第1話 静かな左遷と冷めた紅茶
カップの中の紅茶は、もう湯気を立てることもなく、黒く澱んで冷え切っていた。
私はその水面を見つめたまま、目の前の男が並べる言葉を数えていた。
学術院事務局長室。
重厚なマホガニーの机を挟んで、かつては私の論文を絶賛していた中年の男が、一度も私の目を見ずに書類を滑らせてくる。
「――ということで、君の処遇が決まった」
男の指先が、紙の上で止まる。
インクの匂いがした。
決定事項特有の、冷たくて乾いた匂いだ。
「辺境都市ゼムス。そこでの行政補助官だ」
「行政補助官、ですか」
喉の奥が張り付いたように乾いているが、声だけは平坦に出た。
補助官。
聞こえはいいが、実態は雑用係だ。
王都の学術エリートが送られる場所ではないし、そもそも研究職ですらない。
「一ヶ月前の事故、あれは看過できない」
「事故の調査報告書は提出しました。魔力の暴走は私の計算ミスではなく、触媒の不純物が原因です」
私は事実だけを口にした。
感情を乗せれば、彼らはそれを「ヒステリー」と呼ぶだろう。
だから私は、計算盤を弾くような正確さで言葉を選んだ。
「根拠がない。それよりも、君が禁忌の術式を研究していたという噂が問題だ。火のない所に煙は立たないと言うだろう?」
事務局長は鼻を鳴らし、追い払うように手を振った。
根拠なら、あの報告書に全て記した。
不純物の混入経路も、納品業者の帳簿の矛盾も。
けれど、彼は一度もその頁を捲らなかった。
閉ざされたファイル表紙の厚みが、組織の拒絶そのものに見える。
「……承知いたしました」
反論はしない。
辞令書を受け取る指先に、紙の縁が鋭く食い込んだ。
この部屋に足を踏み入れた瞬間、結論が出ていることは分かっていた。
私は椅子から立ち上がり、一礼する。
背後で、事務局長が小さく安堵のため息を漏らすのが聞こえた。
その音は、私が不要になった備品として処理された完了の合図だった。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を刺す。
石造りの壁に反響する足音が、ひどく大きく聞こえた。
窓の外では、王立学院の学生たちが楽しげに談笑している。
彼らの視線が私に向く。
ヒソヒソという低い声が、さざ波のように寄せては返した。
視線が肌にまとわりつく。
不快感を振り払うように、私は歩調を速めた。
学院の重い扉を押し開け、外の光の中に踏み出す。
正門前に、見覚えのある馬車が止まっていた。
アルヴァ家の紋章。
青い塗装が午後の日差しを反射して輝いている。
その傍らに、婚約者であるセドリック・アルヴァが立っていた。
彼は遠くの空を眺めていたが、砂利を踏む私の足音に気づくと、肩をびくりと震わせた。
「リュシア」
「セドリック様」
私は彼の前で足を止めた。
二人の距離は、手が届くほど近いのに、彼は数歩下がったような顔をしている。
整った顔を歪め、何かを言いかけ、そして口を閉じた。
その視線は私の顔ではなく、私の肩の向こう側を彷徨っている。
「辺境へ行くことになりました」
「……そうか」
「噂について、何かお話ししたいことはありますか」
私は問いかけた。
彼なら、私の研究内容を知っているはずだ。
私が一度も、国を害するような術式に触れていないことも。
彼が「彼女はそんな人間ではない」と一言言えば、事態は変わっていたかもしれない。
セドリックは、固く拳を握った。
白い手袋が軋む音が聞こえるようだった。
「……今の僕には、何もできない。君を庇えば、アルヴァ家まで疑われる」
「左様ですか」
私は頷いた。
胸の奥で、何かが静かに冷えて固まっていくのを感じた。
責めるつもりはなかった。
彼はそういう人だ。
波風を立てず、安泰な道を歩むことを最優先にする。
その彼にとって、今の私は重荷でしかない。
「お達者で」
私はそれだけ告げて、彼の横を通り過ぎた。
「待ってくれ」という言葉は聞こえなかった。
ただ、石畳を叩く自分の靴音だけが、虚しく響いていた。
背中で感じる彼の気配が消えたとき、私の中で王都への未練もまた、完全に消え失せた。
家に戻ると、執事が銀のトレイに乗った一通の手紙を差し出してきた。
父の筆跡だ。
封を切る手が、わずかに震えるのを止めた。
『エルフォードの名を汚した娘を、当主として勘当する。二度と敷居を跨ぐな』
短い言葉。
インクの濃淡に、迷いのなさが滲んでいる。
学術貴族としての誇りが、娘への情愛を上回った結果だ。
私はその手紙を丁寧に折り畳んだ。
暖炉の前まで歩き、赤々と燃える炎の中へ投げ入れる。
紙がチリチリと音を立てて黒く丸まり、灰へと変わっていく。
その熱が頬に伝わるとき、ようやく私は、自分が一人になったことを実感した。
荷造りは、一時間で終わった。
豪奢なドレスも宝石も置いていく。
必要なのは、最小限の衣類と、研究ノート。
そして、愛用してきた計算盤だけだ。
革鞄の重みが、ずしりと肩に食い込む。
これが、今の私が持つ全財産であり、全責任だ。
手配された乗合馬車は、貴族用とは違って座席が硬かった。
ガタゴトと、車輪が回り始める。
窓枠の向こうで、王都の街並みがゆっくりと遠ざかっていく。
尖塔も、石畳も、華やかな店先も、すべてが過去の景色になって流れていく。
「お嬢さん、そんな薄着で辺境へ行くのかい? あそこは風が冷たいよ」
隣に座っていた老婆が、私を不審そうに見た。
彼女の目は、噂を知る王都の人間の目ではなく、ただの旅人の目だった。
それが、少しだけ心地よかった。
「ええ。慣れるようにします」
私は微笑んだ。
鏡を見ていないが、おそらく酷く冷めた笑い方だっただろう。
理不尽だとは思う。
けれど、叫んでも喚いても、事態は好転しない。
実績を奪われたのなら、新しい場所で積み上げるだけだ。
信頼は奪われるものではなく、与え続けた結果として得られるもの。
私は鞄の中のノートを強く握りしめた。
硬い表紙の感触が、私にまだ戦える力が残っていることを教えてくれる。
馬車が街道を北へ向けて速度を上げる。
静かな才女は、もう王都を振り返らない。
これからは、噂の届かない場所で、私自身の価値を証明するのだ。




