もう「噂の令嬢」ではない。
この街に必要な機能としての、一人の主査だ。
役所に戻ると、執務室の空気が少しだけ張り詰めていた。
カイルが私の席の横に立ち、一通の書状を持って待っている。
彼の表情は、どこか晴れやかで、同時に少しだけ呆れたような色を帯びていた。
手にあるのは、王立学院の公印が押された特級親書。
父やセドリックからの私信とは違う、国の重さが乗った公式文書だ。
「リュシア。王都から『正式な』報せだ」
カイルから手渡された封筒は、分厚く、仰々しかった。
私はコートも脱がずに、ペーパーナイフで封を切った。
中の羊皮紙を開く。
そこには、事務的な文言がぎっしりと並んでいた。
『一ヶ月前の研究事故に関し、再調査の結果、リュシア・エルフォード氏の計算に過失はなかったことが判明した。事故の原因は納品業者の不正による触媒の不純物混入であり、当時の学院側の判断には重大な手続き上の誤りがあった。ここに氏の名誉を回復し、多大なる不利益を強いたことを深く陳謝する』
視線が文字を追う。
かつてあれほど欲しかった言葉たち。
白日の下の潔白。
事務局長が目を逸らし、セドリックが沈黙した、あの日の絶望に対する回答。
けれど、読み終えた私の心は、驚くほど静かだった。
計算の答え合わせが終わった後のような、淡々とした感覚しかない。
「……そうですか」
私は一通り読み終えると、それを丁寧に折り畳み、事務的な処理済み書類の山の一番下へ置いた。
コトリ、と軽い音がする。
それは、過去との完全な決別を告げる音だった。
「驚かないのか? 王都が公式に君の無実を認めたんだ。君を貶めた噂は、これで完全に消滅する」
「事実は最初から分かっていましたから。認めるのが一ヶ月遅かった、というだけのことです」
私の反応に、カイルは堪えきれないといった様子で吹き出した。
彼の笑い声が、緊張していた空気を解いていく。
「君らしいな。王都の連中は今頃、君を呼び戻すための口実を必死に考えているはずだ。名誉を返せば、君が喜んで戻ってくると思っているんだろう」
「戻りません。私の価値を、噂や他人の承認でしか測れない場所に、私の居場所はありませんから」
私は計算盤を引き寄せ、明日の物流計画の頁を開いた。
王都から届いた名誉の回復。
それは、私にとってはもう、済んだ計算の余りのようなものだ。
今の私には、この街の冬を越すための計算のほうが、遥かに重要度が高い。
「カイル。名誉回復の文書ですが、役所の掲示板にでも貼っておいてください。街の皆さんが安心する材料にはなるでしょう」
「掲示板か。王立学院の謝罪文をそんな扱いにした人間は、歴史上君だけだろうな」
カイルは可笑しそうに肩を揺らし、その文書を預かった。
受け渡す際、彼の指先が私の指に微かに触れた。
一瞬の接触。
けれど、その熱が、街灯の光よりも温かく私の内側を照らした。
「……よし。計算を続けましょう。街灯の稼働で浮いた魔力予算を、次は冬の防寒対策に回せます」
「ああ。君の言う通りだ、リュシア」
私たちは並んで席に着いた。
窓の外、新調された街灯が、ゼムスの街を明るく照らし出している。
人々の視線が変わるとき。
それは、かつて私を閉じ込めていた冷たい檻が、完全に消滅したときでもあった。
私はペンをインクに浸した。
もう二度と過去を振り返ることはない。
私の前には、私が描き出した、確かな数字の未来が広がっているのだから。




