第10話 綻びた袖口と助けない選択
父への絶縁状を投函してから三日が過ぎても、私の指先にはまだインクの匂いが染みついているような気がした。
朝の冷気が、役所の石造りの壁を伝って足元を冷やす。
私は新設された主査の机で、街の冬支度に必要な魔法銀の仕入れ価格を計算していた。
パチリ。
計算盤の珠を弾く音だけが、思考のリズムを刻んでいる。
この音がする限り、私は過去ではなく、今ここにいる自分を保っていられる。
「リュシア、ここの輸送路だが……」
隣で物流計画書を広げていたカイルが、不意に言葉を切った。
執務室の扉が、遠慮のない勢いで開かれたからだ。
「主査! その、王都から、アルヴァ家の……セドリック様と名乗る方が」
受付のエマが飛び込んできた。
彼女の顔は青ざめ、呼吸が乱れている。
「セドリック」という名を聞いた瞬間、私の指先が計算盤の縁を強く押した。
黒檀の硬さが、微かな痛みを返してくる。
その痛みが、私を冷静な現実に引き止めた。
「アポイントメントは?」
カイルの声が低く響く。
彼の眉間には、深い溝が刻まれていた。
「い、いえ。ですが、非常に切迫したご様子で……門番を押し退けるようにして」
私は計算盤を脇に避け、立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、戦闘開始の合図のように聞こえた。
逃げる必要はない。
ここで会わなければ、彼は執務の邪魔をし続けるだろう。
不確定要素を放置するのは、一番効率が悪い。
「応接室へ通してください。カイル、少し席を外します」
「……私も行く。君を一人にはさせない」
カイルの決然とした態度に、私は小さく頷いた。
彼の存在が、背中を押す風のように感じられた。
廊下を歩く数十秒の間、私は呼吸を整えた。
応接室の扉の前に立つ。
ノックもせず、私はドアノブを回した。
部屋の中央に、一人の男が立っていた。
セドリック・アルヴァ。
かつて私の婚約者だった男。
王都で見送った時、彼は完璧な貴族の装いで、遠くを見ていた。
だが今、目の前にいる男は、まるで別人のように見えた。
「リュシア……! やっと会えた」
セドリックが私を見て、駆け寄ろうとする。
カイルがさりげなく私の前に立ち、その前進を遮った。
壁のようなカイルの背中越しに、私はセドリックを観察した。
頬が扱け、目の下には濃い隈が張り付いている。
何より、あの完璧だった官服の袖口が擦り切れ、糸がほつれていた。
その綻びが、彼とアルヴァ家の現状を雄弁に物語っていた。
「アルヴァ卿。ここは公共の役所です。節度を持っていただきたい」
「……君は、ノーヴァン家の。邪魔をしないでくれ。僕はリュシアと話に来たんだ」
セドリックの声は震えていた。
彼は私を見つめ、縋るように手を伸ばした。
その指先が小刻みに震えているのを見て、私はかつて彼に向けられていた「愛情」という名のフィルターが、完全に消失していることを自覚した。
そこにいるのは、ただの困窮した男だ。
「リュシア、すまなかった! あの時の婚約破棄は、父に強要されたことなんだ。僕は君を信じていた。君がいなくなってから、学術院はめちゃくちゃだ。誰も君の計算を理解できない。プロジェクトは全て止まり、アルヴァ家も責任を問われている」
私は無言で彼の言葉を聞いた。
情報の整理を行う。
一つ、学術院が停滞している。
二つ、彼の実家が窮地にある。
三つ、彼はそれを「私の不在」のせいにしている。
全て、彼らの問題であり、私の問題ではない。
「それで、私に何を求めているのですか」
「戻ってきてほしい! 君が説明すれば、不純物の件だって、禁忌の研究の噂だって、すぐに払拭できる。父も、君を正式な妻として迎えると約束した。エルフォード家だって再興できるんだ!」
セドリックの言葉には、熱があった。
だが、その熱は私を想う情熱ではない。
泥沼に沈みかけた者が、手近な枝に掴みかかろうとする、生への執着だ。
彼は私を見ているようで、私という「機能」しか見ていない。
「セドリック様。お言葉ですが、今の提案には三つの致命的な欠陥があります」
私は一歩、カイルの横から前に出た。
セドリックの瞳に、期待の色が浮かぶ。
彼はまだ、私が以前のように彼の顔色を伺い、従順に頷くと思っているのだ。
その甘えが、酷く滑稽に見えた。
「第一に、不純物の件は一ヶ月前に私が報告した時点で解決可能でした。それを握り潰したのは、あなた方です。今更それを公表しても、組織の自浄能力の欠如を露呈するだけで、あなたの評価は上がりません」
淡々と事実を告げると、セドリックの顔から血の気が引いていった。
「第二に、私は現在、ゼムス役所の主査です。国家公務に就いている身であり、一貴族の家庭事情で職務を放棄することは背任行為に当たります。私に犯罪を犯せと言うのですか?」
「そ、そんなつもりじゃ……ただ、君の力が必要なんだ!」
「第三に」
私は彼の言葉を遮った。
その声を遮ることに、かつてのような躊躇いは微塵もなかった。
「あなたが求めているのは『私』ではなく、私の『能力』です。もし私が無能なまま追放されていたら、あなたはここまで馬車を走らせましたか?」
セドリックは口を濁らせた。
視線が泳ぎ、床に落ちる。
その沈黙こそが、最も明快な回答だった。
彼は答えられないのではない。答えを持っているが、それを口にすれば終わりだと知っているのだ。
「リュシア……頼む。このままじゃ、僕は……」
セドリックが力なく膝をついた。
かつての婚約者が、私の前で頭を垂れている。
王都では見上げることしか許されなかった彼が、今はこんなにも小さく見える。
けれど、私の胸に去来したのは同情ではなかった。
「助けなくていい」という、冷徹な確信だ。
「お断りします」
私は断言した。
言葉が、空気の中で氷のように固まる。
「私を助けなかったのは、あなたです。沈黙を選び、保身を選んだ。その結果、私はこの場所で新しい信頼を築きました。今の私に、あなたを助ける理由は一つもありません」
セドリックが顔を上げた。
その目には絶望と、信じられないものを見るような驚愕が浮かんでいた。
彼は初めて知ったのだろう。
リュシア・エルフォードという人間が、都合の良い人形ではなく、意思を持った他者であることを。
「終わりましたか。アルヴァ卿」
カイルが冷徹な声で告げた。
彼は扉を開け、外に控えていた警備兵に合図を送る。
その動作は、不要なゴミを掃き出すようにスムーズだった。
「部外者の滞在時間は過ぎました。お引き取りを。これ以上、我々の主査を困らせるなら、公務執行妨害として対処します」
「リュシア! リュシア……!」
警備兵に腕を掴まれ、セドリックが引きずられていく。
彼の叫び声が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。
扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻った。
私は深く息を吐き、自分の手を見つめた。
震えてはいなかった。
ただ、指先が少し冷たいだけだ。
「……良かったのか。リュシア」
カイルが、静かな声で問いかけてきた。
彼は私の顔をじっと覗き込んでいる。
そこにあるのは、非難ではなく、私の痛みを分かち合おうとする優しさだった。
「ええ。あれは私を助けに来たのではありません。私を使って、自分を助けようとしただけです。……助ける価値のない数字は、切り捨てるのが合理的ですから」
私の声は、自分が思う以上に強かった。
カイルは何も言わず、大きな手で私の肩を一度だけ、強く叩いた。
その温かさが、綻びた袖口の残像を洗い流していく。
「よく言った。……さあ、戻ろう。魔法銀の計算の続きが待っている」
「はい」
私は応接室を後にした。
廊下を歩く足取りは軽い。
私は「誰かを救わない」という選択をすることで、初めて自分自身を完全に救ったのだ。
過去の亡霊は消えた。
執務室に戻れば、そこには私を必要としてくれる、嘘のない数字たちが待っている。
私は計算盤に指を伸ばす自分の姿を想像しながら、カイルの隣を歩き出した。
この手で掴むべき未来は、もう決まっている。




